文部省文化財保護委員会が昭和34年度から37年度まで4ヵ年計画で始めた7、8月の秋田城跡発掘調査は、秋田県にとって大湯環状列石以来の大規模な発掘調査であった。
発掘施行責任者(団長)は大湯環状列石調査の文化財保護委員会斎藤忠先生で、内藤政恒、福山敏男、板橋源、三宅敏之、田村晃一、大川清、坂詰秀一、岩崎卓也、西野元、氏家和典先生等々のそうそうたる歴史考古学・古建築の先生が調査関係者として来秋、発掘調査を行ったのである。
私は秋田県文化財専門委員の秋田大学半田市太郎先生のおともとして発掘調査に参加した。秋田城跡の所在する高清水丘陵は広大で、遺構の上には厚く飛砂が堆積しており、発掘地点は丘陵上に分散していた。そのため、砂の排除と各地点の連絡に陸上自衛隊秋田駐屯部隊と電信小隊が参加し、発掘調査に多大な便宜を供された。
初年度は、護国神社南グランド地区の発掘調査に従事した。東西線上に設定された長い第1トレンチの表土の飛砂を、三班編成の60名から成る自衛隊員が、市販のものよりひとまわり大きいスコップを使い、10分交代でトレンチ外へ排出するその馬力に驚いた。トレンチ内からは13個の柵列の掘り方と建物の屋根の棟を葺いた「のし瓦」などがまとまって出土したことが記憶に残っている。
次年度は、後年日本考古学協会会長に就任された東京教育大学の岩崎卓也先生の班(焼山地区担当)で御指導をいただいた。ここでは広い畑地一面から東西に長い倉庫と考えられる大きな掘立柱建物跡を検出することができた。真夏の砂地での調査は、強い日射のため発掘面がすぐ白っぽく乾燥し、遺構の確認がなかなか難しかったと記憶している。岩崎先生は昼休みを利用して、しばしば私達班員を他班の発掘の見学に連れていって下さった。大小路の田村晃一先生の調査地を訪れたところ、ここはトレンチ調査ではなく、畑一面に碁盤の目のように白い水糸でもって3メートル四方の方眼が組まれており、数箇所が坪掘りされていた。今で言うところのグリッド調査である。このような調査方法を採用するのは東大の先生に多いと岩崎先生が話されていた。
護国神社の北方にある伊藤永之助碑の近くの調査地では、トレンチ砂層の下に粘土で築かれた土塁状の高まりがあり、その急斜面に破損瓦が多数顔を出していた。東北の古代城柵でも築地土塀が造成されていたということが判明していなかった時代だったので、「破損瓦を埋め込んで丈夫に、堅固に造った土塁」という担当者の遺構の説明であった。
高名な先生の発掘調査を実見し、学びの毎日であった思い出深い国営発掘調査の一端を紹介させていただいた次第である。