増田町の旅館に泊まりこんで平鹿遺跡の発掘を始めたのは、1982年の、まだ寒い風の吹きつける4月半ばのことであった。現場は成瀬川近くのリンゴ栽培も盛んな水田地帯である。調査が終わり次第、稲の作付けをするという一角が調査範囲内にあったので、真っ先にそこに手を付けた。深く掘り下げたので田植え機械は入れない。そこで手植えをすることになった。それには私も加わって、型枠を転がしてから作業員さんたちと並んで田植えをした。ぬるりとして冷たい泥田の中に裸足で下りて、よろめきながらも苗を植える作業を体験したのは、私の場合、後にも先にもこの時だけである (写真)ヾ(´_`)ノ。
遺跡の土層は、現在の水田の耕作土を剥がすとすぐに耕地整理前の畦畔や水路が現れる。何十年か前の水田で、瀬戸物のかけらも混じっている。かまわずに掘り下げていくと、縄文晩期の遺物包含層に突き当たる。耕地整理前の畦畔はあちこちに残っていて、深い水路は縄文晩期の遺構を容赦なく破壊していたりすることもあったが、精査していくうちに、妙なものが見えてきた。酸化鉄の沈殿による細く赤茶色の線が2本並んでいて、その間に縄文晩期の土器埋設遺構がある。赤茶色の線はやがて少しカーブしてから直角に曲がり、もう一本の線はその反対方向にカーブしてからこれも直角に曲がっている。これも水田だ。平行する2本線の間は畦畔で、土器埋設遺構はそこが耕作を受けなかったので壊されずに残ったものと理解された。しかし、それまでの水田とは少し趣が異なって、なんとなく古そうにも感じた。1枚ごとの水田はとても小さいが、調査範囲の北西部に、何枚かの水田がある程度の拡がりを持っているかのようであった。すぐ近くには平安時代の竪穴住居や土坑がある。それらの遺構の埋土には十和田a火山灰が堆積し、出土した土器からもその年代は9世紀末から10世紀初め頃であることがわかる。
1982年といえば、仙台平野で各時代の水田跡が折り重なって検出され始めた年であり、津軽平野の垂柳遺跡では前年に確認された弥生水田の本調査が始まった年でもある。しかし不幸にも、今自分が立っている遺跡の足下に、そうした古い時代の水田跡の存在を見通す力は、その時の私の頭のどこにもなかったのだ。少し毛色の異なったそれら何枚かの水田跡が、弥生時代や平安時代まで遡るものかも知れないなどということは、その時にはつゆ夢想だにすることもなく、ただ漫然と何十年か前の水田と一緒くたにして処理したのである!((((;゚Д゚ ))))。
垂柳遺跡の水田は平鹿遺跡の調査が終わってから見学に赴いた。担当の遠藤さんの説明を聞きタワーに登って眺めると、津軽平野に整然と並ぶ弥生水田が一望され、その堂々たる姿には心から感動を覚えた。だがしかし、それでも平鹿遺跡のあの水田とそれとを結びつけたり、検出された平安の竪穴住居と関連づけてみることは全く思いもよらない事であったのである。ああ、あの時のあの水田はもしかしたら古い時代のものかも知れないと、はたと思い至ったのは、それから何年か経ってからのことである。なんと間抜けで愚かなことであろうかか経ってからのことである。なんと間抜けで愚かなことであろうか( ̄ω ̄)。
平鹿遺跡では砂沢式期の土器も出ているが、それはごく少数で出土地点も限られているから、水田跡は弥生時代のものではないだろう。とすれば、9世紀末から10世紀初め頃の竪穴住居に住んだ人たちが営んだ水田か。
2001年になり、由利本荘市の横山遺跡では竪穴住居の近くにある平安時代の水田や水路が検出された。平鹿遺跡の水田はそのあり方とよく似ている。年代も一緒だ。その後、大仙市の半在家遺跡でも同じ頃の水田が見つかったし、長く半世紀の間埋没家屋とされてきた男鹿市小谷地遺跡の遺構は、農業用の灌漑堰であることが新たな調査によって判明した。横手盆地や海岸部の平野において、平安時代に稲作農業がかなり定着を見せていたことは、今や秋田県の歴史的事実となって揺るぎない。発掘調査の面目躍如と言うべきである。
しかし平鹿遺跡を掘っていたあの時に、そこで見たあの水田跡を、もしや古代のものかという少しの疑念を持って見ることができていたなら、あるいは、どこの人でもいい、その状態を正しく認識のできる誰かが現地を見てくれたなら、仙台と津軽の平野で古い時代の水田跡が続々と白日の下に姿を晒し始めたその年に、秋田の横手盆地では平安時代の水田跡が同じように日の目を見ていたかも知れないのだヽ(゚∀゚)ノ。
浅はかな予断を持って事にあたることがいかに危険か。そして、自分の目でよく土を見てじっくり考えること。同時に他の人からも見てもらって考えを聞くこと。当たり前のそれらのことがいかに大切か。そのことは、その後12年間担当した払田柵跡の調査でも否応なしに体験することになる。
無知と偏見に基づく無様な失敗談を掲げ、真摯に遺跡の発掘に取り組む人たちのお笑い草に供したい。ああ、そういえば、泥酔した旅館の相客と、夜中の2時過ぎに、犬に吠えられながらパジャマ姿で増田の街を歩いたことがあった。それもセピア色に霞む、遠く懐かしい思い出話ではある( ̄▽ ̄)’。