昭和61年、鹿角市西山地区の遺跡調査を担当した。遺跡は山深いところのやや急な斜面下に広がる狭小な平坦地であった。調査開始後まもなく、斜面の裾部周辺から異様な程多量の鉄滓(製鉄過程において、原料としての砂鉄に含まれる不純物が溶融分離し、炉外へ排出されたもの)と焼け土が確認された。急きょ斜面にトレンチを入れると、これまた多くの鉄滓が出土し、焼土の他、加熱されてまっ赤になった粘土塊が大量に検出された。このため、当初予定外であった斜面も調査の範囲に加えることにした。斜面はなかなかに傾斜がきつく、かっては山林であったため伐根には苦労したが、今まで経験したことの無い性格の遺跡だけに、気持ちが高揚してくるのを感じていた。
遺跡は古代の鉄生産遺跡で、時代は平安時代中期の10世紀頃と判明、13基の製鉄炉と付属する作業場、炉体の構築に必要な粘土を採掘した採掘坑等が検出され、周辺には原料とした砂鉄の路頭も確認された。製鉄炉は、操業の最終段階で粘土で構築された炉本体を壊し、炉底の鉄塊を採取した後のものと思われた。最初の確認段階では、炉は崩壊した炉体粘土が積み重なり、不整形な塊となっていた。これを不要な部分を取り除き、残存している原形を現すまでの精査が大変で、根気のいる作業であった。
当時鉄生産関連の遺跡が全国的に確認され始めており、中でも古代に属する製鉄遺跡が注目されていた時でもある。しかし秋田では単体での製鉄炉が幾つか検出されてはいたが、鉄生産遺跡そのものが確認された例はなかった。初めての事例ということになる。
調査終了後現地に立ち、現在は静寂そのもののこの山あいの地で、約一千年前もの昔、多くの工人が声高に叫び合い、忙しく動き回り、タタラがいたるところ煙と炎を吹き上げていた様を思い浮かべながら、何かしら感動じみた思いにとらわれたことを覚えている。
堪忍沢遺跡製鉄炉