平成17年度は、秋田県埋蔵文化財センターから中国甘粛省へ2名の交流員が派遣され、甘粛省との合同発掘調査への参加など様々な活動を行いました。
ここでは、派遣当時に二人から届いた近況報告と、2人が甘粛省で見聞きした中国の文化などについて紹介します。
※赤い字は、管理人による補足説明部分です。
※[ ]内は中国で使われている漢字で合わせて1文字となります。
平成17年度 秋田県側交流員紹介
派遣期間:平成17年4月26日~11月25日
谷地 薫
秋田県埋蔵文化財センター
南調査課 学芸主事
藤田 賢哉
秋田県埋蔵文化財センター
中央調査課 学芸主事
第1号 中秋節に思う
9月19日(月) 晴れ 涼風
朝、いつもどおり通勤バスに乗り出勤。
今朝は昨日の心地よい疲れが残り、起きるのがちょっと遅くなってしまった。
昨日9月18日(日)は、中国では中秋節。中秋の名月を祝う日だった。
文物考古研究所(考古所)の楊恵福所長夫妻が、私たち交流員や考古所職員数名を蘭州市の南の山頂にある欧風リゾートに招いて、観月の宴を開いてくれた。
午後3時に会場に着いた後、庭園内のテーブルでトランプ、麻雀に興じ、6時30分から観月宴。
中国では、中秋節に親しい人に月餅を送る習慣がある。
(※月餅とは、中国風の焼き菓子です。日本でも中華街などで売っていますね)
中秋節の贈答品用の月餅は、日本のお歳暮、お中元のように立派な箱入りの高価なセットがたくさん売られている。
私たち交流員も楊所長から立派な月餅のセットをいただいた。
時間の経つのも忘れておおいに楽しみ、帰宅したのは夜11時だった。
夜は雲が多く小雨混じりで、残念ながら名月をめでることはできなかった。
ところで、9月18日は中国にとって重要な「918事変」の記念日である。
日本でいう「満州事変」だが、今年は偶然中秋節と重なった。
中国の人たちは、現代の日本人が日中戦争の事実を正しく知っているかどうかにとても関心があるようだ。
これまでの歴史を理解した上で、経済活動など現実の日中関係はますます継続発展させて将来にわたり良い関係を維持していこうと考えているように感じられる。
日中間の近現代のできごとを「知らないままで」とか「水に流して」ではなく、「それはそれとして共有しつつ」現実にはおおいに仲良くしていこうということだろう。
宴では今年の合同発掘、私たちの生活ぶり、中国と日本の習慣の違い、これまでの交流員のエピソードなどでおおいに盛り上がり、
最後は楊所長の「中秋愉快、為了永遠和平、乾杯」でお開きとなった。
さて、私たち交流員は、明日から5泊6日の予定で敦煌、陽関、玉門関、嘉峪関の視察へ行く。
私達交流員の開いている日本語教室の唯一の生徒である潘玉霊さんがこの視察を引率してくれることになり、列車の切符手配などで忙しくしている。
私たちは特に事前準備もなく、考古の文献を見たり、発掘データの整理を継続する。
昼休みはいつも通り卓球で汗を流す。
今日は謝焱さんが来て、勝ち抜き戦。
謝さんは卓球の名手である
試合ではラケットを利き手の右手から左手に持ち替えて相手をしてくれるが、なかなか勝てない。
3時間の昼休みのうち半分を卓球で過ごし、気分爽快。
(※北京や上海とは違って中国内陸部では、まだまだ日本よりも昼休みが長いようです)
終業間際、9月分の生活費を受け取る。明日からの視察旅行のお土産購入資金でもある。帰宅後、荷物の準備。明日は、午後4時半の寝台列車で出発だ。
視察先もさることながら、中国大陸の汽車の旅も楽しみである。
(谷地)
第2号 敦煌紀行 1日目
9月20日(火) 在蘭州市: 夜半の雨はあがったが、肌寒い曇り空
《敦煌研修紀行 第1日目》
今日から5泊6日で敦煌方面への視察へ出かける。うち2泊は寝台車の車中泊だ。
一行は谷地、藤田の交流員2名と引率の潘玉霊さん。
潘さんは資料室担当の若い女性職員で、昨年考古所に入り1月に結婚した新婚さんである。
午後3時30分、考古所を出発し蘭州駅へ。
駅前のスーパーで夕食と明日の朝食の買い出し。
夕食はカップ麺と鶏の丸焼き、朝食はパン、牛乳。それにりんご、瓜子(ひまわりの種)。
藤田はウイスキーも用意した。
午後4時25分蘭州発ウルムチ行きの特快列車、硬臥車(日本のB寝台)に乗車。
列車の構造は日本の寝台車と同じだが、ベッドは3段式。
下段は高さがありゆっくり座れる。中段は高さが狭く、上段は屋根の丸みの分さらに狭くなる。それぞれ値段も違う。寝具は各ベッドに枕と掛け布団。
日本の寝台車では各ベッドごとにカーテンがあるが、中国ではそれがない。
向き合う6人分で一つの区画になり、お湯のポットが一つ備えられている。
私たちは3人とも中段で、谷地と藤田が向かい合い、潘さんは隣の区画へ。
列車内はとてもきれいで、出入口の上には電光ニュースもある。
車室内は全面禁煙。喫煙はデッキのみ。
各車両には給湯設備があり、お湯は自由に飲める。
中国では生水は飲まない。
伝統的にいつも瓶子(小さな水筒)を持ち歩き、公共施設や大きな商店などではお湯を注ぎ足すサービスを受けることができる。
最近はペットボトル入りの水や飲料がどこでも買えるので、あまり水筒を持ち歩かなくなったようだが、汽車の旅では水筒が便利である。
列車の乗務員は各車両ごとに一人ずついて、検札しながら乗車券をプラスチックのカードと交換していく。
目的駅に到着前に、乗車券と引き替えつつ下車の案内をしてくれるのだそうである。
発車後、蘭州市西部の西固区の工場群を過ぎると荒れ地の中に農村が点在する風景が続く。
合同発掘調査で行き来した武威市までは国道と鉄道が併走するので、見覚えのある風景である。
鉄路は古代のシルクロードに沿って延びている。
金城(蘭州)から涼州(武威)、甘州(張液)、粛州(酒泉)、瓜州(安西)を経て沙州(敦煌)まで約1200㎞の旅。
古代にはいったいどのくらいかかったのだろうか。
今は鉄道で14時間である。
車中では、谷地、藤田の片言の中国語、潘さんの片言の日本語それに筆談。
雰囲気で通じている会話である。
時々、車内放送で音楽やラジオ番組が流れる。
それがいつの間にか消え、しばらくするとまた流れる。
特に規則性はないように思われ、不思議である。
夕食は、カップ麺と鶏の夕食。
日本人2人は「箸がない」と慌てたが、潘玉霊さんは余裕の表情。
カップ麺を開けたら、中に具やスープと一緒にプラスチックフォークが入っていた。
鶏の丸焼きを手でほぐし、むしゃむしゃと食らう。美味。
明朝6時、敦煌駅到着の予定である。
(谷地)
第3号 敦煌紀行 2日目
9月21日(水) 在蘭州市: 快晴 早朝は少し寒かったが日中は暑くなる
《敦煌研修紀行 第2日目》
朝6時20分、柳園鎮にある敦煌駅に到着。外はまだ真っ暗。
改札口を出ると人だかり。口々に大声で「莫高窟」、「鳴沙山」などと叫んでいる。
タクシーの運転手たちの客引きである。
私たちも数人に囲まれ勧誘された。潘玉霊さんは運転手たちと値段の交渉。
莫高窟まで150元の言い値に対し120元に値切る。
しかし、運転手もさるもの、もう一人客を見つけてきて相乗りとなった。
どこまでも続く荒野の直線道路を一路敦煌市へ。140㎞、2時間の道のりである。
8時20分、敦煌市に到着。相乗りの客は下車。
運転手は莫高窟に行く一人客を捜してなかなか発車しない。
潘さんは別の運転手を見つけ車を乗り換えて出発。
9時30分、ようやく莫高窟前に到着。
駐車場前で、領収書を出すよう運転手と交渉しているうちに、路政(陸運)当局のパトロール隊が来て、なにやら厳しい雰囲気に。
一度支払った料金を私たちに返させ、隊員が車を運転して運転手を連行して行ってしまった。
無許可の白タクだったらしい。
敦煌研究院の孫勝利さんの出迎えを受け、莫高窟へ。
孫さんは潘さんの大学同級生で、敦煌研究院で資料管理や修復に携わっているとのこと。
莫高窟周辺はこの10年間ですばらしく整備され、新しい陳列館がオープンしていた。
莫高窟前の橋は大きなコンクリート橋になり、みやげ屋や休憩所が立ち並ぶ長い園路もできていた。
午前中は普通窟の見学。
交流員の2人には日本語ガイドの杜冬梅さんが同行した。
杜さんは日本語を2年間勉強したそうだが、とても聞きやすい日本語だった。
中央の大仏がある96窟、5万巻の敦煌文書が秘蔵されていた17窟など11窟をゆっくりと見学した。
午後は再び杜冬梅さんの案内で特別窟へ。途中、大勢の日本人団体客と出会う。
唐代の仏像と壁画がもっとも良く残る45窟、唐代の美人を模した菩薩像の壁画があり美人窟と呼ばれる57窟、晩唐の敦煌地方の風俗が壁画に描かれた156窟、唐代の涅槃像がある158窟の4窟を見学した。
その後、杜さんの案内で扉の閉じている53窟へ。
中を覗くと、孫さんほか7、8人が壁画の修復作業中だった。
剥離しそうな壁画に注射器で接着剤を注入し表面から抑える作業や壁画の表面に付いた汚れを少しずつ除去する作業をしていた。
世界遺産、敦煌莫高窟の壁画修復作業を直に見ることができ、感激する。
買い物の後、陳列館を大急ぎで見学。
館内には文書など出土遺物のほか石窟の実物大復元が5窟並ぶ。
見応えのある展示である。
午後6時、敦煌芸術院の通勤バスに乗せてもらい敦煌市へ。
通路をはさんで座席が3列と2列に別れている80人乗りくらいの大型バスだが満席だった。
ちなみに研究院には職員が約500人いるそうである。
夕食は敦煌驢肉黄麺。
固茹での麺の上に味噌味のミートソースがかかり、別に注文した驢馬(ロバ)肉と一緒に食べる。
スパゲティーミートソースにそっくり。
孫さんはシルクロードを通ってマルコポーロがイタリアから伝えたのだろう、と笑っていた。
敦煌はそういう話が現実味を帯びて聞こえる所である。
夕食後、敦煌名物の夜市へ。
露天の果物屋や雑貨屋、小さな食堂などがたくさん並びとてもにぎやか。
明朝の朝食はここにしようと決める。いろいろな種類のブドウをたくさん買ってホテルへ。
(谷地)
第4号 敦煌紀行 3日目
9月22日(木) 在敦煌市: 快晴 直射日光は強いが日陰は涼しい
《敦煌研修紀行 第3日目》
朝7時30分、朝食のため昨日の夜市の食堂街に行ってびっくり。
食堂も露天の店もすべて消え失せていた。
小学生に教えてもらい、羊肉のスープにちぎったパンを浸して食べる羊肉泡[食莫]
の店で朝食。
敦煌市博物館に付館長を訪ね、馬運転手の車でシルクロードを西へ。
陽関へ向かう。敦煌市郊外で車窓から見えた「敦煌古城」は、日本映画「敦煌」のロケセットとのこと。
もぎ取り葡萄園と農家レストランの村を通り過ぎ、9時30分、陽関博物館に到着。唐の詩人、王維の詩の一節「勧君更尽一杯酒、西出陽関無故人」にちなんだ巨大な王維の像が出迎える。
日本語ガイドの趙静さんの案内で2年前にオープンした陽関博物館を見学。
漢代の屯営の実物大復元の中に展示施設がある。
観光客の興味を持続させながら見学させる工夫が随所に見られ、岩手県の江刺藤原の里のような感じである。
古代の役人に扮した人から陽関通行証の木簡(30元)を買い、名前、日付を記入してもらう。
陽関の遺跡はここから2㎞ほど先の地中に埋まっている。
今残っている烽火台まで観光馬車に揺られて往復する。
展示施設に戻ると陶器工房、絨毯工房、広い売店へと案内された。
それまで急ぎ気味で案内していた趙静さんは売店に来ると「一休みしましょう。」
店員が寄ってきて日本語で絨毯、おみやげ品の売り込み。
陽関博物館はいかにも日本人観光客をターゲットにした造りである。
車に戻ると、馬運転手が近くから葡萄を買ってきてくれていた。
砂漠の葡萄は甘くておいしい。
11時30分、陽関を後にし、玉門関へと向かう。
12時30分、玉門関に到着。玉門関と漢代の長城を見学する。
陽関と違い観光客の目を引く施設はないが、2000年前の玉門関と長城が荒野の中に見事に残っていて、その迫力に圧倒される。
王維の詩「関を出ずれば故人無からん」の心細さ、惜別の重さを実感する。
午後2時50分、玉門関を出発し敦煌市へ。
夕方、夜市の食堂で腹ごしらえの後、鳴沙山・月牙泉へ。
市郊外までは路線バスに乗る。
バスでは、乗客が料金を払っておつりをもらおうとしたら、運転手が運転しながら札束を投げ出し、おつりを数えてもって行けという。
国際観光都市ののどかな一面をかいま見る。
郊外でタクシーに乗りかえると、立派な4車線道路を一直線に走り10分で到着。
5時40分、ゲートを入場。
快晴の空の太陽も西に傾き、鳴沙山は陽光に光り輝く峰と影のコントラストがとても美しい。
ゲート内には客を待つ100頭以上の駱駝の群。
砂漠を歩いてみたいのと高額(一人片道60元)なのとで、駱駝には乗らず、歩いて月牙泉へと向かう。
途中、大きな池があり月牙泉かと思いきや人造湖。本物の月牙泉は意外に小さかった。
15年ほど前に月牙泉の脇に建てられた亭は古色を帯び、いかにも昔からあるように風景に収まっている。
砂山の頂上から飛ぶ有料のハンググライダーも営業していた。
私たちは、潘玉霊さんの後に続いて鳴沙山に登る。
ようやく山頂にたどり着くと、太陽は既に沈み、黄昏しだいに濃く、空を写した月牙泉が砂漠の中でそこだけ輝いて美しい。
山頂で月の出を待つこと2時間半、明星が次第に輝きを増し、やがて満天降るような星空に。
月牙泉の上に北斗七星、頭上に銀河。砂に寝ころび、星の光を身体いっぱいに浴びる。
月を見ることはできなかったが、夜9時、鳴沙山を下山。
敦煌市に戻り夜市で2度目の夕食は[食昆]飩(スープ餃子)と肉夾[食莫](中国式ハンバーガー)。
10時20分ホテル着。靴の中にはまだ鳴沙山の砂がどっさり入っていた。
(谷地)
第5号 敦煌紀行 4日目
9月23日(金) 在敦煌市 嘉峪関市: 晴天微風 朝夕は肌寒い
《敦煌研修紀行 第4日目》
朝7時30分、昨日同様、羊肉泡[食莫]の朝食。
その後、敦煌市博物館に行き展示を見学する。敦煌付近の出土品を集めた展示である。
8時40分、李副館長にお礼のあいさつをし、タクシーで柳園鎮の敦煌駅へ出発。
運転手はとても話し好きで、到着までの2時間、ずっと潘玉霊さんと話をしていた。
潘さんはかなり疲れたらしい。私たち二人はほとんど寝ていた。
柳園鎮まで40㎞くらいのところで、大型トラックの運転手に呼び止められる。
前輪のホイールが壊れて走行不能らしい。
タクシーにその運転手を乗せ、壊れたホイールを積んで柳園鎮へ向かう。
困ったときはお互い様、気軽に助け合う雰囲気である。
10時50分、敦煌駅に到着。
切符と昼食を購入し、11時40分発の汽車に乗る。
潘さんが買った切符は硬臥車(B寝台)。昼汽車で寝台車とは意外だった。
でも、ふだんの勤務でも昼休みが3時間あり、ほとんどみんな昼寝をしている。
昼寝の習慣を考えれば当然の寝台車である。
外の風景はどこまでも続くゴビ。
ゴビは石ころだらけの荒地のことで、砂の砂漠とは違う。
車中でカップ麺の昼食をとり、あとは昼寝。列車に揺られ心地よい。
午後4時半ころ小さな駅に到着し、そのまま1時間以上停車。
発車して40分で嘉峪関駅に到着。不思議なダイヤである。
嘉峪関駅からタクシーで市中心部にある雄関賓館へ。
嘉峪関市は道幅が広く、街路樹が茂り、街並みが美しい。
街路が広いせいか、人も車もまばらな感じがする。
中国の城市に共通する喧噪が感じられず、透明感のある静かな街である。
18時30分、夕食のため街へ。
ホテルから西に行けども行けどもブティックばかりで、食堂がない!
中国の街なら少し歩けば必ず面館(ラーメン屋)や包子館(肉まん屋)があると思っていたが、美しい街並みの嘉峪関市ではそれがない。
路上の物売りもにぎやかな市場もない。
しかたなくホテルに引き返したら、ホテルのすぐ隣がレストランだった。
このレストランでは注文した料理がなかなか来ない。
純朴そうな服務員(ウェイトレス)たちは「もうすぐ」、「もうすぐ」と言うだけ。
来た料理の味は濃い味で塩辛かった。
(谷地)
第6号 敦煌紀行 5日目
9月24日(土) 在嘉峪関市: 快晴 弱風さわやか
《敦煌研修紀行 第5日目》
朝8:30、ルームサービスの朝食は、おかゆ、食パン、花巻(マントウの一種)、ゆで卵、牛乳、おかずの涼菜5種。
9時、嘉峪関長城博物館のワゴン車が迎えに来てホテルを出発。
9時15分、嘉峪関の関城に到着。嘉峪関は明代の長城の最も西にある。
3重の空間構造になっている関城もそれにつながる長城もきれいに修復されている。
トンネルのような入り口を通り中に入る。
関城上部の回廊にのぼると、見渡す限り石ころだらけの荒地(ゴビ)である。
遠くには万年雪をいただいた祁連山脈が美しい。
回廊上では、有料で地上の的に向かって矢を射る場所があり、藤田が挑戦した(1本1元)。
昔日の攻防を思い描きながら10本の矢を放ったが、思うほどには命中率しなかった。
回廊上にそびえる3棟の楼閣は夜になるとライトアップされ、
それが甘粛テレビ局のタイトルバックにもなっている。
回廊を降り、関内の一角にある役所跡の建物へ。
各室内は実物大に精巧に再現されている。
居眠りをする役人のマネキンは、本当に扮装した係員がいて居眠りしているかのようだった。
関城を出て、嘉峪関長城博物館に向かう。途中、荒野には珍しいススキが原があり、潘さんはススキの中で記念写真。秋田ではどこにでもある風景だが、甘粛省に来て初めて見たススキである。
嘉峪関長城博物館は新しい大規模な館で、館内の展示は広い空間を巧みに利用し立体的で雄大である。
嘉峪関だけではなく長城各地の関城や長城の変遷などがパネルや模型でとてもわかりやすく表現されている。
出土した実物資料のほか、実物大復元の武器や用具もふんだんに交えた展示である。
嘉峪関を訪れた著名人の大型パネル写真の中に、江沢民国家主席に説明している若き日の楊恵福館長(現甘粛省考古所長)の姿があった。
博物館から駐車場まで、途中で買った梨、トウモロコシをほおばりながら長い道のりを散策。
駐車場からタクシーに乗ってホテルに帰ろうとしたが、タクシーの運転手に長城の西端、第一[土敦]の参観を勧められ、向かう。
車中で私たちが日本人だと知ると突然「とつげきっ」「ばかやろうっ」と大声で言ってきた。抗日戦争ドラマの定番のせりふである。
彼の父親は東北地方(旧満州)生まれで「自分は東北人だ」という。
日本人の反応を見たいのだろう。
第一[土敦]は急流に面した断崖絶壁の上にあり、崖下の対岸には実物大の屯営跡が復元されている。そこまでは、「絶叫マシン」さながらロープにつり下げられ滑車で一気に滑り下る。見ただけだが足がすくみ、早々に立ち去る。
ホテルに戻り、附属のレストランで昼食。
私たち3人だけなのにウェイトレスは20人分のお茶を入れてきた。
メニューも来ないのでおかしいと思ったら団体客の一部と錯覚したらしい。
大きな洗面器で17人分のお茶を回収したところに団体客が到着。
もちろん新しいお茶をサービス。
午後1時30分、「とつげきっ」運転手のタクシーを呼び、嘉峪関市東部の魏晋壁画墓へ。
公開は1基だけだが、保護区の広大な原野に1000基以上が埋まっている。
当時の風俗を表現した壁画は、素朴なタッチだが滑らかで流動感があり生き生きとしていた。
午後2時50分、嘉峪関駅に到着。「とつげきっ」運転手とも固い握手をして別れる。
駅で2時間待ち、4時50分発蘭州行きの寝台車に乗車。
列車は何もないゴビをひた走る。車窓から見える万年雪の祁連山脈に見送られ一路蘭州へ。
心地よい疲労感に包まれ就寝。
(谷地)
第7号 敦煌紀行 6日目
9月25日(日) 在蘭州市: さわやかな晴天
《敦煌研修紀行 旅の終わり》
朝6時、列車内に灯りがともり、軽快な音楽が流れる。外はまだ真っ暗。
青い闇が次第に薄れ、景色がはっきり見えるころには、既に蘭州市西部の西固区に入っていた。
まもなくアパート近くの蘭州西駅に到着。見慣れた風景に、旅を終えた実感がこみ上げてくる。
6時40分、終点の蘭州駅に到着。朝のすがすがしい空気をいっぱいに吸う。
駅を出ると牛肉麺店、路上の油条(揚げパン)屋などが目に入る。
閑静な嘉峪関市とは違う蘭州の雑踏が懐かしい。
お互いに旅の労をねぎらい、潘玉霊さんと別れ、バスで七里河区のアパートへ。
アパート横の市場はまだ開店前で閑散としていた。
早朝の街の風景が新鮮に感じられる。7時10分、帰宅。
中国大陸の6日間の旅が終わった。
(谷地)
第8号 シルクロードの寿司
9月28日(水) 肌寒い曇り空
シルクロードで回転寿司を食べた。
昼休み、敦煌に引率してくれた潘玉霊さん、いつも世話してもらっている趙雪野さんを誘い、蘭州市に1軒だけある回転寿司に行った。
潘さんは、寿司、刺身はもちろん、日本料理を食べたことがない。
私たちも自炊のカレーライス以外で日本食を食べるのは、4月に中国に来て以来、これが初めてである。
趙雪野さんは2002年の交流員。
秋田で1年を暮らし、日本食、特に寿司、刺身が大好きになってしまったそうだ。
その影響で一人息子の趙雨寒君も今や日本食が大好物らしい。
4人それぞれの思いを胸に秘め、いざ蘭州市の中心部、東方紅広場にある回転寿司店へ。
店内は、日本とそっくり。まさに回転寿司店であった。
カウンターに流れる寿司を取って食べるほか、カウンター内の職人に好きな寿司を注文することもできる。
ティーバックのお茶、醤油皿も日本と同じ。
ただ、ガリ(ショウガ)はなかった。
食材は、醤油、ワサビにいたるまですべて日本から直送だそうである。
店員がメニューを持ってきて「ウドン、ソバ、テンプラ、ウナギ、要不要?(いりませんか?)」と勧める。
メニューにはスキヤキやよせ鍋もあった。
平日ということで、皿の色によっては定価の半額のものもある。
刺身の盛り合わせを注文し、各自、回っている皿を取る。
生魚は、サーモン、マグロ、タコ、ホッキ貝の4種。
柔らかい飯の上に、向こう側が透けて見えそうな薄いサーモンやマグロがのっている。炙りサーモンもあった。
冷凍食品のミニコロッケのようなものもある。
これは取った後で店員に渡すと、電子レンジで温めて持ってきてくれるようだ。
運ばれてきた刺身の盛り合わせは、大鉢に氷を敷き詰め刺身をきれいに並べて笹竹の葉飾った派手なものだった。
潘玉霊さんがおそるおそる刺身を口に運ぶ。少し間をおいて、にっこり。
気に入ってくれたらしい。
刺身も寿司もたくさん食べてくれた。
趙雪野さんとは、メニューの種類や味、日本の回転寿司との違いについて回転寿司談義。
結論は、蘭州の回転寿司も「可以(まあまあいける)」。
私たちにとって5カ月ぶりの日本食は、日本食のおいしさ、ふだん食べている中国料理のよさ、ともに気付かせてくれるものだった。
例えばこんなの寿司はどうだろう。
[火考]羊肉(羊肉の串焼き)がのった寿司や、豚の角煮を刻んで軍艦巻き・・・。
日本直送の食材だけでなく、地元蘭州の新鮮な食材を使って工夫したら、案外、おもしろくておいしい寿司ができるかも知れない。
日中食文化交流?の楽しい時を過ごし、食べ終えて自分の前の皿を見るとほとんどが半額皿。
中国に来てまでも・・・。悲しい性か。
(谷地)
第9号 デパートでの買い物(前編)
10月3日(月) 小春日和
国慶節の大型連休3日目である。
市内の商店、デパートはどこも大売り出し。
5月初めの黄金週と国慶節の大型連休は、買い物の好機である。
デパートなど大型店では、1品で200元以上の商品を買うと100元、200元、
場合によっては300元の買い物券が付いてくる、という方式である。
5月黄金週のときは、中国に来たばかりでこのシステムを知らず、中国語がわからないので
そもそもデパートに入って買い物することすらできなかった。
今回はお買い得な買い物をしようと、
蘭州一の繁華街、西関十字にある亜欧デパートに行った。
西関十字から「蘭州銀座」の張掖路にかけて、人出はただごとではない。
広い歩道が人で埋まり身動きできないくらいである。
お祭りの露店の通りを歩くようだ。
通りに面してイカやソーセージの串焼き屋、たこ焼きに煮た肉団子屋がいい匂いをさせ、その前は立錐の余地もないほど。
歩道ではバナナ、キウイ、ミカンなどの果物を長い串に刺し、水飴で固めたものを売っている。
あちこちの店から音楽や呼び込みの声が響く。
大型店の前には特設ステージができ、プロ歌手、アマチュアバンド、飛び入りのカラオケまで人集めのイベント。
それを見る黒山の人だかり。活気に満ちあふれている。
さて、お得な買い物をしようと目論んでデパートの中を見て回る。
買い物券が付いてくる衣類や靴で200元を少し超えるものを探したが、商品の価格帯は190元前後と300元以上に設定されていた。
日中だと買い物券は100元分しか付いてこないが、夜9時以降0時までだと200元分付くという。あちこち歩き回って時間をつぶし、夜9時過ぎ再びデパートへ。
日は暮れたが外の人出は昼と変わらない。
300元の衣服を買い、めでたく200元買い物券を手中に。
さらに8元の超市(地下のスーパー)買い物券、
20元の火鍋レストランお食事券も付いてきた。
ところが券をよく見ると、100元と8元の買い物券は10月7日まで、
もう一枚の100元券は10月8日から15日までの期限付き。
もう2回デパートに足を運ばせる作戦である。
ちょうど必要な冬物衣料を買うだけだったのに、なんだか変なことになってきた。
(谷地)
第10号 デパートでの買い物(後編)
10月7日(金) おだやかな晴天
デパートでの買い物(後編)
買い物券があるから、買い物に行かなければならない。
しかも期限付き。期限ギリギリの今日、夕方から、あわてて超市で買い物をし、火鍋を食べ、衣服を買った。
結局、券の額を超過し現金で払ったのは170元。
この時点で全部を計算してみると、定価の合計額に対し2割引くらいである。
ふだんの買い物でも値引き交渉をすればだいたい7、8割にはなるので、お買い得というわけではなかった。
しかもあと100元分、急いで何かを買わなければならない。
商品価格帯の設定からみて、100元をちょっとだけ超えるものはほとんどない。
超過分としてけっこうな現金払いもありそうだ。
200元分買って200元の買い物券が付いてくる、なんて話がうますぎる。
もしそうなら、商品をタダで配っているようなものだ。
よく考えればそんなことはあるわけがない。
すでにすっかりデパートの術中にはまっている。生兵法は怪我の元。
デパートの戦術にすっかりのせられてしまい、少し口惜しい気持ちの中で、これから何を買ったらいいか、その価格帯はどうか、全体で結局いくらお買い得になるのか、まだ頭を悩ませている。
(谷地)
第11号 雲南省の視察
11月4日(金)
甘粛省考古文物研究所の計らいで、私達交流員は考古所職員と一緒に
雲南・貴州・四川省へ視察旅行することになった。
雲南省10月12~16日、貴州省17~18日、四川省19~23日。
移動日を含め15日間の、移動距離何千㎞という大旅行になった。
《雲南省 編》
雲南省は中国で最も南に位置する省だ。
甘粛省蘭州市からは列車で2日間を要した。
12日に昆明の世界園芸博覧会会場、13日に大理周辺、
14日に麗江古城、15日に玉竜雪山、
16日には、また昆明に戻り石林を視察した。
この数日の視察によれば、雲南省の見所は次の3つにまとめることができる。
1)古い町並みが残る中国の城市
大理古城谷地交流員
大理は雲南省の北西部にある都市だ。
大理石やプーアル茶はこの周辺の特産で、10世紀頃には大理国として栄えたところである。
10月13日の早朝に大理古城に到着したが、
城壁のある古い街というのは、日本では見られないものなので、私は大変嬉しかった。
この日は見て回るところが沢山あるので、1時間しかいられなかったのがとても残念であった。
麗江古城
古城の町並みと共に、象形文字のトンパ文字を始めとした
納西族(ナシ族)の風習や伝統が守られている麗江には14日に到着した。
私達は北側の入り口から、古い住宅街が続く西側の小さな丘陵にむかって登り、
喫茶店が数軒ある丘陵上にたどり着いた。
そこから見た麗江の町並みは、想像を超えて大きく美しいものであった。
その後、繁華街の中心である四方街へむかって下った。
近づくにつれ、ホテルやお土産屋が多くなり、四方街に到着したときは、
観光客がごった返すにぎわいであった。
私達はその後もさらに周辺の散策を楽しんだ。
夜の麗江は、またすばらしく、通りがかった居酒屋街で、
たくさんのお客が小さな川を挟んで歌の掛け合いをして楽しんでいたのが印象的であった。
以前、日本の世界遺産の番組で放送された麗江の航空映像に驚かされたが、
今回実物を見学できて、私自身はとても幸運な人間だと感激している。
この偉大な文化遺産を見るに当たって少し緊張していたのだが、
実際の麗江は、武張った印象は感じられなかった。
むしろそんな緊張感を解きほぐすような、受け入れる雰囲気が町中をつつんでおり、また来たいと思った。
2)少数民族
雲南省には多くの少数民族が住んでおり、
私達が行く売店や観光地には民族衣装を身にまとった女性が多くいた。
特に白族の衣装の人達が多く、観光案内をするガイドも白族の衣装で、
雲南省は少数民族が売りであるということが印象づけられた。
胡蝶泉
10月13日の昼頃、胡蝶泉に到着した。
胡蝶泉は、仲のよい恋人同士に横恋慕した領主が二人の仲を裂こうとしたが、
その恋人同士は身投げして二人の仲を守り通したという伝説がある沼である。
私達が見に行ったときはそのような悲しさは感じられず、
むしろ白族の民族音楽と踊りを楽しめる場所であった。
胡蝶泉もとても美しく、甘粛省で生活している私達にとってはとても緑がまぶしいところであった。
3)壮大な景観
石林
石林国家地質公園というのが本当の名前である。
ここでは縦長の推定5m以上の石が沢山あるところで、その間や周辺を散策して景観を楽しめた。
公園内は歩道が整備され、縫うように石の林の中を歩くことができ、
また高いところから石林の海原を見ることも出来た。
中国の歴史や文物もすばらしいが、このような自然景観も壮大であった。
(藤田)
第12号 貴州省の視察
11月9日(水)
17日に青岩古城と布依族の鎮山村、18日に苗族との交流、黄果樹瀑布、
19日に貴州省考古所を訪れた。
日本からのツアー旅行ではなかなか行くことが出来ないすばらしいところが多かった。
青塩古城
貴州省考古所の計らいで、青岩古城を視察することになった。
規模は麗江に及ばないものの、周恩来の父親の生家や
城壁の砦の大砲や街角の教会等があり、
清代の街の全容が分かる古城で、大変貴重な資料であった。
布依族鎮山村と苗族との交流
貴州省も雲南省と同様に少数民族が多く住むが、
貴州省の場合は少数民族と交流する場面が多かった。
1820~50頃の民家が多く残る布依族の鎮山村では、
ここの人達と一緒に食事し、布依族の女性からお酒を振る舞われた。
酒は日本酒によく味が似ていたので、聴いてみると酒の名は「米酒」である。
そのうち民歌が披露された。題名は「敬酒歌」である。
その歌詞の1番はこのようなものであった。
一、花渓山来花渓水
花渓山水実在美
遠方客人留下来
喝了米酒不想走
苗族との交流では彼らと一緒に遊んだり、フォークダンスのような踊りを踊った。
私はバンブーダンスに参加したが、全く駄目であった。
黄果樹瀑布
高さ77.8m、寛さ101mの中国最大規模の滝である。
滝とその周辺を全部見終わるまで3時間くらいかかったが、
景色が美しく、鍾乳洞やリフトもあって全く飽きなかった。滝の裏側にまわる道もあって大変楽しかった。
(藤田)
平成18年度は、埋蔵文化財センターと秋田県立博物館からそれぞれ1名づつが中国甘粛省へ派遣される事になりました。
このコーナーでは、埋蔵文化財センターから派遣された菊池晋交流員から届く近況報告や、甘粛省で見聞きした中国の文化などについて紹介します。
※赤い字は、管理人による補足説明部分です。
※[ ]内は中国で使われている漢字で合わせて1文字となります。
平成18年度 秋田県側交流員紹介
菊池 晋 | |
秋田県埋蔵文化財センター中央調査課 学芸主事 | |
平成18年5月17日~12月31日 | |
秋田県・甘粛省文化交流事業ではこれまで、磨嘴子遺跡の合同発掘調査をは じめ、たくさんの成果をあげてきました。 今年は、これまでの成果を土台に、交流の 輪を広げ、さらに新しい発見や感動を皆様にお伝えできるよう、中国甘粛省での交流 と研修に励みたいと思っております。 |
第1便 蘭州に到着して (5月17~28日)
我々、菊池と石井の2名の交流員は、17日秋田を発ち、
北京に到着。
北京には昨年度の甘粛省の交流員である
張俊民さんが出迎えてくれました。
翌18日に蘭州に到着し、宿舎に入りました。
21日は、昨年度の甘粛省の交流員である葛雅莉さんが
ご夫婦で、我々2人を市内の白塔山公園に案内してくれました。
ここからは蘭州の町とここを流れる黄河が一望できます。
23日には、甘粛省博物館の俄軍館長、林健副館長、
甘粛省文物考古研究所の楊恵福所長、王輝副所長などにあいさつに伺いました。
宿舎のすぐ近くには市場があり、安くて新鮮な色とりどりの野菜や
果物などの食品の他、衣服や、様々な日用品が売られています。
特に今、蘭州近郊で盛んに収穫されているのが苺です。
土日ともなると、朝から
「ツァオメイ※1、(1斤※2)3クァイ、3クァイ※3」という
苺売りのおばさんたちの元気な声が
宿舎にまで聞こえてきます。
ただし、午後になると、そのかけ声が
「ツァオメイ、両(2)斤、5クァイ」に変わります。
これを見計らって苺を1kg5元で買いました。
日本の苺に比べ粒は小さいですが、
酸味の利いた味の濃い苺です。
量が多かったので砂糖で煮てジャムを作ってみましたが、
たいへんおいしくできました。
市場や町では、ライチやバナナなどの
中国南部(広州、海南島など)産の果物も売られていますが、
これから夏にかけては杏子、桃、スイカなど、
秋には胡桃や栗などの地元の果物や木の実が
季節を追って店頭を飾るとのことで、
たいへん楽しみです。
(菊池 晋)
第2便 第一回 中国文化遺産日 (6月10日(土))
今年2006年より、毎年6月の第2土曜日が、
中国の『文化遺産日』と定まり、
中国各地で文化遺産保護に関する宣伝・広報活動、
各種の催し物が開催されました。
ここ甘粛省蘭州市でも、6月10日(土)に
市民の憩いの場である東方紅広場を会場に、
甘粛省文化庁と甘粛省文物局の主宰で
各種の催し物や広報活動が行われました。
会場にはたくさんの市民が訪れ、
女子高校生らが配る文化財保護を訴える新聞やチラシを
真剣に読む方々も見られるなど、
市民の文化財保護に対する関心は高いようです。
また、中央の舞台では、文化功労者の表彰式をはじめ、
歌謡、舞踊、伝統楽器の演奏、民俗芸能などが実演され、
非常に華やかな雰囲気の会場となりました。
また周囲には、甘粛省文物考古研究所や甘粛省博物館の他、
民間の伝統工芸や伝統芸能などを紹介するパネルが展示され、
興味深げに見入る一般の方々の姿も見られました。
催し物の最後には、一般の方々が持参した
文物の鑑定会が行われました。
日本でも古物、骨董品に興味が有る方は少なくありませんが、
それは、中国でも同じようです。
また、本来は有料の鑑定料のところ、
文化遺産の日は無料ということで、
たくさんの方々が、自慢の一品を抱えて会場に来ていました。
鑑定員には、省博物館の王琦さん(平成13年度交流員)や
考古所の趙雪野さん(平成14年度交流員)などがあたり、
次々と持ってこられる文物を鑑定し、解説していました。
また、会場では考古所の歴代の交流員の方々とお会いでき、
楽しい一時となりました。
(菊池 晋)
第3便 万里の長城の調査 (7月25日(火)~8月6日(日))
世界文化遺産である「万里の長城」の保護をめざし、その現状を把握する調査が、甘粛省の山丹県で行われ、我々2名もこれに同行しました。
山丹県は、黄河が流れる蘭州の西約400km、南側を祁連山脈、北側を龍首山脈などに夾まれた、「河西回廊」と呼ばれる東西に細長い平坦地の中央部に位置しています。ここは、チベット高原の北端にあたる祁連山脈からの雪解け水や湧き水が得られるオアシス以外は、樹木が育たない乾燥した気候です。かつてのシルクロードもここを通っており、武威、張掖、酒泉、敦煌などはその代表的なオアシス都市で、山丹もその1つです。
河西回廊は、中国と西域を結ぶ重要な交通路で、シルクロードの中国側の玄関口ともいえる要衝でした。このため古くから漢民族と少数民族の間には、ここを巡り幾多の攻防が繰り返されてきました。約2000年前の漢の時代には、主に北方の匈奴の騎馬隊の侵入を防ぐために、この河西回廊にも長城が築かれ、約600年前の明の時代にも北方のモンゴル族に備え新たに長城が築かれました。特に山丹付近には、北京付近の煉瓦製の長城とは異なる、主に黄土を突き固めて築いた素朴な造りの明代の長城が、草原や砂漠の中に延々と続く風景が現在も広がっています。漢代の長城や烽火台も所々に見られますが、今回の調査は、主に明の時代の長城を対象として行われました。
調査は、烽火台や長城などの現状を把握することが目的であるため、実際に長城沿いに歩いて観察し、大きさや位置などを計測し、その記録をとりました。明代の長城の高さは4~5m、烽火台の高さは約8mもありました。我々は長城や烽火台の上に登り、北方の龍首山脈を眺めながら、その谷間からモンゴルの騎馬隊が現れ、殆ど障害物のない緩斜面を一気に駆け下り、長城に迫る姿を想像し、これを守る当時の明の兵士に思いを馳せてみました。
今回の調査には、甘粛省文物考古研究所の調査員の他、甘粛省と同じように長城が見られる、陜西省、山西省、内モンゴル自治区、寧夏回族自治区などの調査員や研究者の方々も研修を兼ね参加しており、我々を含め総勢17名の調査隊となりました。実質調査日数8日間の踏査距離は、30km以上になり、長城の残存状況の他、烽火台17基、付属施設5基などを調査しました。
この調査は我々2名にとって、万里の長城に直接触れることができる貴重な体験となりました。また、甘粛省文物考古研究所の調査員や他省の方々と同じ宿に宿泊し、三食を共にし、一緒に歩いて調査に参加できたことは、中国の調査方法や万里の長城を実地で学べる貴重な機会であったとともに、中国の多くの方々と知り合い、交流を深める良い機会ともなりました。
(菊池 晋)
第4便 敦煌・河西回廊、臨洮県での研修 (8月7日(月)~8月13日(日))
山丹の長城調査が一段落したところで、山丹で引き続き調査を継続する甘粛省考古所及び地元の山丹県、張掖市の職員と別れ、甘粛省以外の諸機関の方々と共に敦煌と河西回廊の研修の旅に同行しました。
この研修は、8月7日に山丹をマイクロバスで出発し、河西回廊の諸都市や旧跡、博物館を見学しながら西に向かい、最終目的地の敦煌での見学・研修後、今度はひたすら河西回廊を東に向かい、8月12日に蘭州に帰るという日程でした。
全行程2000kmを6日間で走り抜ける厳しい日程となりましたが、途中の町々の様子や砂漠と点在するオアシスの美しい風景、そこに作付けされている農作物や人々の生活の一端など、自動車の旅ならではの貴重な風景にたくさん出会うことができました。
8月7日は、午前に張掖市で修復中の「大佛寺(張掖市博物館)」を見学し、その後、酒泉市に移動し、午後は、明代長城の西の起点である「嘉峪関」とこれに隣接する「嘉峪関長城博物館」を見学しました。
8月8日は、朝の9時前に酒泉市を発ち、途中、河西回廊の西端部にあたる安西の博物館を見学し、敦煌に午後7時半頃到着しました。
8月9・10日の両日は、敦煌での研修になりました。9日は「敦煌市博物館」を見学した後、漢代の関門である「玉門関」と隣接する「玉門関文物陳列室」や「漢代の長城」、同じく漢代の関門である「陽関」を見学しました。10日は「莫高窟」を中心に見学し、その夜、石井交流員は砂漠と月牙泉の風景が美しい鳴沙山に出かけ、菊池は敦煌劇場で、莫高窟の飛天をモチーフにした舞踊を鑑賞し、それぞれが敦煌の夕べの魅力に出会うことができました。そして8月11・12日の両日をかけ、蘭州までの1200kmの道のりを帰りました。
8月13日は、蘭州の南約75kmにある臨洮県での研修に参加しました。ここは、約2200年前の秦の時代の長城の西端部が築かれていたところで、現在でも山村の険しい尾根の所々に長城が残っています。秦代の長城跡を3箇所訪ねた後、「臨洮県博物館」を見学しました。臨洮県には、洮河という北流して黄河に流れ込む川が流れています。この流域には、「
山丹の長城調査から引き続き敦煌、河西回廊、臨洮県の3週間にわたる研修を共にした方々とは、14日にお別れをしました。日本語を話せる方はいませんでしたが、皆さんは、我々2人の日本人に対して常に暖かく、親切に接してくれ、大変有り難いと思いました。
(菊池 晋)
第5便 甘粛省のお酒
秋田県は、よく「酒の国」と言われますが、中国の甘粛省でもたくさんのお酒が造られています。甘粛省内で造られているお酒は、ビール、ワイン、黄酒、白酒などです。
中国のビールでは、ドイツ租借時代にその醸造技術を引き継いだ青島ビールが有名ですが、甘粛省でも、黄河ビールと五泉ビールが生産され、人々に愛飲されています。黄河ビールはその名の通り、蘭州の町を流れる黄河から名前を取ったものです。五泉ビールの五泉は、漢の武帝の時代に匈奴との戦いで大活躍した若く勇猛果敢な将軍「霍去病」の伝説に因んだ名前です。その伝説とは、霍去病が匈奴討伐の途中、深刻な水不足に陥り、剣を山に突き刺したところ、そこから泉が湧き出て兵士たちの喉を潤した…というもの。
ちなみに、蘭州市の南部のその場所は今は五泉山という名の公園となっており、今も甘露泉、掬月泉、模子泉、恵泉、蒙泉という5つの泉があるのです。
ワインにも敦煌莫高窟の「莫高」、祁連山の「祁連」など甘粛省に因んだ名前が付けられています。特に干紅と言われる辛口の赤ワインに人気が有り、地元の料理に合うとても美味しいワインです。中にはやや甘口の白ワインもあり「釣魚台」に提供されるているものもあります。
黄酒は、キビ、小麦などを原料とする醸造酒です。同じ醸造酒の日本酒とは異なり黄色い色をしているのでこの名が付いています。日本人には紹興酒(浙江省)が最もなじみがあると思いますが、甘粛省でも各種のおいしい黄酒が醸造されています。また、日本酒と同じように料理に使われることも多く、特に豚の角煮料理には欠かせないようです。
白酒は、米、餅米、小麦、トウモロコシなどを原料にした透明な蒸留酒で、アルコール度数は40~50度以上あります。中国の宴会の乾杯では、欠かせないお酒で、これを小さな盃でストレートで一気に飲みます。白酒では、中国の国酒と言われる茅台酒(貴州省)が最も有名ですが、甘粛省内でもたくさんの白酒が生産され、皆さんに愛されています。蘭州市内のレストランなどでも白酒で乾杯する姿がよく見られます。
(菊池 晋)
第6便 蘭州の果物
蘭州では、移りゆく季節と共に様々な果物や野菜が店頭や市場を飾ります。
特に果物には旬があり、蘭州の人々は、暦を見ながらその果物のはしり・旬・熟れ頃をとらえ、それぞれの果物の味を楽しんでいるようです。
先ず、我々が蘭州に着いた5月中旬は、イチゴの季節でした。
秋田の露地物に比べ、少し早いでしょうか。
小粒ですが酸味の利いた美味しいイチゴでした。
6月は、スモモ、ネクタリン、アンズが旬で、
それぞれ数週間で入れ替わり、
6月の後半からモモの季節になります。
市場の同じおばさんの売る果物がどんどん入れ替わっていくのが6月です。
7月は、6月から続くモモとスイカです。
甘粛省ではスイカの旬は7月初めから8月前半で、
これも秋田県に比べ少し早いようです。
秋田のスイカよりもやや小さく、楕円形のものもあります。甘みも秋田のものに負けません。
特に万里の長城の調査と敦煌の研修の時に食べた
河西回廊のスイカは、とても美味しかったです。
8月前半はスイカ、中旬以降からブドウ、ナシ、下旬からメロン類が旬を迎えます。
そのほかにナツメ、下旬にはクルミなども見られるようになります。
9月と10月の2ヶ月間、私たちは、発掘調査のため、
蘭州の南東400kmほどの礼県に滞在しました。
ここは、リンゴの産地で、各種のリンゴがたくさん売られていました。
10月になると人気品種の「富士」が出回ります。
やや小さめですが、味は秋田のものとほとんど変わりない美味しい「富士」でした。
この他に、端境期などには南方から入荷するバナナやライチ、マンゴーなどが見られ、
10月半ば以降になると、ミカンや鉄の鍋で甘く煎ったクリなども見られるようになります。
今11月も、市場は地元の秋の果物や中国各地の果物類でいっぱいです。
(菊池 晋)
第7便 蘭州市内の公園
人口300万人の蘭州市には、市民の憩いの場となる広場や景色の良い公園がいくつもあります。
その代表的なものを紹介します。
白塔山公園は市の中心部と黄河をはさんだ北側にあり、市街地よりも200mほど高い標高1700mの白塔山の頂上には、
チンギスカンに会いに行きこの地で果てたチベットの僧を供養するために建てられた白塔があります。
ここからは蘭州の町と黄河の絶景が眺められます。また、公園の直下には、
黄河第一橋である「中山橋」が黄河にかかっており、公園と市の中心部を結んでいます。
五泉山公園は市の南部にあり、今から二千年ほど前の漢の武帝の時代に、
北方騎馬民族の匈奴との戦いで大活躍した若く勇猛果敢な将軍「霍去病」の伝説が伝えられる泉に因んだ公園です。
霍去病が匈奴討伐の途中ここで深刻な水不足に陥り、彼が剣を山に突き刺したところ、
そこから泉が湧き出て兵士たちの喉を潤したそうです。現在もこの公園には、
その名の通り、甘露泉、掬月泉、模子泉、恵泉、蒙泉の5つの泉があり、市民の憩いの場となっています。
また、公園内には動物園があり、パンダをはじめ、金糸猴やレッサーパンダ、ユキヒョウなどの珍しい動物を見ることができます。
市の南東部には、海抜2192mの蘭山がそびえています。
その頂上にある「蘭山公園」には、車で上ることができますが、リフトでも登ることもできます。
市街地との標高差が600mも有りますので、蘭州の町のほぼ全体を一望できます。
また、空気が澄んだ日には、遠く黄河の北側に広がる黄土高原まで眺めることができます。
市の中心部西側にある小西湖公園は小西湖という名の大きな池の有る公園です。
池の岸を巡る散策路が完備されていて、園内には売店、食堂、遊園地などもあり、休日ともなると老いも若きも挙って園内で余暇を楽しんでいます。
また、小西湖は、蘭州市内では、数少ない釣り場の一つでもあります。
余暇を楽しむ人々とは別に真剣なまなざしで釣り糸を垂れる太公望たちの姿もあちこちで見られます。30cm以上の鯉の大物やヘラブナが釣れているようでした。
小西湖公園の西側の甘粛省博物館寄りには、軍の総合病院(軍区総医院)があり、その病院内の公園が市民に開放されています。
ここは、入場無料でしかも静かで、水辺もありとても気持ちのいい場所です。
我々の宿舎である甘粛省博物館・考古所の官舎からも近く、昨年の交流員である張俊民さんの休日朝の散歩コースです。
私も張さんからこの公園のことを教えてもらって、さっそく出かけてみました。
宿舎から北に向かい黄河河畔を経由してこの公園内を通り宿舎に戻りました。
ゆっくり歩いて黄河を眺め、公園で休憩して1時間ほどのコースでした。公園内には池があり緑も多くとてもリラックスできました。
黄河沿いにある水車広場はその名の通り水車が十数台並ぶ、川縁の生活をテーマにした公園です。
黄河河畔に沿って大きな水車がいくつも並ぶ景色は壮観です。
園内には水車の動力を利用した脱穀機や石臼なども復元されています。
また売店、食堂の他に野外ステージがあり黄河をバックに歌謡ショーなども行われるようです。
雁灘公園は市街地の東側にある公園です。
大きな池があり、水辺に沿って散策路が整備されています。
ここでも多くの釣り人が糸を垂れていました。
蘭州にはこの他にもたくさんの公園があります。
また、黄河沿いには、柳並木の歩道が整備されており、多くの市民の散歩コースや憩いの場になっているようです。
(菊池 晋)
平成19年度も、埋蔵文化財センターと秋田県立博物館からそれぞれ1名づつが中国甘粛省へ派遣される事になりました。
このコーナーでは、埋蔵文化財センターから派遣された山村剛交流員から届く近況報告や、甘粛省で見聞きした中国の文化などについて紹介します。
※赤い字は、管理人による補足説明部分です。
※[ ]内は中国で使われている漢字で合わせて1文字となります。
平成19年度 秋田県側交流員紹介
山村 剛 | |
秋田県埋蔵文化財センター中央調査課 学芸主事 | |
平成19年5月17日~12月14日 | |
交流事業は今年度で7年目となります。 今後は、双方の友好関係をより一層深く築いていくためにがんばりたいと思います。 今年度は秋田県と甘粛省の友好25周年の節目にあたります。 今回の交流事業は、新しい両者間の歴史を築いていくための記念すべき大事な年であることを実感しております。 秋田県の代表として、甘粛省との架け橋になれるように7か月間積極的に活動し、友好関係や自分自身の見識を深め、県民の皆様に交流事業の成果を可能な限り多く伝えられるように努力したいと考えております。 |
第1便 元気な子どもたち
驚いたことに、昼休み中に町を歩けば子ども達の姿をよくみかける。
最近は夏休みのため当たり前だが、それ以前にも、親子連れの子ども達をよく見かける。
話を聞いてみれば、中国の学校の昼休みは日本と違いこれまた長い。
そのため12時くらいに一旦家へ戻り、3時頃また学校に戻って授業を再開するという。
考古所の近くにある小学校も昼になると、集団下校のように校門から児童が出てきて、校門の前で待っている親に連れられて家へ戻る子もいれば、遊びに出かける子もいる。
だから昼に食堂へ行けば、店の子達が手伝っているし、親と一緒に昼食をとっている子達もいる。
また露店では仕事中の親に甘えている子供達の姿を見かけられる。
考古所の近くにある蘭州の名所として名高い五泉山公園は、歴史的な観光地というだけでなく動物園やちょっとした遊園地もあるが、そこでもやはり昼休みは子ども達の声が聞こえてくる。
日本では土日祝日しか見られない観光地での親子連れの光景が日常的に見られるのである。
夜になれば、店で親の手伝いをする子もいれば、私の住むアパートの庭で10時くらいまで親と遊んでいる子どもの声も聞こえたりする。
店の手伝いをする子達は非常によく働く。
いやな顔をして働いている子を見たことがない。
それが当然と思っているようであり感心させられた。
またその子たちも親しげに私が外国人ということで、学校で習ったばかりの文法が滅茶苦茶な英語で話しかけてくる。
私も下手な中国語で対応、相手も意味が分からない。
でもそのやりとりが非常に楽しい。
それが楽しくて私は再びその店へ行くことが多い。
中国の子ども達は日本以上に親と接し幸せそうで、大変親子仲が良く見える。
元交流員の趙雪野さんは高校生の息子さんとともに週三回プールへ行き、泳ぎの特訓をしている。
中国は、日本と違って一般的には家族の人数から考えれば部屋が狭く、嫌でも親と接する時間が長い。
逆に言えばそれだけ親子のコミニケーションを取っている。
昨今日本では教育改革が取り上げられているが、根本的教育は家庭である。
日本は親も子も忙しいのであろうが、見習わなければならない一面である。
(山村 剛)
第2便 蘭州から環境を考える
昨年度の秋田県は驚くほど雪が少なかった。私が中国へ行く支度に追われていた頃、テレビや新聞は常に地球の温暖化が深刻であることを知らせる報道を眼や耳にしたものである。このまま行けば半世紀後には、北極の氷がなくなり北極熊が絶滅寸前とか、100年後には生命体の1/4が絶滅等の深刻な話ばかり。
中国では、これらの報道を日本に居た時ほど耳にすることはないが、深刻な問題として受け入れられているのは確かだ。
私が2ヶ月を蘭州で過ごして肌で環境について感じたことを述べる。まず黄河。黄河は中国第2の大河であり、全長5464㎞の大河だ。甘粛省も流路に含まれ、黄河文明と呼ばれる一大文明の舞台となり、その後の歴史の表舞台によく出てくる場所である。
この黄河の水は普通飲むことはできない。泥まみれであり、蘭州市の水道水は浄化しているが、一度沸騰させ開水(湯)にしてから飲む。同じ甘粛省でも、南部の甘南蔵族自治州では長江の水を引いているため、水道水はそのままでも飲めるそうだ。しかし長江も下流へ行けば汚染は進んでいる。
黄河は古くからの多量の黄土による土砂の濁りだけでなく、最近では人為的な汚染もあるそうだ。
観光地としても有名な石窟寺院である炳霊寺は蘭州より100kmほど上流にあり、私たちも研修で訪れた。炳霊寺は、黄河のダム湖である劉家峡の岸辺にあるが、ここでの水はこれが黄河かという位に澄み切った青い水だ。しかし、下流である蘭州へ流れ着くまでに土砂や人為的な汚染で汚れてしまっているということなのだろう。
黄河沿いを歩いていると、日本と同様に黄河へ繋がる用水路の岸辺にゴミが多量に捨てられ、油ぎった黒い水が黄河へ流れていくのを眼にする。また町はずれの河岸では、岸を巨大なゴミ集積場としていた。秋田でも見かける光景だが、世界的な河川である黄河もまた同じ状態なのだ。
また、蘭州は年間の降水量は非常に少なく、羊などの牧畜が盛んで(羊肉は絶品!)、果物も桃や西瓜などとてもおいしい場所だが、今年は雨の日が非常に多く、一日雨が続いただけで、排水の問題や、地盤がゆるくなったとか、建物が傷んだとか、いかにも雨が少ないことを思わせる報道が多く見られる。
また、人為的なものとして、新聞で目にしたのだが、シルクロードのオアシス都市敦煌の地下水をくみ上げすぎたため、今世紀中に敦煌が消滅する可能性があると書かれていた。これも生活や工業用水のためのくみ上げが原因であることは言うまでもない。
さて、マイナス面だけではなく、プラス面をみていくと、蘭州市では町の外れの山などに植林をして緑化運動をしている。
考古所の裏山である蘭山にも植林のための放水が見られ、町に目を向ければ電動機付自転車という、日本の原動機付自転車と形は似ているが電気で走るため、二酸化炭素を出さず走るというとても環境に優しい乗り物が市民の足として頑張っている。
また、一般市民の足は基本的にバスで、路線はかなり丁寧に市内を網羅している。車がなくても十分広範に行動できて便利だ。ただ、現在中国は非常に好景気を迎えている。中国の人々の生活が豊かになるのは良いのだが、それに伴い自動車の普及も多くなると、温暖化はストップできないだろう。地球温暖化に伴う環境問題は本当に地球規模で考えなくてはいけないことを肌で感じさせられた。
(山村 剛)
第3便 中国の結婚式
6月末に、考古所の史尓青主任の息子さんの結婚式に呼ばれ、参加することになった。会場は最高級ホテルの一つでもある蘭州飛天酒店で、午前10時に来るように言われ、会場へ行く。今日の結婚式は、どのような形式で行われるか、出発前の今年度交流員の趙健龍さんに尋ねたところ、「中国式」との答えを頂いた。日本なら、仏前式、教会式、神前式などがあり、最近では人前式とかいうものもあるが、この中国式は何だろうと考えながら会場へ行った。中国は、仏教もあれば、儒教、道教もある。一体中国式とは?
ホテルの2階へ行き、日本の結婚式同様入り口で、新郎新婦や両家の両親が並んで、式に参加する人々を出迎えてくれた。中国のテレビ番組で時代劇にあるような明代風の衣装かと思いきや、新郎はタキシード、新婦はウェディングドレスであった。会場へ入れば、その参加者の人数に驚いた。少なくても200人はいたであろう。二人の両家の縁者、職場の同僚、友人だけでなく、両家の両親の職場の同僚までも来ている。人がそれだけいては大広間に収まらないので、我々は壁を隔てた別部屋にて(ただし戸でつながってはいるが)考古所の方々と円卓に座る。
式が始まるというので、私は写真を撮りに行く。入場は、日本と同じで部屋を暗くし、二人が並んで歩く中を参加者が拍手で迎える。そして、席に着き、考古所の辺副所長を含む3人のあいさつの後、司会者のマイクに合わせて、二人が向き合って誓いの挨拶をしたり、両親に挨拶したり、そしてグラスにワインを注ぐ。その後は、お色直しなど一切無く、会食が最後まで続く。祝いごとでは爆竹がかかせず、騒ぐことが好きそうな中国の式にしては意外と地味に感じた。新郎の友人が酒を持って挨拶周りをしていたが、その酒が白酒、しかも三杯を一気に飲み干せという。私は酒が元来弱いので、一杯の量を三割減にしてもらえたがそれでも、やはりアルコール度数50度を越える酒を一気に飲み干すのは大変である。口は辛いわ、胃の中は燃えるような熱さを感じるわで大変である。次にちょっと飲んだ赤ワインが(こちらでは紅酒、または葡萄酒という)がジュースの様に感じてしまう。
さて、その式中に配られたお菓子の一つの巧克力(チョコレート)であるが、袋に一粒ずつ入っているタイプだ。その袋に「結婚喜糖」と記されている。チョコの甘さと二人の甘い愛を懸けている。語呂合わせである。
式は2時間ほどで終了。その後は、日本と同様に二次会・三次会と夜中まで延々と飲み会が続くという。
さて、我々の中国語の先生である楊眉さんも結婚2年目の新婚ほやほやであるが、最近の中国の結婚事情について聞いてみた。日本と違いホテル内に教会はなく、多分二人も外で済ませてきてからの披露宴であろうとのことである。また最近は、土日に市街地を歩けば結婚記念写真申し込みの出店が街中に並ぶ。日本同様、一生の思い出を大事にしようとのことである。
先日、黄河沿いを歩いていたら二組ほど公園で撮影をしていた。あいにく曇ってはいたが、二人の心は青空であったであろう。新聞の特集を見てみると、様々な結婚式のイベント会社の内容も記されている。日本のバブル期を思わせるゴンドラや気球に乗るプランがある。また蜜月(ハネムーン)も最近では一般的になってきているそうだ。中国の経済成長の波がこういうところからも垣間見ることができる。
ただ最近は、一人っ子政策の影響や科学による産みわけで男子の出生率が非自然的に高く、蘭州では男女比が1.4:0.6であるという。将来の中国人男性は結婚できない人がたくさん出るのではないかということで、農村では女子を数人産んだ家庭には保護をするという地域もある。
そんな結婚式であるが、洋の東西をかまわず、新郎新婦の気持ちや参加する人々の二人に対する思いは同じはず。恭喜!恭喜!(おめでとう!おめでとう!)祝幸福永遠!(末永くお幸せに!)
(山村 剛)
第4便 収蔵ブーム
中国はただいま骨董収蔵がブーム。
日本にはテレビ東京系列の「何でも鑑定団」といった番組があるが、こちら中国にも北京電視の「天下収蔵」という骨董の鑑定番組がある。
テレビを見れば、「この器は清代のもので、2万元(日本円で3万円相当)で購入した…。
鑑定の結果、3万元(日本円で4万5千円相当)!の価値がある。…」といった感じで、日本のテレビ番組と非常に似た構成である。
書籍もそのブームを反映するかのように、書店(本屋であるが、中国では店の大きさにつれ書店→書城と名称が変わる)にも鑑定本が芸術コーナーに並んでいる。雑誌にも「収蔵」という月刊誌が存在する。
さて蘭州には、骨董マニアのための骨董市場・骨董店を見かける。
骨董市場では、清代の建物跡である「府城隍廟」(文化大革命の影響で破壊されている碑も見かける)、またの名は「蘭州工人倶楽部」と呼ばれている所には、数えたらきりのないほどの骨董店ばかりでなく、庭先に品を並べただけの露店もたくさんある。色々とおもしろいものが並んでいて、散歩して見ているだけでも十分楽しめる。しかし、見ているだけでは飽きてくるし、自分自身の記念に何か買いたくもなってくる。
これは私が中国へ来て1ヶ月経ったころの話である。
私は陶磁器が好きなので、日本に持ち帰りやすい小型の物を探した。
ちょっと気に入った青磁碗があったので、値段を尋ねると、「2つのセットで800元(13000円相当)」と答えがあったが、やたら高いし、それに私は1つしか要らないから、「私が欲しいのは1つだけ、2つは要らない」と答える。
すると園内を1周周り終えて、その店先に来ると、店のおじさんに強引に手を引っ張られた。
そして例の碗を私に押しつけてくる。私は「不要!(いらない!)」と答える。
するとおじさんは、「600元(10000円相当)でどうだ」と言い、例によって押しつける。
私は、「1つだけで良い」と断り続ける。
すると観念したのか、次に400元(6000円相当)、次に1碗200元(3000円相当)、最後は1碗100元(1500円)まで下げてきた。正直、偽物っぽい。
しかし私もここで手を打つ。
すると、今度は横の露店のお兄さんが、「うちでも買ってくれ!」と私の手を引っ張る。
しかし、はっきり言ってそこの店には、無理してでも買いたい物はなく。無理しなくても買いたくないものばかりであった。
すると、お兄さん。
観光客はお金を持っているということか、特別に、青銅板に彫金が施されている物を見せてくれた。
思わず「おー!」と叫んでしまう。
しかし値段を聞いてびっくりした。7000元(8万円相当)である。
金はない。さすがにそれは断った。
また蘭州の有名な骨董店として、府城隍廟の向かいに古玩具城がある。骨董店が何店も入っている建物である。
ちなみにそこで先日「天下収蔵 蘭州大会」が開催されていた。そこでもなかなかの味のある染付酒器を300元で購入した。
いい物を手に入れたと喜んでいる所へ、今年度交流員の趙建龍さんが教えてくれた。「あそこにあるものは90%偽物である。本物は万元単位である。」と。
やはりそうか。しかし、自分が気に入っているならいいか!どうせMade in chinaには変わりないことだし。
だが考えれば、例えば青磁碗、偽物をあんな法外な値で売りつけやがって!もっとまけさせれば良かったと後悔した。
このことから私は中国が値切り文化だとはっきりと自覚し、あからさまに納得できない値のものは、満足のいくまで値下げ交渉をすることを学んだ。上記の件は人生の勉強代とすることにした。
話をもどして、万元単位の買い物をする人々もいる。
中学の地理で、年間1万元稼げれば、「万元戸(まんげんこ)」と呼ばれ、成功者の代名詞みたいなものと教えられたが、それをはるかに凌ぐ大金持ちはやはり本当にいたのだと実感した。(しかし、最近は中国経済の成長から万元戸は珍しくなくなってきたようだ。しかし沿岸地方と内陸地方の経済格差はあり、中国の社会問題になっている。)
そういえば、6月9日の「中国文化遺産日」で、考古所や博物館の方々が鑑定していた。
普段はお金を取るらしいが、この日は無料と言うことで、長蛇の列だった。
ちなみに後で「いいものはありました?」と尋ねたら、「ありました。しかし殆どは偽物でした」との返事であった。
実際、偽物でもかなりこっているものが多く、見分けはしづらい。
中国の偽物を作る人は、すごいと思うと同時に、その技術をまともに使えばもっと良いのにと思うのは私だけであろうか?きっと当代の偉大な芸術家になれるのではと思ってしまう。
使うエネルギーの方向を間違えていないだろうか?
でも骨董の収蔵はお金のことを気にせず、自分が楽しめればそれが一番いいことには変わりはないであろう。むしろ本当の金銭的価値は知らないほうが幸せかもね!
(山村 剛)
第5便 甘南蔵族自治州へ
7月初旬。
2泊3日で考古所のみなさんと蘭州市の南にあたる甘南蔵族自治州の臨潭県冶力関の自然公園へ行く。
黄河の支流であるタオ河沿いを高速道で2時間ほど南へ下る。
このタオ河沿いには、彩陶で有名なマージャーヤオ文化がかつて存在していた地である。
実際には通り過ぎただけであるが、地形はタオ河沿いの河岸段丘上にあるとのことである。
どこもかしこも真黄色の黄土が広がる。ここが黄河文明の舞台かと感嘆した。
さて、あいにくの雨上がりで道はぬかるんでいるが、最初の目的地である香子渠にたどりつく。
ここは甘粛省かと思うくらい緑に満ちている。
チベット仏教のテーマパークかと思えるものが数点あった。
もやの中を渓谷沿いに桟道を歩いていくが、雨上がりで滑りやすくなっており、足下が覚束ない。
思わず最近覚えた杜甫の漢詩が頭に浮かぶ。
「蜀の桟道は進むことが困難で、下を見なければ危ないので、青空を見あげることが難しい」。
そういう山道であったから先へ進むのは困難。
でも考古所のみなさんはポイントで写真を撮りまくる。
記念写真が中国人は大好きとは聞いていたが…。
当然時間は大幅に遅れる。
続いて赤壁幽谷へ。
長年の歳月によって削られた赤壁の渓谷が雄大であり、その斜面には山羊が群れをなしていた。正直、山道が2回続いて疲れた。
さて時間も5時。もう今日は終了と思いきや、その後また山である天池へ行く。
正直また歩くのか?みんなタフだなと思ったが、馬に乗り山の中腹まで登る。
少し助かった。
馬に揺られながら景色を見れば、眼下にはカルストによる地形や、段々畑が広がっており絶景である。
また天池と言うだけあり、山頂には噴火口の跡地に水が溜まった湖があり、水が青く澄んでいた。
天池山荘に行き、泊まる。
その夜も皆さんは元気に麻将(マージャン・日本は麻雀)やトランプ。
私は体調を崩しダウン。
次の日、やはり山へ。蓮花山森林公園へ。
2日で4ヵ所の山へ登るのは初めてだ。
しかし、あいにくの雨で道がぬかるみ危険であるため登頂は断念。
正直2度と来ることはないであろうところだから疲れているとはいえ登ってみたい気持ちで一杯だった。
しかし、命には換えられない。
だが、帰りながら車の窓からながめる景色はすばらしい。
好景色!(ハオ ジンサ!)である。
最後にリンタオ県の「彩陶博物館」を見学。
マージャーヤオ文化をはじめとした彩陶の展示を見学。
さすがにみなさん本職であり、目つきが変わっていた。
翌日、考古所にて、先日・先々日行ったところについて尋ねると、
我々の中国語の先生である楊眉さんの故郷であり、甘粛省でも比較的雨が多く原始林が豊かな地域と言うことだ。
甘粛省は砂漠やステップ気候のイメージがあったが、考えてみれば甘粛省は日本の国土の1.2倍である。
日本にも冷帯から温帯・亜熱帯とあり、さらに広い甘粛省は当然と言えるかもしれない。
ただしここは中国でも最近はめっきり数を減らした野生の虎が出没する地点でもあるという。
それを聞くとちょっと怖くなった。
また、蘭州市内を歩いて旅行会社の案内、新聞の広告を見れば我々の行った場所がプランにあり、蘭州発の1泊2日で、大体300元前後(日本円で5000円前後)であった。
聞くところによると中国では10年前、一般の人々は旅行を滅多にしなかったとのことであるが、最近はよくするようになってきたらしい。
新聞も週に一回は旅行の特集をはさんでいる。
人々の生活が豊かになった証拠である。
とはいえ中国農民籍(中国では、農民籍・都市籍の2種類がある。これはかつて中国が、国民の食料を確保するため農民を農村に縛ったためである)出稼ぎ工の一ヶ月の平均収入が900元であることを考えれば、一般の人々にはまだかなりの金額である。
しかしやはり息抜きはどこかで大事であり、私自身、登山4ヵ所はきつかったが、考古所のみなさんととても楽しい思い出ができた。
(山村 剛)
第6便 蘭州の隠れたスポット?天斧沙宮
蘭州の隠れたスポット?正確には私のお気に入りの観光スポットを一つ紹介する。その名は天斧沙(=砂)宮。これはそれなりに有名なのだが、観光地としての扱いが少し低い所でもある。
そこへ行ったのは8月19日星期六(日本の土曜日)。星期六と星期天(土日)は日本と同じく休みのため、有意義な休日にするために私はいつも市内の観光地巡りをしていたのだが、さすがに蘭州に生活して3ヶ月ともなると、もう行ける所は行き尽くしたという気持ちがあった。
だがそんな時、昨年度交流員の趙呉成さんに天斧沙宮というものがあるということを聞き出した。
それはどこ?蘭州に来たときに考古所から頂いた観光用の地図を出すとこれには記されていないと言われた。
場所は蘭州市街の安寧区仁寿山公園の近くだ。
地図に記されていなくてもかなり有名な場所と聞いて、よし行ってみようと思ったが、趙呉成さんから外国人が一人で行くと道に迷う。
私はなぜか尋ねると、「道が複雑だ」との返事。
「森の中を歩くのか」と問えば、「そうではない、川沿いに2公里(㎞、中国では公里と記す。ちなみにmは米)位歩く」とのこと。
趙呉成さんが時間がある日に連れて行きましょうと言ってくれはしたが、彼も忙しく暇がなさそうである。
私も好奇心をこれ以上押さえることはできず一人で行くことにした。
書店(本屋)へ行って、甘粛省のガイド本を読めば確かに載っている。大丈夫。あの地図には載っていなくてもガイド本には載っている位だ!案内の看板位はあるさ!迷子になんかなるはずがない!と勝手に確信して行くことにした。
アパート近くの西站(駅)から3路線の公共汽車(バス)に乗り、その終点から46路線に乗り換える。
しかしこの46路線がくせ者だった。
私が今まで乗った蘭州の市内バスは、バス停に停まり客を乗せ、日本と同じように料金(市内のバスは基本的に1元。バスによっては距離に応じて1元→1.5元と5角ずつ上がるものもある。ちなみに角は元の下の金銭単位である。)を払う。
ただ降りるときは、日本の様に合図の停車ボタンがなく、自分の降りたいバス停に近づいたら、バスの中央の降り口へ行って立って停車を待つ。これが合図なのだが、この46路線に関して途中で降りる乗客を見れば、中央の降り口へは行かず、乗り口である前の方から降りている。
私はこの辺かと思い、先ほどの人を見習って前に行って立つことにした。すると運転手が「何だこいつ!」と言いたいように話しかける。
私は彼の言っていることが解らない。危ないから座れと言われているのかと思ったが、次の瞬間はっきりわかった「どこへ行きたいのだ!?」と言われたのが!私は「沙宮!」と返事する。すると怒ったようにバスを停め、降りろとアゴで合図された。
しかしそこにバス停はない。投げ出されたのかと思い、地図に記されている一番近いバス停に向かって歩いて行くことにした。
なお私の持っていた地図には、かなりのバス停が省略されているし、市内でもバス停に張ってある路線案内表も停まるはずのバス停の名が省略してあったりと、日本から考えればとにかくいい加減だ。初めての人には優しくない。とにかく地図上では一番近いバス停があるはずの仁寿山公園まで行くが、バス停はなかった。
ひょっとしてこの路線は、適当に乗客を拾い、乗客が降りたいときに自分で運転手に告げる様な田舎のバス路線なのかと悟った。
さて沙宮はどこだ。ガイド本に載るくらいの観光地だ。案内の看板を探せと、仁寿山公園からまた来た道を戻る。しかしどこにも看板はない。
このまま歩けば20分後には、46路線の始発駅まで歩いてしまう。そこで趙呉成さんの言葉を思い出した。川筋に歩く。川を探す。もう一度仁寿山公園まで歩く。ない。また戻るとあった。
何とそこは先ほど運転手と半分喧嘩のようになって降りたところであった。運転手は怒りながらもしっかりと良いところに降ろしてくれていた。
でもここが沙宮である保証はない。しかし仁寿山公園の東で、川があるということで条件はそろっていることを確認して山へ歩き出す。
しかしどうだろうか。そこを通るのは砂を町へ運ぶトラックやゴミを山の方へ向かって進むトラック、三輪車しかない。しかも途中には煉瓦造りの家の廃墟が立ち並ぶ。
1公里は歩いたか?初めて看板を見た。川の対岸に「長寿山釣堀」と記されていた。
よしこっちへ行こうと水涸れに近い川を歩いて対岸の小山へ。すると頂上付近にて、コンクリートの溜め池で釣りをしているおじいさんが何人か居た。
ここかと思って来たのだが何もない。その一人のおじいさんに「この辺に沙宮はありますか?」と尋ねたら「あるよ」と返事してくれた。でもどこだ。
するとはるか遠くにそれらしきものが断片的に見えた。あった!あれだと確信した。しかしここからは行けない。今自分が居る山を下り、川を渡って元来た対岸の道を進まなければならない。
しかしここまで来たのだから進むしかない。だが例によってゴミ捨ての車が私を横切って行く。
本当にこの道でよいのか?そう自問自答しながら歩いていく。するとどうだろう。お目当てのものが少しずつ目の前に現れてきた沙宮である。
沙宮は今から2500年前の紅色砂岩で、長期的な風化浸食により形成された丹霞の風貌で、奇景が配置され、構成が厳謹、壮麗、精美、配置の調和がとれた建築群の様である。自然が造ったものだが、まるで人の手によって造られた様であり、神が斧で造った宮殿の様でもあることから天斧沙宮と命名された。
天斧沙宮の地質層は5部の組に分かれ、最下層は6億年前に形成された深色結晶片岩である。
その上には2000~100万年前形成の紅色砂礫岩、安寧系灰色礫岩層及び周口後末期(約50万年前)の橘紅色砂岩層、最上面は更近期の黄土堆積層である。
地質学者によれば、下面二層は海に沈んで堆積し、後にこの一帯が内陸湖に変わり、薄層礫岩が原始湖底になり、上に橘紅色岩が堆積した。
この一地区が陸地となった後、黄土層が堆積した。その後風化浸食を繰り返し、宮殿のような自然建築となったという。
私はこれを見た瞬間、ここまで来た甲斐があった。すべて報われた。と思うと同時に、この雄大な自然の造形美に感動し、体が震えた。
帰りの道は足が軽い。なぜこのような素晴らしいところに案内の表示がないのだろうと考えながら歩いて3路線乗り場まで歩いて行った。
沙宮の近くは採砂場やゴミ捨て場になっておりおよそ観光地ににつかわしくない。それらの中に見える雄大な自然美がまたすごいと思うと同時に、なぜこんな場所にゴミを捨てるのかとも思った。
きっと中国人には、この景色は珍しくはないのか?しかしガイド本に載るところでもあるからここは特別なのではないかと複雑な気持ちである。
この周辺に住む人々には、これはありふれた景観なのだろうか?
不思議な穴場的な観光地である。しかし私には苦労して来れたから、その様なことはもはやどうでも良かった。
(山村 剛)
第7便 秦人発祥の地1~長距離バスの旅~
9月25日(今年度の中秋節)から10日程の予定で、甘粛省の南東部、礼県へ行き、太堡子山遺跡の発掘調査の施設へ行く。
蘭州から長距離バスに乗り、4時間ほどで天水へ、さらに2時間ほど山間部を進んで礼県に至る。
中国へ来て長距離バスに乗るのは初めてである。
出発と思いきや、いきなり近くのガソリンスタンドへ。
燃料を入れるためであるが、入れた後もなかなか出ない。
すると車内の後ろが騒がしい。
振り返ってみると、何とお客のいない座席にコピー用紙の束を大量に詰め込んでいた。
さらに詰め込み、スペースが足りなくなるとお客のいる席にも持ってくる。
そして我々の座る足下にも持ってきて、足をその上に乗せるように言われた。
どうやら中国の長距離バスは人を乗せるだけでなく、宅急便の役目も兼ねているらしい。
その後も途中途中で停車し、道路に接する店から荷を受けたり、降ろしたりしていた。
さて、バスの窓からは壮大な景色が見える。
起伏のある山や広大な草原やら、ずっと見ていても飽きない。
途中、天水に入る辺りで、高度は一気にあがる。
道路の看板には、‘三国古戦場之街亭’と記されていた。
西暦228年蜀漢の丞相諸葛亮孔明が先帝(劉備)の意志を継ぎ、魏に対する第1次北伐を実施する。
当初はうまく攻略し、長安を落とすのが時間の問題とされた。
そこへ魏臣で後の晋王朝の礎を築く司馬慰が蜀軍の弱点である糧道を断つためこの地に迫った。
諸葛亮は将来を期待していた馬謖にここを守るように指示するが、彼が諸葛亮から指示された戦略を無視ししたため、蜀軍は撤退を余儀なくした。
諸葛亮はその後の裁判で、規律を守るため愛する馬謖を斬る。
「泣いて馬謖を斬る」の語源を産んだ地でもある。
天水の町中も通る。
天水は町の名の通り、河川が多く水が豊富にある印象を受ける。
ここには漢民族の祖先とされる三皇五帝の一人伏義が誕生したと伝わる町でもある。
天水を過ぎて礼県に入る少し前には岐山を通る。
ここも諸葛亮が長安の道とこだわり、5度に至る北伐をしたところでもある。
バスは起伏の激しい山道を西漢水沿いに南下して行く。
山村の川原には馬や牛に水浴びをさせている人々の姿も見える。
窓の景色は完全に出発前とは違い緑に溢れている。
ここは蘭州とは違い亜熱帯性気候に属している。
窓からは民家の軒先で何か黄色いものが束ねて干されている。
よく見ればそれはトウモロコシであった。
礼県に到着する。
街の入り口には‘秦人之故郷’と記された看板や秦の名を冠した酒等の広告看板が目につく。
街は蘭州のような都会と比べると至って静かであり、車が少ない。
ロバが荷を乗せて人に引かれて歩いている。
日本ではなかなかお目にできない軽自動車位の大きさの三輪車が走っている。
バスから降りるとすぐに自転車タクシーに囲まれた。
電動機付自転車に馬車や人力車のような座席をつけたものである。
観光客が来たと思い一気に我々の元に集まる。
乗って宿舎まで行く。速度は遅い。しかし乗り心地は悪くない。
宿舎に着くと今日は‘中秋節’ということであった。
そこでしばらく共同生活を送る人々と顔会わせをする。
甘粛省考古所以外に国家博物館、宝鶏市青銅器博物館の方々も来ている。
白酒に酔い、中秋の名月を眺めながら、明日からの発掘調査に夢をふくらまして眠りについた。
(山村 剛)
第8便 秦人発祥の地2~青銅器の勉強と中国像棋~
期待に胸をふくらませ礼県へ来たものの、
なぜかその後はしばらく雨天が続き宿舎に待機となる。
その間の時間をもて余すわけにはいかない。
収蔵庫には陝西省の宝鶏市から太堡子山遺跡の整理作業のために来ている方志軍さんと文銀学さんが土器や青銅器の実測をしているので、しばしば見学。
しかしその遺物が凄かった。
国家博物館の洪梅さんが持ってきていた『2006年度 中国考古速報』という国家文物局が発行した本をみて驚いた。
この本は、日本でも文化庁が『発掘された日本列島』という本を出しているので、それと似たようなものである。
太堡子山遺跡から昨年度17基の礎石柱からなる建物跡が確認され、昨年度の中国考古十大発見となったことは知っていたが、じっくり写真を見ると、目の前に全く同じ遺物がある。
方志軍さんに尋ねたところ、「これがそれである」との返答を頂いた。
なんとびっくりしたことに国宝級の物が私の目の前に置かれている。
その青銅器の一つ?鐘にはなにか象形文字のようなものが刻印されている。
同じく整理作業に来ている西北大学の劉牧さんからこの文字の解読内容を教えて頂いた。
自分の治世が長く続くことを祈った内容である。
また劉牧さんからは別に青銅器の紋様について教えて頂いた。
すると全く同じに見えた紋様が、それぞれ異なって見え非常におもしろく感じた。
また夜の生活であるが、大概は宿舎のみなさんと中国のドラマを見て過ごす。
みなさん特に中日戦争(日本では日中戦争)物が好きで、日本人の私は肩身が狭い。
それはそうと私は様々な戦争ドラマを見ていると、敵役である日本人の役者がドラマのタイトルは違っても、登場している人は皆一緒であることに気づく。
日本でも水戸黄門などの時代劇では、同じ人物が悪代官や悪徳商人を演じているのと同じで、中国でも日本兵役専門の役者がいるようである。
しかし、この礼県は停電が多い。
最高で4日連続の日もあった。
そんな日は、みんなでロウソクの火に集まり中国の将棋(中国では象棋 xiang qi)をする。
中国では日中町中を歩くと人が群れている場所がいくつか確認される。
そういう時は大概麻雀かトランプ、象棋をして盛り上がっている。
将棋は辞書で調べるとインドが発祥らしい。
戦争好きの王様のために家来が考え出したものが始めのようだ。
さて中国ではこの象棋は、日本でも司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』でなじみのある楚漢攻防をモデルに生まれたゲームとのこと。
日本と違い異なる点は山ほどある。
駒の数や動きなど日本と違う。
最大の違いは日本では取った敵の駒を自軍の駒として使用できるが、中国にはないことである。
中国には「昨日の敵は今日の友」という発想はないのか?と考えてしまう。
そんなことはないだろうがそのためかゲームの展開はやたら早い。
この宿舎のみなさんも大好きなようで、象棋のマナーとして第三者は口を出してはいけないという暗黙のルールがあるのだが、それを無視する人がかなりいる。
そして自分の戦いでないのに熱くなっている。
日本でも中国でも口うるさい人はいるようである。
第9便 秦人発祥の地3~発掘編 出会いと別れ~
当初10日の予定であると告げられた礼県太堡子山遺跡の視察が雨などの影響により意味の分からないまま延期となり、とうとう11月5日まで延期となった。
同行していた新堀学芸主事は体調不良で蘭州へ先に戻ったため、日本人が私一人の環境で2週間を過ごす。
当初は寂しい気もしたが、幸いに宿舎の方々も現場作業員の方々も優しい方々でそういう気持ちはすぐに消えた。
ただうまく言葉が通じないのが難点だ。
我々の中国生活もすでに半年近くが経過した。
日常的な会話はともかく、つっこんだ内容になると筆談、日本で購入した電子辞典に頼らざるをえない。
しかし段々と会話してゆくと、雰囲気やジェスチャーで何とかなるものである。
そんな環境の中、太堡子山遺跡の確認調査に参加する。
太堡子山遺跡は山頂に近い平場一面に畑が広がっており、私の宿敵白酒の原料であるコウリャンも栽培されている。
また牛や馬などが放し飼いにされ、草を食べている様な場所である。
景色も良く、西漢水の流れが一望できる。
今回は確認調査なので、一部分の掘削のみに終始したが、それでも一つの墓跡の調査を見学することができた。
土はほとんど真黄色で見分けはつかない。
しかしその中でも何か黒い粒が混じる東西3.5m、南北1.37mの墓跡のプランを確認した。
掘ってゆくが、なかなか底にたどり着けない。
4日経って、3m位掘り進んでもまだ下に至らない。
いつまでやるのかと思った5日目に犬の骨が横たわった状態のまま現れた。
どんな姿勢で葬られたかが、はっきりと理解できる。
すると次の日には青銅の矛と戈が出土した。
そして人骨が足を曲げて横になっている状態で出現する。
墓の時代は、戦国(東周)時代。
これが秦の始皇帝の先祖の一人かもと思った。
またここにいる作業員の方々の遠い先祖なのかもと考え、彼らが秦の統一事業により、他の六国(韓・魏・趙・斉・楚・燕)に恐れられた秦人の末裔であるのか!?などど私の頭のなかで約2500年前の世界のロマンが広がる。
墓の深さは4mに達していた。
秋田では見られないこの状況にとても感動した。
考古所の劉徳さんに‘日本人の祖先は陝西省から来た’という説が日本にはあるかどうか聞かれた。
私は知らないのでそれには答えられない。
また秦の始皇帝が不老長寿の秘薬を求め、道師徐福を東海(日本?)に派遣した話などをする。
日本には新宮市(和歌山県)をはじめ徐福伝説が多々あることなど話して盛り上がった。
また礼県博物館長王剛(私と不思議な縁で名前が一緒)には、親切にも調査区以外の太堡子山遺跡全体を山歩きしながら細かに説明をしてくださると同時に私のことを気にかけていただいて非常に感謝している。
言葉は良くわからない方が多かったが、その優しい気持ちがとても心に染みる。
この確認調査を受け、来年また本調査に入るという。
結果が楽しみであると同時に、私がここに居ないことが非常に残念である。
作業員の方々とは私が仕事の合間に撮った写真などで話が盛り上がる。
中国の人たちは、非常に写真が好きだ。礼県で私は150枚以上店へ行って現像してもらった。
現像代は中国の金額で1枚6角(9~10円)位だ。
そんなに高いわけではない。
しかし塵も積もればなんとやら、中国のお金で換算すれば、かなりの金額である。
今回あまりこの視察にお金を用意しておらず、また我々がお金を預けている銀行もここにはなかったので、財布の中身が非常に厳しく痛かった。
しかし、これは‘お金ではなく心の問題’と思い写真を現像した。
みんな非常に喜んでくれていた。
なんだかんだで良い買い物をしたと思う。
そんな新たな発見や人情味のある現場ではあったが、出会いがあれば別れがある。
最近私は‘一期一会’という言葉を中国に来てから深く考えるようになった。
私は中国に来て、誰と出会い、どれ位の人々と一瞬でも関わることができたのだろう?どれだけの人と道ですれ違ったのだろう?と…。
日本に居たときには、せいぜい卒業シーズン位にしかあまり考えなかったと思う。
しかし、この言葉の深い意味を最近やたらと考えるようになった。
ここでその答えは記せない。
記したとしても私の考えの一部も記せないからである。
同じ時間・同じ場所を共通して生きる。
これは本当に素晴らしいことなのだと考える。
そして別れの日、みんなに‘再見!(zai jiang さようなら!)’と言葉を交わす。
何か私の目頭に熱い物がこみ上げる。
普段の生活で何気なく使用していたこの言葉。
今、何か新鮮な気持ちでこの言葉の意味を考える。
‘再び会おう!’何と素晴らしい言葉であろうか?
正直彼らとは永遠のさようならであろう。
しかし、そんな彼らと交わした最後の言葉‘再見!’、再び会おう!私が一番好きな中国語に今なったのである。
再見!礼県。
次に行く張家川でも良い一期一会が、良い再見が多々あることを願ってやまない。
(山村 剛)