東北縦貫自動車道の秋田県側は鹿角市から小坂町を通るルートで、自動車道建設に伴う発掘調査は昭和54(1979)年に鹿角市の八幡平地区から始まった。秋田県教育委員会は同年4月、花輪字古館に事務所を構えた。小生を含めた、本年度から採用された文化財主事5人を中心にして、調査補佐員・補助員約15人で基本的に5チームを編成し、朝はここをベースにしてそれぞれバスに分乗し、途中で100人を超す作業員を乗せながら現場に向かった。1現場の作業員が数十人と多く、かつ数遺跡同時に発掘するようになった大規模調査の始まりで、秋田の考古学史上の大きな画期である。職員も作業員もこのような調査は不慣れな点が多かったが、皆で知恵と力を結集し、この年は6遺跡、昭和55(1980)年には実に18遺跡の調査を行っている。小生は途中で藤株遺跡(縄文時代 旧鷹巣町)など他の県北地域の調査に移ったが、鹿角市内では昭和56(1981)年度までの3年間で縄文時代から中世まで34遺跡の調査が行われた。
秋田県埋蔵文化財センターは昭和56(1981)年10月に設置され、それまで県内3カ所に間借りしていた発掘調査事務所から職員が集まり、東北縦貫自動車道などの冬場の遺物整理作業も当センターで行うようになった。ここで働いていた職員は、当時玄関で撮った記念写真によれば、総勢約70人である。発掘調査事務所時代の経験も生かし、作業に不足な知識・技術をお互いに教授・共有・伝達しながら能力を高めていくという気風と熱気があり、現場も含めて色々な意味で啓発されるものがあった。今思えば、花輪のころも含めてキラキラしていた時期であったように思う。
昭和60(1985)年度に同僚と2人で、カウヤ遺跡(第2次調査 古代製塩遺跡 旧象潟町)、蝦夷塚古墳群(古代 旧雄物川町)、石名館遺跡(第2次調査 縄文時代 旧仙南村)の調査に携わった。7月から11月まで、間はややあるものの、準備期間を挟めばほぼ連続的であった。ただし、石名館遺跡は昭和61(1986)年1月後半から2月前半の厳冬期の調査もあった。この他、カウヤ遺跡に先立つ5月・6月に、小生は派遣されて下岩ノ沢遺跡(平安時代 旧仁賀保町)の調査に、同僚は黒倉B遺跡(縄文時代 旧田沢湖町)の調査に従事したりして、忙しく県南を動き回った感がある。
これらの遺跡は遺構・遺物の多寡はあったものの、それぞれの時期毎に遺跡の評価ができるものであった。報告書はいずれも単年度刊行と厳しい状況ではあったが、それなりの内容に仕上げる必要があったので、整理作業は担当者で分担し、お互いに励まし合いながら調査後の整理工程どおり行い、何とか年度末までの刊行に漕ぎつけることが出来た。なお私事で恐縮であるが、この年(昭和61年)の3月30日に自分の父親が急逝してしばらく欠勤した時も、同僚の頑張りで報告書の検品・発送などの業務を滞り無く進めてもらえた事を今でも感謝しております。
※旧鷹巣町(現北秋田市)、旧仁賀保町・旧象潟町(現にかほ市)、旧雄物川町(現横手市)、旧田沢湖町(現仙北市)、旧仙南村(現美郷町)