秋田県埋蔵文化財センターで実際に発掘調査現場を担当したのは、意外に短く15年間でしかなかった。しかし、この間に携わった遺跡の一つ一つには、その土地や一緒に掘っていただいた方々との深い繋がりがあり、自分にとってどれもみな大切にしたい思い出である。そのような中で今回は、調査中に県教育庁文化課(現文化財保護室)から状況を聞かれ、『これまで自分が見たこともないすごい遺跡です』と報告したら、『お前がそう言うのならすごい遺跡だろう』と応じていただいた二つの遺跡のことを話したい。
一つは、協和上ノ山Ⅱ遺跡である。現在の秋田自動車道協和IC全体がすっぽりと収まるこの遺跡は、広場を放射状に囲む大型住居群をはじめ、縄文前期後葉の土器や石器等の多さは当時としては群を抜くものであった。中でも、後・晩期のものと見紛うばかりの石刀や石剣・石棒は、国学院大学教授小林達雄先生(当時)から「これまでの縄文時代の常識を千年以上さかのぼらせる遺跡」と評していただいた。そして、出土例が本当に稀であった二つの石製品に、<燕尾形石製品>と<カツオブシ形石製品>という名称を付けることができた幸運は何と言って良いやら。
もう一つは、県内でもほとんど知られていない森吉狐岱遺跡である。この遺跡は、森吉山ダム建設事業に伴って水没する水田の代替え地として農地造成される予定地にあり、自分はその範囲確認調査を担当した。対象地が東西約600m、面積12万㎡以上と広大なため、40mに1本、南北方向にバックホーで幅1mのトレンチを入れ、その後人力で調査することにした。しかし、調査が進むにつれ、これはとんでもない遺跡ではないかと思い始めた。長さおよそ100~200mのトレンチの全てに竪穴住居跡等の遺構があり、遺物も多く出土したのである。竪穴住居跡や遺物は遺跡西端では前期後葉、東に行くにつれ新しくなり、東端は後期初めのものであった。何より驚いたのは、巨大な捨場と総延長約470mにも達する土堤状盛土遺構であった。捨場は遺物包含層の長さが200mで、厚さは2~3mもあった。盛土遺構は高さ0.8~1.5m、幅10~20mもあり、盛土の中や下に竪穴住居跡があった。つまり盛土遺構は、周囲から土を集めて竪穴住居跡に土を盛り続けた結果できたものであることが分かった。竪穴住居跡は遺跡全体では1000軒をかなり上回ると予想された。当時、県外を含め比較検討できるような遺跡はまだ無く、狐岱遺跡と極めて似ている青森県の三内丸山遺跡が話題になり始めたのはそれから数年後であった。しかし、結局遺跡は土盛り保存されることになり、発掘調査は行われなかった。もし発掘されていたらと思うこともあるが、今は「秋田には三内丸山よりもすごい遺跡が眠っているんだぞ」と言うことにしている。
今年思いもかけず、約20年ぶりで発掘現場をやることができた。楽しくうれしい毎日だった。そんな中で、やっぱり現場は作業員さんに面白いと思って掘っていただくための段取りや説明などが大切で、同時に「今掘っている所は遺跡のごく一部で、そこから自分たちが知り、見ることができるのは、当時の暮らしの百分の一以下のごく僅かなんだ」と自覚することも大事だと思った。
遺跡を残すかどうかで上司と言い合い、地元の役場職員から「首になったら、おれのところで引き受けるから」と言ってもらった幸せ。いつも何か忘れ物をした様な感じになってしまう現場最終日等々。思い返すと、ああ・・・きりがない。