菅江真澄の足跡
江戸時代の紀行家・菅江真澄が、文化4年(1807年)、54歳の頃に八峰町の大久保岱集落を通って手這坂へ訪れたと、真澄遊覧記の『雄賀良能多奇(おがらのたき)』に記されています。
真澄は集落の村長と語り合う中で、大久保岱に「宇治」という姓が多かったのは「山城の国宇治(現在の京都府宇治市)の人が昔世を忍び、大久保岱集落へ田んぼを墾いて住み、その末裔が宇治姓を名乗っているから」という話を聞いたようです。
また、同年4月9日、手這坂へと到着しました。手這坂は当時、4、5軒の家からなる集落で、集落に咲き乱れる桃の花の様子を見て「桃源郷のようだ」と感動し、「ここに誰 世々咲く桃に かくろくひて おくゆかしけに 栖(す)めるひと村」と和歌を残しています。
■参考文献
『大久保岱集落 説明看板』
『手這坂集落 説明看板』
平成24(2012)年5月掲載
■参考文献
『大久保岱集落 説明看板』
『手這坂集落 説明看板』