払田柵跡調査事務所による発掘調査は昭和49年に開始されました。
調査・研究の適正な実施を図るため、古代史の立場からは新野直吉氏(元秋田大学学長)、考古学の立場からは岡田茂弘氏(元国立歴史民俗博物館情報資料研究部教授)の顧問2名を委嘱し、ご指導いただいてきました。
平成17年には「史跡払田柵跡調査指導委員会」を設置し、現在に至るまで委員の方々からご指導いただいています。
調査は、昭和5年に行われた文部省による調査を第1次調査とし、昭和49年に調査事務所として最初に手がけた外郭北門の調査を第2次調査としました。
以後、5ヶ年を単位とした計画を立てて、遺跡の解明にあたっています。
払田柵跡の区画施設は、昭和5年に長森北側の三重柵が、長森・真山を取り囲む外側の柵木列と別個のものと認識されて以来、それぞれが「内柵」「外柵」として区別され、同時に内柵木、内柵列、外柵木、外柵列とも呼ばれました。 この当時は築地塀は検出されていないから、区画施設は低地に並列する材木列のみをもって、そのように呼ばれたのです。
昭和49年、調査事務所による調査が開始されると、材木列は角材列と呼称し、長森の築地塀と角材列は連続して「内郭線」を構成し、内郭線によって囲まれる範囲が「内郭」、その外側を取り囲む材木列を「外郭線角材列」、それによって囲まれる空間から内郭を除いた範囲を「外郭」と呼ぶようになりました。
平成7年、それまでの内郭線を「外郭線」、これによって囲まれる従来の内郭を「外郭」、従来の外郭線は「外柵」と改めることとし、平成8年3月発行の発掘調査年報からこの呼称を用いています。 外柵は建て替えがなく短期間で消滅し、建て替えを重ねて創建から終末まで維持され続ける区画施設は従来の内郭線で、これが政庁とその外方官衙域を取り囲む外郭線であるとの調査成果に基づく認識によりmさう。したがって、内郭は用いません。
昭和5年 | 内柵 | 外柵 |
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昭和49年 | 内郭線 内郭 | 外郭線 外郭 |
平成7年 | 外郭線 外郭 | 外柵 |
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