払田柵跡は1931(昭和6)年3月に国の史跡に指定され、管理団体である高梨村(仙北町)によって保護管理がなされてきました。
しかし、昭和40年代になると遺跡とその周辺地域では、農業の近代化に伴い土地改良・用排水路の整備・大型機械の導入などがなされ、史跡の保存があやぶまれてきます。
1973(昭和48)年、仙北地区新農村基盤総合整備パイロット事業による農業基盤整備が計画されました。
この事業は払田柵跡にも関わり、農道関係では長森・真山丘陵間の既存道路を拡幅し、史跡地内を南北に縦断する幹線農道のほか、長森・真山両丘陵の山裾を一周する既存農道を拡幅・舗装、長森北側及び南側にも既存農道を拡幅・新設して支線農道とし、指定地内に3本の耕作農道を、また用水路関係では、農地整備に伴い支線小排水路を新設するというものでした。
さらに長森には墓地公園として墓地を造成するほか、自動車道・自転車道・歩道・駐車場・児童遊園地を建設、真山を緑地公園として植樹するほか、自動車道・自転車道・駐車場を新設する、という内容でした。
こうした計画に対し、文化庁から県農政部に示された見解は、工事計画の全面的見直しをせまる厳しい内容でした。
秋田県教育委員会は、県農政部、仙北町および仙北町教育委員会との間で協議を重ね、隣接する千畑町の協力も得て開発計画に対処すると同時に、遺跡の学術的解明と、保存管理計画策定のための基礎資料を得るための調査を開始しました。
1974(昭和49)年4月1日、地方機関として「払田柵跡調査事務所」を仙北町高梨字田茂木、仙北町公民館内に開設、6月11日、事務所開所式を行いました。
なお、発掘調査、研究の適正な実施を図るため、顧問2名を委嘱して、指導体制を確立しました。
やがて事務所は1979(昭和54)年4月、仙北町公民館内から、史跡内の払田字館前100番地にある独立したプレハブ事務所へと移転、さらに1981(昭和56)年10月、払田字牛嶋20番地に秋田県埋蔵文化財センターが建設されると同時に、センター内へと移転して現在に至っています。
その間、1986(昭和61)年4月には「秋田県教育庁払田柵跡調査事務所」と改称しました。
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