後藤宙外らによる払田柵跡の調査成果に触発され、昭和5年10月、文部省による本格的な発掘調査が実施されました。
調査者は省嘱託の上田三平です。
調査の成果は『指定史蹟拂田柵阯』(昭和6年8月)と『史蹟精査報告第三 拂田柵阯・城輪柵阯』(昭和13年)にまとめられています。
この発掘では外柵四門と外柵列、内柵列の三重構造や倒壊状態となった部分などが発掘され、柵木の地上高も推定されました。
また、同年12月には内柵の北門が発見され、その調査成果も記されています。 より精度の高い遺跡全体の実測平面図も作成されました。
※区画施設の呼称は当時のもの
上田三平は池田家の小型自動車で調査地を駆け回りました。
上田は後に、発掘調査に自動車を利用したのは、日本でも初めてであったろうと述懐しています。 この調査の経費600余円はすべて高梨村が負担しました。
このような大規模な調査が実現できたのは豪農池田家の財力と、調査への支援があったからでした。
遺跡は翌3月31日付で、秋田県では最初の国指定史跡となり、5月18日付で高梨村がその管理者に指定されました。
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