大仙市払田字仲谷地 | |
外柵域南部の遺構・遺物の分布状況及び遺構の変遷を把握する。 | |
令和6年6月3日~8月2日 | |
144㎡ (追加調査24㎡) |
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盛土整地地業1か所、角材列1条、土坑4基、遺物集中部1か所 | |
須恵器・土師器・瓦・鉄滓・羽口・砥石ほか |
調査の結果、城柵創建期にあたる9世紀初頭~前葉の遺構は、外柵角材列以外に確認されず、南大路東側エリアの利用状況は不明です。外柵の周辺のみが微高地で、南北方向に旧地形が下がって行くことから、外柵および外柵南門は最も標高の高い場所を選んで建設されたと思われます。
9世紀中葉になると、土坑が構築されます。発見した土坑3基は、出土した土師器杯が意図的に破砕されており、ある土坑では遺構を覆うように須恵器甕片が折り重なって出土するなど、何らかの意図をもって遺物を廃棄した様子がうかがえるため、遺構廃絶時に祭祀行為が行われた大型の祭祀土坑であると考えられます。外柵南門周辺では、第7次調査で嘉祥二(849)年銘のある第4・5号木簡が出土した土坑をはじめ、これまでの調査で外柵の内外で長軸2.0mを超える大型の土坑がまとまって確認されており、いずれも9世紀中葉の遺物が出土しています。遺構規模や時期に加えて、墨書土器や木製品が多数を占める遺物組成も今回検出した土坑と類似しており、外柵南門周辺に9世紀中葉の大型祭祀土坑域が広がっていると考えられます。また、今年度出土した須恵器杯のように柿渋の可能性がある塗布物が付着した遺物は、外柵南門周辺の土坑や払田柵跡に関連する祭祀遺跡である厨川谷地遺跡からも出土しています。9世紀中葉~後半にかけて、祭祀に用いる器に塗布行為を行った可能性も視野に入れ、類例の増加に期待したいと思います。
第158次調査で特筆すべきは、9世紀後半の盛土整地地業が確認されたことです。上部は水田耕作時に削平されていますが、整地層は4~22cmの厚さで広範囲に堆積しています。火山灰は整地層の上面では確認されず、盛土整地中のクラック内からブロック状に検出されました。そのため、本来は整地層より上位に一次堆積していましたが、現代の水田耕作時に失われたと考えられます。整地層直下の土坑や遺物集中部で出土した遺物が9世紀中葉であること、整地層上面で検出された土坑から出土した遺物が9世紀末~10世紀初頭であること、整地層中から出土した遺物のうち、小片を除いて時期が判別できるものは全て9世紀代に限られることから、盛土整地が行われたのは9世紀後半と考えられます。
整地層中から須恵器や土師器の小片をはじめ、瓦や鉄滓、羽口、砥石、被熱礫など多種多様な遺物が出土しました。重量分布(図2)をみると、第2トレンチのEF・EG・EK94グリッドが突出して多いです。EB~ED94グリッドにかけては整地層が薄いため出土量が少ないですが、EE94グリッド以北は遺物の出土量と整地層の厚さは比例せず、遺構の有無との関連も低いとみられます。そのため、整地層中の出土遺物は、盛土整地を行う際に周囲で行われた何らかの行為に関連する可能性が高いです。
また、整地層の直下からは、不整形の抜根跡が3基検出されました。盛土整地を行うにあたって広範囲で抜根を行い、その際に生じた窪みを埋め戻した上で整地を行った可能性が高いです。
今回の調査範囲からは整地後に構築された建物跡がみつかっていないため、現段階ではこの大規模な整地の目的は不明です。なお、盛土整地地業の上部は既に削平されており、その上部に堆積していたとみられる10世紀代の遺物包含層も失われたと考えられます。
第158次調査の成果は、盛土整地地業が確認されたことにより、9世紀中葉から10世紀初頭にかけての遺構分布の変遷が明らかになったことです。これまで、9世紀中葉の外柵放棄後は、城柵の範囲は外郭線まで縮小するとされてきました。しかし、今回外郭線の外側で9世紀後半の盛土整地地業が確認されたことで、外柵南門および南大路の周辺では、外柵放棄後も大がかりな造成が行われていたことが判明しました。これは、9世紀後半以降の払田柵の範囲を考えるうえで重要な知見です。
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