昭和49(1974)年から調査事務所による継続的な発掘調査が開始され、その成果が次々に明らかになると、地元の人々の間から遺跡の整備とその利用を望む声が徐々に高まりました。
そうした中、旧仙北町では昭和56年3月策定の『仙北町総合発展基本構想』に「史跡の整備」を基本施策として明確に位置付け、国・県に対し、その推進を強力に働きかけたのです。
同年5月には『国指定史跡払田柵跡環境整備事業計画(案)』が作成され、11月には第1回の環境整備審議会も開催されました。 継続的な整備事業の始動です。
翌57年から、真山地区における芝生広場の整備を皮切りに環境整備を開始。
昭和58~61年にかけては、払田柵跡の中枢施設であり、発掘調査の終了した「政庁」の整備が開始されました。
遺構を保護するため盛土した上に、正殿、脇殿、前殿などの主要建物が、最も規模の大きい第Ⅲ期(10世紀前葉)の形で平面表示されました。
広場には草の生えないオイルサンドを使用したので、全くといっていいほど草は生えていません。
建物の名称板、政庁地区の説明板が設置され、周辺の盛土、張芝などは63年までかかって整備されました。
政庁への入口にあたる外郭南門は、八脚門の柱12本が表示されました。
その両側には石塁があり、西側の下段は崩落した当時の石を積み上げて復元しました。
東側には石は残っていませんでしたが、発掘調査でその位置をほぼ確定し、西側の石塁と同様に復元されました。
史跡の広大な範囲と特徴的な形態が明確に目視できるようにする必要が生じ、新たに『史跡払田柵跡環境整備基本計画』(第1次環境整備計画)が策定されたのは平成元年3月です。
外郭東門は、平成2年に外郭南門と同じように柱12本と基壇を表示することで整備がなされました。
外郭南門の石塁にあたる部分は角材列となっています。
真山丘陵及び長森丘陵は全体に杉が密生し、暗い感じは否めなかったので、丘陵のほぼ全域にわたって間伐を行い、以前よりは明るい雰囲気を生み出しています。
平成3年からは「ふるさと歴史の広場」事業による整備が開拓されました。
この事業は平成3年度から始められた文化庁の補助事業で、従来のような遺構の平面的整備ではなく、建造物を実物大で立体的に復元するほか、ガイダンス施設や、遺跡の全体模型の設置などを補助対象とし、従来よりも積極的に史跡等の特性を活用しようとするものです。
この整備にあたり、『史跡払田柵跡(ふるさと歴史の広場)事業計画報告書』が作成されました。
計画では、事業対象地域として、外柵南門から外郭南門へと至る地域が選ばれました。
その理由は、払田柵跡の特徴である外柵の角材列や外柵南門が顕著に集約されていること、遺跡の正面玄関でもあり、中心施設である政庁へ通ずるところであること、交通の便が良いこと、などです。
外柵南門と角材列は復元に先立って再調査が行われ、その他の地域についても遺構を確認するための調査が行われました。
その結果、外柵南門と外郭南門の間には広い河川敷があり、川の流れと角材列が接するところには、最初から角材列が作られていないことや、大路には橋が設けられていたことなどがわかり、これらの事実も復元計画の中に盛り込まれることとなったのです。
平成3年度にまずガイダンス施設(払田柵総合案内所)を建設、4年度には、その映像ソフトの作成が行われるとともに、外柵南門復元材料の青森ヒバが青森県下北半島から購入されました。
翌5年度に外柵南門や材木塀が復元されました。
事業は1年延長され、6年度には、南大路、橋、外郭南門前方官衙域の東方・南西建物の復元・表示や、張芝・植栽、河川敷などが整備されて完了しました。
平成8年「払田柵跡第2次環境整備基本計画」が策定されましたが、時を同じくして、「ふれあいの史跡公園」事業によって、長森東方地区の官衙建物の整備などを行いました。
整備では、地区の7期にわたる変遷の中から、役所としての実務が本格化したと思われる10世紀前半(E期)の掘立柱建物3棟と板塀が復元されました。
平成10・11年にかけて、外郭西門の門柱及びこれに取り付く材木塀が、外郭東門と同じように復元整備されました。
平成24・25年には、外郭北門の一部立体表示を実施し、東北の古代城柵の遺跡としては初めて外郭の東西南北4門の整備を完了しました。
平成28・29年にかけては、北大路の環境整備を実施。
外郭北門周辺の張芝及び木道の設置、同時に外郭北門・材木塀・櫓の名称板を設置しました。
南大路に対峙する歴史的な景観となりました。
長森東方地区建物群
外郭西門
外郭北門と木道
一方で、これまでに復元してきた復元建造物の老朽化という新たな課題が浮上してきています。
平成26年には、復元された外柵が強風により倒壊。
さらに、平成29年の豪雨災害により、真山南斜面・長森南斜面が一部崩落しました。
こうした状況は平安時代にもあったのではないでしょうか。
斜面の復旧工事及び外柵の修繕後、「再整備事業基本計画」に基づき令和3・4年に払田柵跡のシンボルである外柵南門の建て替え整備が行われました。
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