遺跡の概要・調査成果

調査成果 これまでの5年計画

  • 第1次
  • 第2次
  • 第3次
  • 第4次
  • 第5次
  • 第6次
  • 第7次
  • 第8次
  • 第9次
  • 第10次
  • 第11次

※区画施設は現在の呼称

第1次5年計画(昭和49~53年度)

第1次5年計画では次のような基本計画を立てました。

  • 大規模調査に対応するための基準測量の実施
  • 開発計画に対応し得る基礎調査の促進
  • 現状変更届出に伴う緊急発掘調査の実施
  • 史跡保存のための基礎資料の作成

この基本計画に沿い、まず遺跡全体に測量基準点を設置して、その後の継続的調査に備えました。

発掘調査として最初に取りかかったのは外郭がいかく北門です。
調査に先立ち、7月22日現地で鍬入れ式を実施した後、顧問の新野直吉氏による「払田柵跡ほったのさくあと調査の学術的意義」と題する講演会が町公民館で開催されました。

鍬入れ式
鍬入れ式

調査の結果、門と外郭線材木塀に1回建て替えがあり、長森ながもり丘陵の裾には築地塀ついじべいが存在することが判明して、昭和5年の文部省の調査以来の認識に大きく変更をせまることになりました。

翌年には外柵南門が調査され、外郭北門とは異なり、建て替えがなされていないことがわかりました。
また、嘉祥2年銘のある木簡もっかんが出土し、伴出土器はその後の土器研究の基準資料となりました。

その後、外郭線の築地塀と材木塀は連続する区画施設で、構造の差異は立地条件による違いであることや、外郭線全体の変遷も明らかにされました。

外郭線の位置や構造、その変遷に大きな見通しを得た後は、払田柵跡の中枢施設であった政庁せいちょうの調査を実施しました。
正殿、東脇殿、広場、政庁を取り囲む板塀やそれに取り付く門が日の目を見ることによって、それらの配置形式が、多賀城や太宰府政庁、近江国庁などの国府政庁の建物配置と基本的には同一であることが明らかとなりました。

また、外郭南門にも建て替えがあることが確認されました。

第1次5年計画での調査面積は8,814㎡、調査経費は46,900,000余円でした。

県教育委員会は、昭和52年度に仙北町と協議の上、『国指定史跡払田柵跡保存管理計画策定報告書』をまとめました。

これは史跡指定の事実を確認したうえで、変貌する地域社会の中で遺跡の保存をどう図ってゆくかの方針を立てたもので、その後の史跡保存の指針となりました。

第2次5年計画(昭和54~58年度)

昭和54年からの第2次5年計画では、第1次5年計画での調査成果を踏まえ、次のような計画を立てました。

  • 中枢施設の全面発掘
  • 外郭線・外柵の位置と構造の把握
  • 現状変更届出に伴う緊急発掘調査の実施

この基本計画に沿い、まず遺跡全体に測量基準点を設置して、その後の継続的調査に備えました。

政庁せいちょうでは、西脇殿、東・西前殿や北東部・北西部建物などが確かめられ、政庁地区の全面積の約85%が調査されました。

外柵材木塀は外柵南部で位置の確認に努め、材木塀に掘ややぐらは伴わず、建て替えがないことが明確となりました。
外郭線は北部の材木塀の位置把握に精度を増したほか、南部で築地塀ついじべいと櫓状建物を検出しました。

古くから注目されていたホイド清水すずからは、多くの木製品や木簡もっかん、絵馬が出土しました。

第2次5年計画での調査面積は9,532㎡、調査経費は59,710,000円です。

第3次5年計画(昭和59~63年度)

昭和59年からの第3次5年計画では、10年間の成果を踏まえ、環境整備事業や小規模な現状変更届出等に対処することも考慮して、次のような基本計画が打ち出されました。

  • 外郭南部・北部の調査
  • 外郭東門・西門推定地の調査
  • 大路おおじを中心とした外柵域南部の調査
  • 現状変更届出に伴う緊急調査
  • 政庁せいちょう跡正報告書の刊行
  • 外郭東部の微地形測量
  • 外郭・外柵低地の遺構確認調査

この5年間では、外郭南門には3回の建て替えがあることや、門の西側に残る石塁せきるいが調査され、整地層からは古代のロープが出土しました。
東側石塁の石は残存していなかったが、築地塀ついじべいの基礎地業と柱穴のあり方から、その位置を想定することができました。

政庁北側の斜面には多くの竪穴建物が作られていることも判明しました。

また、外郭北門・南門と同じく東門も外郭線の内側に八の字形に入り込む構造となっていることもわかりました。

ハンドボーリングによる遺構確認調査が外柵域南部から開始され、長森ながもり丘陵の微地形測量も始まりました。

外柵東部での緊急調査では、良好な状態の材木塀が検出され、年輪年代測定の結果、外柵の創建年代は西暦801年頃であることが明らかとなりました。

なお、政庁跡の正報告書は昭和59年度に刊行されました。

この5年間における発掘調査面積は6,696㎡、事業費70,000,000円です。

出土したロープ
出土したロープ
ハンドボーリング調査
ハンドボーリング調査

第4次5年計画(平成元~5年度)

平成元年度からは第4次5年計画として、次のような基本計画を立てました。

  • 南大路を含む外柵域南部調査実施
  • 外郭北部の区画施設の調査
  • 外郭東部の調査
  • 外郭西門の調査
  • 外郭西部の微地形測量
  • 外郭・外柵低地の遺構確認調査
  • 外柵北部・西部の材木塀の調査

平成3年から始まった、仙北町による「ふるさと歴史の広場」事業は、外柵域南部の低地を対象としたので、これに対処するため、土地買収後の外柵域南部を広く調査しました。
その結果、外柵域にはこれまで全く知ることのできなかった古代の河川跡があり、河川の流れと外柵が交わるところでは材木塀が当初から作られていないことが判明しました。

また、外柵南門と外郭南門を結ぶ南大路おおじには橋が設けられていたほか、大路の幅が推定され、長森ながもりの裾部に官衙かんがブロックの一部も見つかるなど、大きな成果がありました。

払田柵跡としては初めての漆紙文書うるしがみもんじょも出土しました。

外郭東部に初めての調査の手が入り、多くの建物跡や竪穴建物跡、板塀跡の存在が明らかとなりました。

外郭西門と外郭線西部の築地塀ついじべいが新たに発見され、外郭東・西・南門はいずれも3回建て替えがあることがわかり、門の中では最初に調査した外郭北門の造営回数に疑問が生じることとなりました。

長森丘陵全体の微地形測量は終了し、外郭・外柵低地のハンドボーリングによる地山地形復元図を作成するなどの成果もありました。

この5年間での発掘調査面積は10,251㎡、経費は70,000,000円でした。

第5次5年計画(平成6~10年度)

平成6年度からは第5次5年計画として、次のような基本計画を立てました。

  • 外郭東部の調査
  • 外郭低地の調査
  • 外郭線材木塀の調査
  • 外郭北門の調査
  • 外柵域東部・南部の河川跡の調査

従来2期の変遷とされてきた外郭北門の再調査を行い、他の門と同様に4時期にわたる変遷があることが確認され、門ややぐら状建物を含めた外郭線全体が4時期の変遷があることが判明しました。
出土した角材列の年輪年代測定の結果、外郭線と外柵で西暦801年という同じ数値が出たことで、払田柵の創建年代がこの頃であることがほぼ確実となりました。
また、外郭線材木塀C期の年代も西暦907年と確定しました。

外郭線は門を中心として、基本的に左右対称に設計・造営されていることが判明しました。
さらに、外郭北門と東門の間に角材列に伴う櫓状建物が検出されたほか、角材列の北側に従来知られていなかった大溝おおみぞが発見されました。
この付近からは、絵馬や木簡もっかんなど多くの木製品や墨書ぼくしょ土器どきなど貴重な資料が出土しました。
また、外郭北門周辺の低地からは、木道もくどうに転用された角材が出土しました。
この角材の全長が4.6mであることから、材木塀の高さが明確となりました。
貫穴ぬきあなの存在から、材木塀の角材連結方法も判明しました。

外郭東部の調査では、多くの掘立柱建物跡や竪穴建物跡が検出され、6時期にわたる変遷があることがわかりました。
「官小勝」と記された墨書土器や、具注歴ぐちゅうれきが書かれたと思われる漆紙文書などが出土しました。

道路の拡幅工事に伴って県埋蔵文化財センターが行った第102次調査では、外柵材木塀を覆う布堀り内から9世紀中葉の須恵器横瓶が出土しました。
これにより、外柵の終末が9世紀中葉に遡ることが判明しました。

その他、電気探査では外柵域南東部の河川敷の位置が明らかとなりました。

第6次5年計画(平成11~15年度)

平成11年度からは第6次5年計画として、次のような基本計画を立てました。

  • 政庁西方における官衙域の調査
  • 外郭西部
  • 外郭南門南西地域における官衙域の調査

第6次5年計画(平成11~15年度)は、過去25年間の調査成果と派生する課題を踏まえ、その後の調査や環境整備に資することを目的に、主に長森ながもりの各地区にどのような施設が存在するのかを足早に把握しようとしました。

調査は外郭西部から開始しましたが、調査にあたり、トレンチ法を採用したことで結果的には、少ない調査面積で多くの情報を得ることができました。

政庁西方では鉄・銅の金属加工(鍛冶かじ鋳造ちゅうぞう)に関連する工房跡が集中的、重層的に発見され、長森西方地区北側斜面が金属加工の場として使われていたことが明らかになりました。

出土遺物としては、鍛冶関連の鉄滓てっさい羽口はぐち、銅鋳造を想起させる坩堝るつぼ・銅滓、「出羽」と刻字された須恵器、線刻をもつ瓦質がしつ土器、漆紙文書うるしがみもんじょ緑釉りょくゆう陶器・灰釉かいゆう陶器・青磁せいじなどが見つかっています。

北側の緩斜面部には、複数の段状地形が人為形成されていることも確認しました。
丘陵部平坦面では、古代の遺構は非常に希薄で、政庁から外郭西門に至る通路を確保するという、場の規制が行われていたことの推測が成り立ちます。

また、払田柵が機能を停止した後の鎌倉時代には塚(墳墓)や火葬墓が築かれ、塚(墳墓)には陶器の壺を蔵骨器として埋納したことも明らかとなりました。

さらに下層には、縄文時代の竪穴状遺構が確認され、土坑どこうや土器・石器も比較的多く発見されました。

外柵域南東部における低地の調査では、河川跡の堆積層、柵木さくぼくを確認しました。

第7次5年計画(平成16~20年度)

第6次5年計画で採用したトレンチ法という調査手法は、長森ながもりにおける場の使われ方を予測することと、払田柵跡を適切に保存・管理し、活用するためにも有効であることを再確認しました。
このため、平成16年度以降の調査においては同様の手法を用いることにしました。

第7次5年計画では、次のような基本計画を立てました。

1. 中枢施設の全面発掘

  • 外郭地区(長森)の調査
  • 外柵域南東部(沖積地)の調査
  • 外柵域(真山)の調査

2. 払田柵跡関連遺跡の現況調査及び情報収集

政庁せいちょうの西側では、古代の明確な遺構はほとんど検出できませんでしたが、遺構の分布状況から長森西方地区東半部の鍛冶かじ工房域における東限を推測することができました。
このエリアからは、中世の墓域や縄文時代前期後半の遺構・遺物が発見されました。

丘陵の北側緩斜面からは、鍛冶に関する炉や竪穴建物跡・工房跡、掘立柱建物跡が検出されました。
そのうちの1棟は、同一箇所において6時期に及ぶ変遷が認められ、工房域がさらに西側に延びていることが明らかとなりました。

外郭北部では2条の道路跡を発見し、政庁北門から外郭北門に至るルートと道路構造が明確になりました。
北西部では、政庁からホイド清水すずに向かう道路及び排水路と推測される硬化面と溝跡も検出されました。
反対側の北東部では、3箇所で道路跡を検出しました。これらは、政庁から外郭東門に向かう東西道路の一部と考えられます。
また、道路脇では、地鎮と思われる祭祀さいし跡も発見されました。

真山しんざん丘陵部を対象とした調査では古代の火葬墓が検出され、払田柵が機能していた時期には墓域であったことが明確になりました。
また、中世「堀田ほった城跡」に伴う土塁どるい空堀からぼり・盛土整地層・竪穴状遺構等を確認しました。
最も標高の高い地区からは古代の遺構は検出されず、下層から縄文時代前期の遺構や遺物が確認されました。

外柵域南東部においてほ場整備事業に対応した調査を行い、外柵の材木塀角材列を22箇所で確認しました。
河川跡や土坑、溝跡などが検出され、払田柵跡の南東部沖積地における外柵線の正確な位置や、当時の地形と遺構の配置状況が明らかとなりました。

また、外柵域北・北東部の沖積地においても、ほ場整備事業関連の確認調査を実施。
昭和5年の第1次調査以来未着手であった、外柵北門跡と東門跡の正確な位置や立地状況を探ることができました。

関連遺跡の現況調査及び情報収集では、払田柵跡の実態を解明するために欠くことのできない「雄勝城おがちじょう」に関連する資料を得るために、試掘調査を実施しました。
調査では、雄勝城に直接結びつく資料は確認できませんでしたが、8世紀代の集落跡を新たに発見することができました。

横手市雄物川町の町屋敷遺跡を対象とした調査では、規模の大きな総柱掘立柱建物跡を発見しました。
溝跡(板塀か)で囲まれた区域内から、2棟並んで検出されました。
建物跡と溝跡はそれぞれ2時期あり、一定期間の存続があったことがわかりました。

第8次5年計画(平成21~25年度)

過去35年間の実績を踏まえ、払田柵跡の各地区における場の使われ方と詳細な遺構内容を把握し、歴史的意義や特色を明確にすることを目指し、平成21年度からは第8次5年計画として次のような基本計画を立てました。

1. 払田柵跡の各地区における遺構内容及び場の機能の調査

調査対象地区は、払田柵跡内全域ではあるが、特に外柵地区を重点地区として進めました。

2. 払田柵跡関連遺跡の試掘調査等

長森ながもり丘陵の西側裾部では、軟弱地盤の上に築地塀ついじべいや材木塀を構築するにあたり、粘土による盛土を行っていたことが確かめられました。

外郭北部の調査において、外郭材木塀の北側に位置する大溝おおみぞは、材木等の運搬にも利用された運河としての役割も想定されるに至りました。

外柵南門西側の、材木塀と柵内を流れる河川跡が交差すると推定されている箇所を調査した結果、交差・開口するのは調査区よりさらに東側にあたる可能性が大きくなったこと、材木塀を構築する際に、沖積地であることから地盤強化のために粘土による盛土を行っていることが判明しました。

外郭域南部の南大路おおじ西側の沖積地では、史跡公園として復元されている旧河川がかつて氾濫した河川敷と、その影響を受けることがなかった微高地との境界線を確認することができました。

外郭南門前方の東方官衙かんが域において、9世紀後半代の掘立柱建物跡を確認しました。
この地区の4次にわたる調査成果を総合化することにより、官衙域の在り方について饗給きょうごうに関する機能を持ち、東方から西方官衙域へ変遷したという仮説を示すことが可能となりました。
また、復元されている9世紀前半の建物の南側に、10世紀前半の大溝と盛土整地の跡を確認することができました。

県営ほ場整備事業に関連する調査では、従来から詳細位置が不明であった外柵東門周辺における外柵の位置が、予想されていた位置よりも5mほど東側に位置し、一部が史跡指定地外となることが明らかとなりました。
同様に外柵北門周辺部においても調査を進め、外柵外の北西側における遺構群の広がりが確認されましたが、北門については過去の耕地整理により不明瞭となっていることがわかりました。

関連遺跡の調査として、横手市雄物川町造山つくりやま地区の調査を実施しました。
造山遺跡からは竪穴建物跡が検出され、カマドの構造から関東地方に出自をもつ集団による移動集落であった可能性が考えられます。
また、雄物川を臨む台地の西側で、造山Ⅲ遺跡、蝦夷塚えぞづか北遺跡を発見しました。

秋田県重要遺跡調査事業として調査した「野代営」擬定地の一つである史跡檜山ひやま安東あんどう氏城館跡(大館跡)では、平安時代の集落跡と台地中央を横断する土塁どるい空堀からぼりとの詳細な関係について情報を得ることができました。

第9次5年計画(平成26~30年度)

過去40年間の実績を踏まえ、払田柵跡の各地区における場の使われ方と詳細な遺構内容を把握し、歴史的意義や特色を明確にすることを目指し、平成26年度からは第9次5年計画として次のような基本計画を立てました。

1. 払田柵跡の各地区における遺構内容及び場の機能の調査

調査対象地区は、払田柵跡内全域ではあるが、特に外柵地区を重点地区として進めました。

2. 払田柵跡関連遺跡の試掘調査等

外郭南門前方の東方官衙かんが域における、9世紀代の地表面の詳細を確認することができました。

また、南西官衙域においても10世紀初めに係る整地面の詳細を確認しました。
建物西側の広い範囲が盛土造成され、長森ながもり丘陵裾部との間には東西方向に大溝おおみぞが構築されていることが確認されました。
大溝は、盛土整地直後に掘削された10世紀初頭のものと推測され、外郭を構成する区画施設である可能性が出てきました。

丘陵の裾部直下には、鍛冶炉かじろや土器焼成に伴う土坑、土器を埋納した焼土遺構も確認され、大規模な造成前にも何らかの目的をもった営みがあったことがわかりました。

このエリアから、払田柵跡では第7号となる漆紙文書うるしがみもんじょが出土しました。
出土文字資料としては全国で初めて「秋田城」「小勝城おがちじょう」の文字を確認することができました。
この漆紙文書は帳簿の下書きと推定され、国司四等官である大目だいさかんが払田柵跡にいたことを示す証拠となります。

関連遺跡の調査としては、横手市雄物川町造山つくりやま地区を対象に行い、前5年計画で発見された蝦夷塚えぞづか北遺跡が、さらに西側へ広がることが確認されました。
また、雄物川を臨む台地の中央部にある栗林遺跡隣接地から近世以前と考えられる溝跡を確認しました。

第10次5年計画(令和元~5年度)

過去45年間の実績を踏まえ、払田柵跡の各地区における場の使われ方と詳細な遺構内容を把握し、歴史的意義や特色を明確にすることを目指し、令和元年度からは第10次5年計画として次のような基本計画を立てました。

1. 払田柵跡の各地区における遺構内容及び場の機能の調査

調査対象地区は、払田柵跡内全域ではあるが、特に外柵地区を重点地区として進めました。

2. 払田柵跡関連遺跡の試掘調査等

第9次5年計画の調査に続き、外郭南門前方の南西官衙かんが域における、10世紀初めの整地面と遺構についてその詳細を確認することができました。
また、これまでに検討を重ねてきた盛土整地地業の範囲が確定しました。

大溝おおみぞについては、外郭線材木塀の南側に10~26m離れた位置で東西に延び、その西端部は、長森ながもり真山しんざんの間を南北に流れる小河川に接続していたこと、十和田a火山灰降下時には、大溝・小河川ともにほぼ埋没していたことが判明しました。
検出した大溝の総延長は、363mになります。

これらの盛土整地と大溝は、払田柵跡の構造と沖積地の機能を検討する上で重要な遺構であると判断されます。

また、真山しんざん周辺は低地でも地盤が堅固で、創建期の遺構群が外柵域の沖積地に分布することがわかりました。

外柵域南部の南大路東側の調査では、沖積地に埋没する河川跡の間に微高地があり、遺構・遺物が分布することを確認しました。

関連遺跡の調査では、貒袋まみぶくろ遺跡で道路側溝の可能性のある溝跡や坩堝るつぼが出土した竪穴状遺構などが8世紀代を中心とする遺物と共に検出され、横手盆地の古代を検討する上で重要な遺跡であることが確認されました。

造山十足馬場とあしばば遺跡では、奈良時代の竪穴建物跡を検出しました。
主軸方向のそろう建物が多数存在することが判明しました。

第11次5年計画(令和6~10年度)

過去50年間の実績を踏まえ、払田柵跡の各地区における場の使われ方と詳細な遺構内容を把握し、歴史的意義や特色を明確にすることを目指し、令和6年度からは第11次5年計画として次のような基本計画を立てました。

1. 払田柵跡の各地区における遺構内容及び場の機能の調査

調査対象地区は、払田柵跡内全域ではあるが、特に外柵地区と真山地区を重点地区として進めます。

2. 払田柵跡関連遺跡の試掘調査等

払田柵跡の解明には指定地内の調査に加え、指定地外の関連遺跡の調査が必要です。そのために、関連資料・情報の収集、現地踏査を踏まえた上で可能であれば試掘調査を実施します。
当面は、大仙市及び美郷町内の払田柵跡に関連する古代遺跡の踏査を実施し、調査目的の周知及び働きかけを進め、以後の試掘調査へつなげていきます。
また、一連の作業・調査を通じて県内各市町村との連携を深め、当事務所が蓄積している史跡発掘調査・研究についての実践的な技術指導、史跡の保存・活用に関する情報の提供等を行います。

現在、第11次5年計画の調査中です。

問い合わせ先
秋田県教育庁払田柵跡調査事務所
〒014-0802 秋田県大仙市払田字牛嶋20
TEL:0187-69-2442  FAX:0187-69-3330
mail : hotta-no-saku@mail2.pref.akita.jp

このホームページの著作権は秋田県教育庁払田柵跡調査事務所が所有しています。内容についての無断転載は禁じられています。
このページは原則として自由にリンクしていただいて構いません。しかし、公序良俗に反することに関わるリンクはお断りします。