長森の中央部に政庁がある。
この地域では旧高梨村の運動場、軍馬訓練場、児童遊園地などに利用するため、南側を削平して北側に盛土する土木工事を明治年間以降、昭和20年頃までに3回行っている。
発掘調査は昭和52年から58年まで行われ、約6,600㎡を発掘した。
調査を開始する前は、バレーボールのネットを張る支柱、キャンプのためのカマド、焚き火の跡、競走馬の障害土盛などがあり、真ん中を囲むように荒芝やカヤが生い茂って、政庁跡の3分の1は杉木立となっていた。
藤井東一は昭和5年の段階で、この運動場から土器・瓦・磚を発見し、建物の存在を推定していた。
正殿
正殿
政庁は板塀によって方形に区画された中に、正殿、東・西脇殿が配置され、これらの建物と政庁南門とによって囲まれた広場がある。
そのあり方は城柵官衙遺跡の政庁をはじめ、備前・伯耆・近江・下野など各国の国府政庁とも強い共通性をもっている。
さらに、南側の板塀の外には東・西前殿があり、板塀には門が付設されている。
このほか、正殿の後方には付属建物群や、政庁と密接に関連する建物群が配置されている。
これらの建物の組み合わせと変遷は、第Ⅰ期~Ⅴ期の5時期に区分して考えることができる。
東脇殿
政庁地域の旧地形は東・西両側に深い沢が入り込んでいるので、建物群を建設するにあたって、平坦面を確保するため、これらの沢を埋める整地作業を行っている。
その工程は、沢に向かう斜面に盛土を繰り返し行い、さらに褐色粘質土と黒色土を交互に突き固め、その後、褐色粘土で全面仕上げを行って平坦面を造成する、というものである。
これは、払田柵跡を造る際の最初に行った工事の一つである。
政庁東門と板塀
政庁を取り囲む板塀
払田柵跡の政庁は、その全体規模や個々の建物の大きさに違いこそあれ、基本的なあり方は、創建から終末まで一貫している。
ここでは城柵として仕事を遂行する上で重要な儀式や、政務がとり行われたのであろう。
9世紀初頭に創建され、9世紀前半の政庁である。
正殿、東・西脇殿、政庁南門と目隠し塀、政庁北門などが造られる。
板塀は63m四方、広場は39m四方の広さである。
正殿・脇殿の規模に比較して、前殿が小さく造られている。
これらの建物は以後の各遺構期の規範となって受け継がれる。
政庁域の北側には、より北方との連続的役割をもつ建物が配置される。
9世紀後半の政庁である。
主要建物は全部建て替えられ、板塀には政庁南・東・西門が建ち、一段と整備される。
東・西前殿の規模が増大し、地形の制約もあって、南辺板塀が3.6~4m北に移動する。
このため、東・西脇殿の南北の長さが短くなる。
東・西前殿の建物面積が広くなるのはこの時期からである。
政庁域の北側には、掘立柱建物や竪穴住居が見られる。
10世紀前葉を中心とする政庁である。
正殿、脇殿、政庁南・東・西門、前殿は、第Ⅱ期の位置を踏襲して建て替えられている。
北辺の板塀が北に移動して、東西64m、南北76mほどとなり、政庁域が最も広く設定された時期である。
拡張された正殿後方の東西には、北東部建物と北西部建物が新しく造られる。
この建物の規模と位置は必ずしも東西対称ではないが、構成と配置は同じである。
10世紀中葉を中心とする政庁である。
第Ⅲ期と同規模の政庁域で、正殿、脇殿、前殿は建て替えている。
政庁南門と北門は第Ⅲ期のままであるが、東門と西門はなくなり、板塀で遮断される。
正殿と西前殿の建物面積はわずかに減少するが、脇殿と東前殿の面積は維持される。
正殿後方の建物群はほぼ同じ配置である。
10世紀後葉を中心とし、10世紀末か11世紀初頭までの政庁である。
板塀の北辺が第Ⅳ期のそれより約21m南へ移動し、政庁域が最も狭く設定される時期である。
正殿は廂のない建物となり、東・西脇殿も一廻り小さい建物となるが、前殿は第Ⅳ期とほぼ同じ規模である。
政庁域の北側に大きな空間ができ、再び建物が配置される。