昭和5(1930)年10月に払田柵を調査した文部省嘱託上田三平は、翌年、高梨村史蹟保存会から発行された『指定史蹟 拂田柵阯』と、昭和13(1938)年文部省発行の『史蹟精査報告 第三 拂田柵阯・城輪柵阯』の中で、次のように述べ、払田柵に敢えて固有名詞を与えることを避けている。
「拂田柵阯の形態構造は古史に所謂「柵」の実態と認めて果して一般性を有すものなりや否やに就ては猶考究の余地があろう。 何となれば、六国史其他の史書を繙いても柵の構造を明示せる文句なく、又他に比較すべき好個の遺跡が多く発見されない今日、急速に之を断定し得るべきではない。 然し記録に其構造を示さない古代の史蹟は多数にある。 此等無名不文の遺跡が発見さるゝ場合に一々記録に当て嵌めて解釈を試みやうと企てることは多くの場合に徒労に終わり穿鑿に時日を費やす間に遺跡そのものは荒廃し、遂にその湮滅を速かならしめるものである。」
「此の柵阯の創建年代の如き、或は當時之を何と唱えて居ったかと云うが如き事は、口碑伝説又は文献に徴しても知る由もなく、遺跡発見以来る々の憶測を逞しくするものも現れたが、所詮定説と認むべき程度のものは未だ見當たらない状態である。」