遺跡の概要・調査成果

払田柵に関する学説 - 河辺府説

②新野直吉・船木義勝の河辺府説

後藤宙外の河辺府説とは異なり、近年新たに提唱されている河辺府説がある。
新野直吉氏の『古代東北の兵乱』や、新野直吉・船木義勝両氏著『払田柵の研究』で詳細な論が展開されている。
その根拠は次のようなものである。

  1. 払田柵の創建年代は、政庁第Ⅰ期直前段階の土器群の年代、年輪年代測定による外郭線・内郭線の創建年代、文献史料にみえる文室綿麻呂が出羽権守となった年代、という立場の異なる三分野から導き出された結果として、延暦20~23(801~804)年とする。
  2. 払田柵周辺の地名と伝承から、雄物川と荒川(丸子川)が合流する周辺が古代において河辺(かわのべ)と総称されていて、後に「山本郡高梨ノ郷、河辺ノ里」などと表記された。
  3. 宝亀年間の初め、国司が「秋田は保ち難く、河辺は治め易し」といった河辺の地は払田柵周辺のことで、延暦23年紀の「河辺府を保たん」とした「河辺」や『和名類聚抄』に「国府在平鹿郡」と記された「国府」は、払田柵にあたる。
  4. 払田柵の政庁第Ⅰ期の建物配置形態が多賀城の政庁第Ⅰ期の建物配置と共通しており、城柵政庁の原型を規範としていることから、払田柵に国府機能があった可能性が高いと言える。
  5. 延暦20年(801)年、熟慮を重ねた陸奥出羽按察使鎮守将軍坂上田村麻呂は、陸奥出羽両国間で、経営の拠点となる城柵造営政策を同時に実施したのである。
    つまり、陸奥国において鎮守将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を、これと平行して出羽国では出羽権守文室綿麻呂が払田柵の造営を開始したと考えることができる。
    それが秋田城からの国府機能の移転先としての河辺府である。
  6. 払田柵は延暦末年から、弘仁年間中頃までの「河辺府」とも呼ばれた出羽国府であり、出羽国府は弘仁6・7(815・816)年頃になって出羽郡に再移転する。

宙外による河辺府説との相違点は、何よりも払田柵や、他の城柵官衙遺跡の豊富な考古学的調査成果を踏まえた上での立論である点である。
さらに、宙外が秋田城からの国府機能の移転年代を、宝亀6年紀に求めているのに対し、両氏はそれを延暦23年紀に求めていること、文室綿麻呂の事績を重視することなどである。

和名抄より

和名抄より

払田柵に関する学説