遺跡の概要・調査成果

調査成果

調査結果を踏まえて

これまでの調査から、払田柵跡の創建年代は9世紀初頭で、10世紀後半にも確実に施設が存続していることが明らかである。

政庁は一貫して踏襲され、10世紀前半~中葉の時期に最大規模となる。

外柵と外郭線は創建時に同時に造られたが、外柵は建て替えがなく、短期間の造営で、堀、櫓状建物を伴わない。
これに対し、外郭線には4期にわたる変遷があり、払田柵跡の終末まで存在した。
各時期の年代幅は約50年と推定される。
建て替えにあたっては門、櫓状建物も含め、外郭線全体が軌を一にして行われた。

作業の様子

作業の様子

作業の様子

作業の様子

昭和49年の調査事務所発足以来、長森を囲む区画施設を内郭線とし、真山をも取り囲む材木塀を外郭線と呼んできた。
しかし、城柵の重要な要素である外郭区画施設としての役割を創建から終末まで果たしていたものは、長森を取り囲む内郭線で、これが多賀城跡や秋田城跡など他の城柵でいう外郭区画施設に相当する。
払田柵跡での内郭線・外郭線の呼称は、他の城柵遺跡との対応を考える上では誤解を生じやすく、適切なものではないと考えられる。

そこで、今後は長森を囲む内郭線を外郭線と呼び、これまで外郭線として来た外側の材木塀は、文部省調査の際の呼称である外柵(がいさく)と呼ぶことにする。
同時に門も例えばこれまでの内郭南門は外郭南門に、外郭南門は外柵南門と呼び改めることにする。

払田柵跡の古代における城柵名はまだ決定していないが、創建年代からは少なくとも天平寶字4(760)年完成の雄勝城であるとは言えない。

▼ 区画施設の変遷と新しい呼称

区画施設の変遷と新しい呼称