遺跡の概要・調査成果

払田柵に関する学説 - 雄勝城説

②喜田貞吉の移転雄勝城説

雄勝郡内に最初に設けられた雄勝城が、払田柵の地に移転して、そこでも雄勝城と呼ばれたとする考えがある。

喜田貞吉氏は、昭和5年10月の文部省調査の前に『秋田考古会々誌』第2巻第4号の中で、「拂田柵址に就いて二三のの考察」と題し、次のように述べている。

「此の拂田柵跡址の如きも、強いて之を国史所見の何物かに當らんとするは、恐らく徒労に終わることではあらうが、試みに言はば、或は之を以て雄勝柵に擬すべきものではなかったらうかといふ引っかかりが無いでもない。 雄勝城は勿論今の雄勝郡内に設けられたものであらう。
併し庄内にあった出羽柵が秋田に進出して、やはり出羽柵と呼ばれた例も近所にある。
雄勝に設けられた雄勝城がここに進出して、やはりもとの名を呼ばれても差支はない筈だ。
かく云ふのは単に無稽の空想のみではない。雄勝城一に之を答合といふ。
而して此の拂田の地のある高梨村地方は、古くの答申郷に當ると考定されて居る。
果たして然らば、雄勝城が答申郷に進出して答合城と呼ばれ、それが放棄されてもとの雄勝城に戻っても、やはり答合の名を以て呼ばれたのではなからうかといふのだ。」

払田柵に関する学説