宙外は昭和5年に『秋田魁新報』誌上に、「平安朝初期の古柵址と決定する迄」と「払田柵は河辺府の遺跡」と題して所論を展開する。
そして昭和15年発行の『高梨村郷土沿革記』の中の「拂田柵址の検討梗概」にも簡明に結論を述べている。
宙外の河辺府説の論点をまとめると次のようになる。
払田柵は「宝亀六年に秋田城から遷された出羽国府、即ち当時、国史に河辺府と称されたものの遺跡」で「延暦二十三年より秋田城再置の天長以前、弘仁年間までは国府の政務と兵鎮(軍団)軍務が、悉く払田柵址の所在地なる、河辺府に統一された」というのが結論である。
その論拠を紹介すると次のとおりである。
▼ 後藤宙外の河辺府説 上:『高梨村郷土沿革記』、下:秋田魁新聞