遺跡の概要・調査成果

払田柵に関する学説 - 河辺府説

①後藤宙外の河辺府説

宙外は昭和5年に『秋田魁新報』誌上に、「平安朝初期の古柵址と決定する迄」と「払田柵は河辺府の遺跡」と題して所論を展開する。
そして昭和15年発行の『高梨村郷土沿革記』の中の「拂田柵址の検討梗概」にも簡明に結論を述べている。

宙外の河辺府説の論点をまとめると次のようになる。
払田柵は「宝亀六年に秋田城から遷された出羽国府、即ち当時、国史に河辺府と称されたものの遺跡」で「延暦二十三年より秋田城再置の天長以前、弘仁年間までは国府の政務と兵鎮(軍団)軍務が、悉く払田柵址の所在地なる、河辺府に統一された」というのが結論である。
その論拠を紹介すると次のとおりである。

  1. 宝亀のはじめから「秋田城は保ち難く河辺は治め易し」という理由で、従来秋田城に併置された出羽国府を河辺の地に移転する問題があった。 この「保ち難し」という意味は延暦23年紀の秋田城廃棄の理由とせられた所の「土地磽埆にして五穀に宜しからず」と「北隅に孤立し、隣、相救子無し」という2箇条の理由によるものと考える。 しかしこの移転問題は「前代将相の僉議して建設」したものであるから、軽々しく之を遷すのは策の得たるものではない、姑く保留して再考すべきであるとの事であった。 その後四圍の形式が一変して移転の避くべからざる事情となり、宝亀6年6月「出羽守まをす、蝦夷の餘燼、猶未だ平殄せず、三年の間、鎮兵九十六人を請うて、且つは要害を鎮め、且つは国府を遷さんと勅して相模、武蔵、上野、下野四国の兵士を簡びて発達す」とある。 これが出羽国府を秋田城より河辺の地に移した明徴と見るべきである。
    延暦23年紀に「秋田城を停廃して河辺府を保たん」とあるのは、既に国府を河辺に移してしまった後の事を云ったものである。
  2. 『和名抄』に「出羽国、国府在平鹿郡」と劈頭に特筆してある外に、末に「出羽」(郡)として、その下に「国府」と細字で割注がある。
    恐らく古記には劈頭の「国府在平鹿郡」とのみあったものに、後に出羽郡井ノ口に国府が遷されてから書添えられたものであらう。 今払田柵址のある仙北郡高梨村は、宝亀以前には平鹿郡内(山本郡設置まで)に属したので『和名抄』の記録は誤謬ではない。 したがってこの国府が払田柵跡=河辺府である。
  3. 薬師堂別当時の清応院にある縁起に「山本郡高梨ノ郷、河野辺ノ里」とあり、同文と思われるものが「佐竹領上三郡寺縁起」にもある。
    現在も丸子川の北方を「北川ノ目」と呼ぶのであるが、これは「北河辺」の音便によって変わったものである。
    正徳四年の「検地帳」に荒川の北を「北川目」、南を「南川目」とあることから古くは両岸を一括して「河野辺の里」と呼んだ。
  4. 国府(コウ・カウ)と思われる地名がある。 「佐竹領上三郡寺縁起」の真山の大日堂に関する記事の中に「弗田城香の森(カウ・モリ)大日堂、宝玉山道城寺云々」と見える。 云うまでもなく「コフ」は音便「カウ」と読むので払田柵址が河辺に在った出羽国府の遺跡であることを傍證するものである。
  5. 秋田城と雄勝城との中間に中継の城柵が必要であった。 また陸奥国の諸城柵と交通及び連絡から見ても宝亀年代に於いて、出羽国府を払田柵址の所在地、即ち高梨ノ郷、河野辺ノ里に東遷したのは当然であった。
  6. 払田柵址の真山から、鳥海山、保呂羽山、神宮寺嶽、御嶽山が一眸の中に集まる。 即ち式内社の大物忌神社、波宇志別神社、塩湯彦神社が此の四山に鎮座し、払田柵址から遠からぬ地に式内社が多いのは「払田柵址は河辺府」の傍証の一つとなる。

▼ 後藤宙外の河辺府説 上:『高梨村郷土沿革記』、下:秋田魁新聞

後藤宙外の河辺府説

払田柵に関する学説