遺跡の概要・調査成果

払田柵に関する学説 - 雄勝城説

①高橋富雄の雄勝城説

払田柵が『続日本紀』に記述のある、天平寶字4(760)年に完成した雄勝城であることを積極的に根拠を明示して所論を展開したのは、高橋富雄氏である。
昭和39年(1964)年に『蝦夷』の中で提唱され、昭和48年の『日本歴史』第302号で、「払田柵と雄勝城」と題して詳細に論じられた。
その論拠は以下のとおりである。

  1. 払田柵の規模は城輪柵(推定出羽国府跡)や多賀城(陸奥国府跡)よりも大きく、厚い板の塀を環状にめぐらす形状を呈し、厳重な構えを示している。
    これは、辺境経営の城柵としては最大級といってもよく、出羽国の北辺第一級の大鎮城である。
    また、単なる軍事的防御施設にとどまらず、ここが出羽北辺における官衙的な鎮城つまり軍政の府城であったことは疑いない。
    出羽国では、雄勝城は一府二城の一つで、秋田城に準ずる鎮城国府制をとっており、出羽第三国府の扱いだったのである。
    このように規模が大きく政庁機能も分担できる古代城柵址が文献上に記載されないはずはなく、この方面の文献上の大城柵は雄勝城しかないのである。
  2. 天平9年の大野東人の出羽遠征記事がある。
    この記事で注意すべきことは、「従二比羅保許山一至二雄勝村一五十余里。其間亦平。唯有二両河一。毎レ至二水漲一並用レ船渡。」という箇所である。
    ここでは、里程の終点として雄勝村がはっきり特定されており、のちに雄勝城が築城される地点はまさにこの雄勝村の地だったと推定される。
    比羅保許山の北麓からは全くの平坦な道を北に50余里進んだところに雄勝村があり、これは現今の30~35㎞ぐらい先という勘定になる。
    そこで、県境の山地を越えた平地よりの地から起算するとなれば、それは平鹿郡内にすらとどまりえないで、さらに北の仙北郡に入らざるをえないのである。
    そしてそこに払田柵がある。
  3. 天平宝字3年9月26日条にみえる出羽国雄勝・平鹿二郡の設置と玉野以下六駅の設置は、雄勝城の位置を考える上で決定的な意味をもつのである。
    雄勝城築城の目的は、多賀城から出羽柵への直路を通すための山北の安全を確保することであり、雄勝城にかかる駅路は山北の直路を雄物川ぞいに北上したと解さねばならない。
    その間に駅家を配置すれば、雄勝駅は終着出羽柵からわずか二つ手前の駅であり、山北としては最も北よりとなることはまちがいない。
    そのあたりの雄勝駅=雄勝城となれば、払田柵をおいて他に考えようがないのである。
  4. 雄勝城の位置を考える上で重要な記事は、元慶2年7月10日条で、ここでは、秋田城を攻撃した秋田河北の賊は、余勢駆って山北の雄勝郡、雄勝城をいきなり侵攻の目標としていることである。
    これは、雄勝郡=雄勝城が山北最北部にあり、南下する賊の最初の攻撃目標にさらされていたのだと考えると初めて理解できるのである。
    次に、山北に南下しようとする賊を防衛しようとして、山北三郡の不動穀を、雄勝郡および添河・覇別・助川三村の俘囚に与えて、その防衛に期待をかけている事実である。
    雄勝城の防衛に、河南三村とも隣接する山北の最北にあったとして初めて納得できるものである。
    このようにして、雄勝城が山北の南辺にではなく、その北辺になければならぬということになり、十道を承ける大衝ということになれば、払田柵をこれにあてる以外、比定すべきものはない。
  5. 羽後町足田にかなりの規模の古代城柵風施設があったことは、遺跡・遺物の現況と地名等から推して明瞭であるが、どのように大きく見積もっても払田柵のような規模ないし構えのものにはならない。
    雄勝城は出羽国の大鎮城であり、雄勝にあればどのようなものでもよいというような城ではない。
    古代の府城としての資格を十分に備えたものでなければ、いくら雄勝にあっても歴史上の雄勝城と呼ぶことはできない。

▼ 高橋富雄氏の『蝦夷』

高橋富雄氏の『蝦夷』

払田柵に関する学説