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政庁の東側には、丘陵上では政庁に次ぐ広い平坦面が存在する。
この平坦地は政庁よりも標高が4m高く、やや北に張り出している。
明治年間には畑地として利用され、最近まで杉林となっていた。
古代におけるこの平坦地の利用状況を解明するため、発掘調査を行ったところ、竪穴住居跡、掘立柱建物跡、板塀などを検出した。
まず、竪穴住居跡を見てみると、その平面形は一辺が3.2~5.8mの方形で、住居の方向は南北方向に揃えているものが多いが、それに対してやや方向が異なるものと2種がある。
年代は前者が9世紀後半頃、後者は9世紀初頭に城柵としての施設が造られる直前まで存在した住居であると推定される。
9世紀後半代の竪穴住居跡からは、「厨」、「官□」、「小勝」などの墨書のある須恵器がが出土した。
掘立柱建物跡と竪穴住居跡
掘立柱建物跡には桁行が約15m、梁行が6.8mあり、政庁の第Ⅱ期~Ⅳ期の脇殿とほぼ同規模のものがある。
この地に最初に建てられた、実務を行うための建物と考えられる。
そのほかに、これに重複して桁行約7m、梁行5~6mほどの建物跡も何棟かあり、これらは10世紀代の建物と考えられる。
掘立柱建物跡
板塀には東西方向のものと南北方向のものとがあり、重複が多く、何回にもわたって建て替えがなされている。
この板塀は、幅20~30㎝の溝を掘り、溝の中に等間隔に柱を立て、これを横板でつないだ構造と考えられる。
溝内に立てる柱は長方形の板状をしている。
同様な例は北秋田市の胡桃館遺跡でも見つかっている。
板塀は掘立柱建物跡に伴う施設と考えられるが、建物との組み合わせは必ずしも明確ではない。
しかし、9世紀前半代と10世紀代の建物のそれぞれに伴う板塀があることがわかっている。
板塀
このほか竪穴住居跡に建物部分が伴う形のものがある。
近年青森県で多く発見され、秋田県内でも米代川流域を中心に各地で見つかっている遺構である。
竪穴住居部分のカマドが建物部分を向いており、両方とも1回の建て替えがある。
竪穴住居部分は通常の居住空間で、建物部分は物置などの非居住空間と考えられる。
これらの遺構の新旧関係からこの地区での遺構の変遷を見ると、おおまかに9世紀前半代には板塀を伴う掘立柱建物が造営され、9世紀後半代になると竪穴住居に変わり、10世紀代なると、また板塀を伴う掘立柱建物へと変遷することがわかり、政庁とは異なって、変化に富んだ使われ方をしていることが窺える。
この地域は政庁域とは違って、実務官衙ブロックの一つなのであろうが、掘立柱建物跡や板塀は、調査区域外にもまだ拡がりが予想される。
竪穴住居跡内の遺物出土状況