材木塀に用いられている角材はスギの原木を1/2、1/4などに割った後、一辺22~30㎝の大きさに加工を施すが、その際の手斧(ちょうな)の後が表面によく残っている。
芯のあるものや、皮を剥いだだけで加工していない面をもつものもある。
下部には筏穴や目渡孔などと呼ばれる穴があけられている。
底面は平坦なものが多いが、とがらせたものも見られる。
こうした角材は幅約60㎝、深さ約80~95㎝に掘られた溝の中にすき間が無く立て並べられている。
溝の底には角材を加工する時に生じた材木の断片や、広葉樹の幹や板を入れて礎板とし、角材を固定させている。
中には板材や木片を2・3段に重ねている所もある。
しかし、材木塀の構築方法、固定方法、上部構造の細部などは不明な点が多い。
「最上四」「行」「□木圭?」などの刻書や「一百枝」の墨書のある角材も出土している。
外柵東部の材木塀
外柵材木塀は、全体が途切れる事なく連なっていると考えられてきたが、近年思わぬ事実が発見された。
それは、外柵南部の低地には、古代において東西に流れる川があり、外柵南門の西でその流れと材木塀が交差するところには、当初から材木塀が作られていないことが判明したのである。
さらに、外柵の北東部にも河川跡があり、ここでも材木塀の想定される位置に材木塀が検出されないこともわかってきた。
材木塀の上に河川の氾濫による砂利が
厚さ1m堆積している
城柵遺跡における外郭線は、一定の地域を区画して特定の地点以外からの出入りを規則し、外観をより威厳あるものとしながら、防備に十分機能するための条件を備えたものとされる。
払田柵跡の外柵材木塀には当初から門のほかに開口部があるほか、櫓や堀も伴わず、しかも短期間で使用されなくなるという事実があり、これが他の城柵遺跡の外郭線との大きな相違点である。
防御としての機能よりも、むしろ創建当初において、払田柵全体の威容を整え、国家の威信を示すことを主眼としたものではなかったか。
角材を資料とした年輪年代測定では、西暦800年、801年に伐採したスギ材を使用していることがわかった。
ほぼこの年代が外柵の作られた年代である。
抜き上げた角材