外柵の南部には東から西へ流れる河川跡がある。
外柵南門にとりつく材木塀を東から西に向かって掘り進んでいくと、材木塀がぷっつりと途切れ、やがて角度を変えてまた続いていた。
その間の27mは川の跡で、材木塀はここには元々作られていなかったのである。
川の対岸はこの位置から約100m北に見つかり、その間のすべてが河川敷となっていた。
実際に水が流れる川幅は6~8mほどであるが、大きく蛇行しながら流れるので、全体としてはこのように広い河川跡となっているのである。
このことが判明したのは平成4年のことであるが、昭和51年の第10次調査でも外柵南門の北方に東西方向に流れる幅約4mの河川跡が見つかっている。
しかし、それは河川としては最終段階の流れの、しかもほんの一部分だったのである。
川を掘り下げてみると、川の検出面より約2mで川底の粘土層に達した。
最下層には砂礫が厚く堆積し、土器や木製品が多く出土する。
その上の砂層には流れてきた枝や幹などが多いが、土器などの遺物はほとんどない。
砂礫層から出土する土器の年代は、9世紀初頭頃の土器はほとんどなく、多くは9世紀後半~10世紀頃の土器である。
また、砂層の上方には10世紀初頭頃に降下した火山灰の堆積が見られるところもある。
河川の変遷をたどってみると、河川は外柵が作られた9世紀初頭には存在し、川と材木塀が交差する位置には材木塀はあえて作らなかった。
川はその後も流下していたが、9世紀後半~10世紀初頭にかけて大きな氾濫があったり、河川の河道が変わるなどして急激に多くの砂礫層を堆積させる状況に変化し、火山灰が降下した時には河川敷の大部分は、砂や粘土層が厚く堆積していた。
その頃に川の流れがないところでは、焼土遺構を残したり、遺物包含層を形成したりしている。
川としての最終段階の流れは、材木塀の開口部では創建時の流れと同位置に重なっており、その形成は古代の範囲内と考えられる。
川の流れが外柵の中に入って来る所と、柵外に出る所はまだ見つかっていない。
しかし、どこかにあるはずで、その出入口部にはやはり材木塀は作られていないことが予想される。
材木塀をたどってゆけば見つかるだろうが、外柵は水田の中に埋まっているので、広く掘ることはできない。
そこで水田を掘らずに、河川敷の範囲を電気探査で押さえることができれば、その位置をしぼり込むことができるであろう。
電気探査は秋田大学鉱山学部地球物理学教室に依頼して実施している。
これまで河川敷の幅は外柵南門付近で南北100m、その東では南北250mにも及んでいて、外柵の低地には河川敷の占める割合が非常に大きいことが分かってきた。
川の流れを城柵内に取り込むのは、陸奥国で9世紀初頭に造られた胆沢城に共通している。
河川跡と橋脚の調査の様子