秋田県教育庁払田柵跡調査事務所
サイトマップ <お問い合わせ>hotta-no-saku@mail2.pref.akita.jp
文字は紙に書くほかに、薄い木の板にも書かれた。 細長い短冊状の板を作り、紙とは異なる木の性質を生かして、文書・帳簿などの記録や、物品に付ける荷札などに使用していたのが木簡である。
前述のように、藤井東一は昭和5年9月に自ら発見した文字の書かれた木片を見て、いち早く木簡と認識したのである。
今日では残っていないが、これがその第1号木簡で、寺書生の仙氏監が糒(ほしいい)を受け取ったという受領書である。
これは嘉祥2年の予算3,834束の稲が、上級の役所から支給され、その勘定を終えたことを記す。 年号が書かれており、この木簡と一緒に出土した土器と合わせ、年代を知ることができる。
これには十火とある。 一火は10人の兵士の意味なので、ある時期に十火すなわち100人の兵士が払田柵跡に駐屯していて、その食糧米を請求する文書である。
これは小針(尾張)の某という人物が、調米として米5斗を納めたことを記す貢進物付札である。 秋田城出土木簡の中にも尾張のウジ名を持つ人物が見え、『続日本紀』和同7年10月の記事には出羽国に尾張国の民が柵戸として移配されている事実が記されている。
木簡は表面を小刀で削り、文字を消して繰り返し使用した。 これらはその削り屑で、「義」「九月」の文字が読める。 義の文字は少なくとも4文字重ねられていて、字の練習に書いたのであろう。