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過去のおしゃべり(名誉館長)


 
  2014年(平成26年)のおしゃべり 
 
12月 11月 10月
9月 8月 7月
6月 5月 4月
3月 2月 1月
  

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 12月 (57~60)

● 2014-60.
 『別冊太陽 日本美術史入門』(12月23日)


 出版元である平凡社の 100 周年を記念するムックの一冊として、魅力的な日本美術史の入門書を作って欲しいというオファーを受けたのは 1 年以上前のことでした。かつて監修した『江戸絵画史入門』が好評なので、続けて是非といわれれば悪い気がするはずもなく、よろこんで引き受けしました。もちろん一人ではとても無理、僕は江戸時代だけを担当、我らが旧奈良家住宅を大きく取り上げることにして、あとは親しい友人に編集と執筆をお願いしました。先史時代は原田昌幸、飛鳥白鳳時代は金子啓明、天平時代は長岡龍作、平安時代は佐野みどり、鎌倉南北朝時代は黒田泰三、室町時代は島尾新、桃山時代は奥平俊六、幕末明治前期は安村敏信の諸氏とくれば、もうこれは現在望みうる最高のスタッフでしょう。僕は各時代の美術的特色が視覚的に直感できる作品を厳選するとともに、最新の情報を盛り込むこと、執筆者の見方を加えた斬新な切り口を提示すること、しかもガイド・ブックとしての分かりやすい表現を重視することも頼みました。縄文時代からでも一万数千年の歴史を誇る日本美術史を一冊にまとめるという制約のなかで、きわめて質の高い入門書が完成したものと自負しています。監修者としては何の役にも立ちませんでしたが、巻頭言だけは書きました。その「日本――それは美術の国です」という書き出しが、そのまま俗称「腰巻」に採用されたのもうれしいことでした。
 
● 2014-59.
 追悼 高倉健 〈 本名・小田剛一 11月10日没 享年83 〉(12月19日)


 本来ならまず映画ですが、今日は健さんゆかりの女旅日記を紹介しましょう。かつて読んだ田辺聖子の『姥ざかり花の旅笠 小田宅子の<東路日記>』(集英社)がそれです。もともと僕はお聖さんが好きだったのですが、これを読み始めたのは、幕末の女旅日記なので、何かエッセーでも書くときに使えるんじゃないかという、ちょっとセコイ考えからでした。筑前・上底井野村(現・福岡県中間市)の裕福な商家をあずかる小田宅子と桑原久子という二人の主婦が、相はかってお伊勢参りに出かけます。宅子は 53 歳、久子は 51 歳、ほかに二人の女性を加えた女 4 人旅です。時は幕末の天保 12 年( 1841 )、荷物持ちの下男 3 人を従えていたとはいえ、女性がそんな旅行をできるほど治安がよく、街道海路は整備され、為替制度やおみやげを買うとすぐ託けられる飛脚便まで発達していたのです。しかも伊勢から善光寺へと参詣の足を伸ばし、江戸見物を楽しんだあと、懐かしき故郷へと無事戻ってくるのですが、その間 5 ヶ月、正確には 144 日、距離にして 800 里というのですから、驚くとともに深い感動を覚えずにはいられません。ところで健さんは、宅子さんの 5 代あとにあたるご子孫、その因縁をみずから『あなたに褒められたくて』(集英社文庫)に書いています。『東路日記』を読みやすい形で出したいという健さんの思いがお聖さんに伝わり、この素晴らしい本が誕生したのでした。
 
● 2014-58.
 京都文化博物館
 「野口久光 シネマグラフィックス 魅惑のヨーロッパ映画ポスター展」< 12月7日まで>(12月13日)


 会場に入るなり懐かしさがこみ上げてきます。展示される最初の映画ポスターは、 1933 年日本公開の「制服の処女」、僕が生まれる 10 年も前の作品ですが、なぜか懐かしいのです。ヌーベル・バーグの旗手フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」になれば、もう本当に懐かしい !!  ともかくも懐かしくなり、帰宅してから、かつて購読していた『映画の友』を求めてダンボール箱探しをやりましたが、みな処分してしまったらしく、数冊しかでてきません。しかし、やはりここにも野口が登場するのです。例えば、アン・マーグレットが表紙を飾る 1964 年 7 月号に、野口は「<想い出の名画・戦後篇 7 >『パリで一緒に』のモトになった『アンリエットの巴里祭』」を書いています。オードリー・ヘプバーンとウィリアム・ホールデンが共演するアメリカ映画「パリで一緒に」が、ジュリアン・デュヴィヴィエの名作「アンリエットの巴里祭」をもとにした作品であることを指摘した映画評です。開巻数分にしてわかったというのですから、さすが野口と感を深くします。「パリで一緒に」はこの頃わが国で封切られたらしく、この号の裏表紙がその全面広告となっており、<総天然色>とあるのもこれまた懐かしい !!  ちなみにこの号を捨てないでおいたのは、大好きだったスティーブ・マックィーンとスザンヌ・プレシェットの大きなカラー写真が載っているためだったかも ?
 
● 2014-57.
 出光美術館
 「仁清・乾山と京の工芸」< 12 月 21 日まで>(12月6日)


 京焼の二大スター野々村仁清と尾形乾山に、企画した柏木麻理さんが新鮮なオマージュを捧げています。「僕の一点」は「五彩十二か月花卉文杯」(出光美術館蔵)、清朝・康熙年間、景徳鎮官窯で焼成された 12 客一組の杯で、それぞれの月の花に、唐詩から引用した七言二句が添えられています。中国では、明代末期から旧暦 2 月中旬のお節句「花朝」がはやり始めました。これは花神―― 12 か月の花の神様を祭るもので、この杯はその時に使われたらしい。ところで乾山焼には、MOA美術館本をはじめとする「色絵定家詠十二か月和歌花鳥図角皿」が知られていますが、五彩杯との間に共時性があるという指摘は目からウロコでした。実は僕もこの五彩杯の 1 月と 12 月を持っているのです !  もちろんコピーですが。 1996 年北京に行ったとき求めたもので、 1 月の一字を間違えているところがご愛嬌です。本来は茶杯だそうですが、もちろん僕にとっては酒杯 !!  詩句はほとんどが『全唐詩』から採られており、 1 月もそれに載る白楽天の「玩迎春花贈楊郎中」であることを教えてもらいました。それを又々僕の戯訳で……

 春まだ寒くふるえてる 金の花房 翠 [ あお ] い萼 [ がく ]
 黄色い花はいろいろと あるけど黄梅ナンバーワン
 旅立つ君に贈りたい 「老眼? メじゃない ! 」 花眼とも
 いうから花だけ看てほしい 無粋な蕪 [ かぶ ] など見るじゃない

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 11月 (53~56)

● 2014-56.
 京都美術工芸大学
 「客員教授九里一平特別講義」( 11 月 21 日)


 九里一平さんは、漫画「科学忍者隊ガッチャマン」や「みなしごハッチ」で有名ですね。九里さんは 1940 年、京都の生まれ、 3 歳ほどお兄さんですが、僕も同じ世代に属しています。 2004 年、九里さんは講談社から『京の夢、明日の思い出』という絵本を出版しています。登場するのは、鈴なりのチンチン電車―あのころは日本人もエネルギーに満ちていたなぁ。カーバイト灯をつけて夕涼みがてらの縁台将棋―あの独特の強烈な臭いが鼻腔によみがえってきます。ターザンごっこ―みんなワイズ・ミューラーになったつもりでした。スイカ運び―これは経験がありませんが、 1992 年に旅行した蘇州を思い出しました。「どんま」―僕たちは「ながうま」と呼んでいました。トンボ釣り―重りをつけた糸で引っ掛けるのではなく、まず金ヤンマを網で捕まえ、糸をつけて防火用水池で飛ばせると、銀ヤンマが飛んできてオツするので、そいつを引き剥がすという残酷な?やり方でした。濡れ雑巾を投げ上げて、コウモリを捕るのはやりましたが。メンコ―このような一枚ずつのイカシメンではなく、ダシかミツジマでした。そして最後はゼンダシです。コマ回し―このようなキョクゴマもやりましたが、主流はベーでした。弘法市のアメリカン・コミックス―いかにも九里さんらしい !!  でも大森ではもっぱら貸本屋の日本漫画、僕は杉浦茂の『真田十勇士』や『モヒカン族の最後』のファンでした。
 
● 2014-55.
 京都文化博物館
 「池大雅美術館コレクション寄贈記念 池大雅」② <朝日新聞「こころの風景 深?の裏通り」>(11月15日)


 真夜中に深?の裏通りでほっぽり出された。如何ともし難い。近くのホテルを探してもぐり込んだ。
 香港から本土の岳陽に出かけた。最も尊敬する画家池大雅が国宝の屏風に描いた岳陽楼を、この眼で確かめるためである。所期の目的も果たし、列車で長沙から広州へ向かった。予定を 1 時間ほど遅れて、夜 8 時広州に着いたのだが、到着少し前に車掌が深?までのバスの切符を売りにきた。もちろん買った。広州に着くと、その男が旗を持って立っており、付いていくとバスに乗せられ、その男が運転手に早変わりする。
 ところが 2 時間ほど走って東莞を過ぎたあたりで、公安警察にストップを命じられたのである。運転手は下車を命じられ、口論が始まり、そのうち羽がいじめにされて連行されていってしまった。公安は何の説明もせず、証拠物件らしいバスを転がして行ってしまった。乗客 15 人ほどは、夜中の 10 時に高速道路の端に投げ出されたのである。
 なかに一人、北京語を話す解放軍兵士のような少年がいた。陣頭指揮を取って、走ってきたライトバンを止め、深?まで連れて行ってくれた。ところが降ろされたのは、うら寂しいどこかよく判らない場所。ガイドブックには、よる深?を一人では絶対に歩くななどと書いてあるが、どうしろというのだ。近くに歩道橋があったので上ってみると、安ホテルのネオンが神々しくまたたいていた。地獄に仏とは、まさにこのことであった。この場合は地獄に神というべきか?
 
● 2014-54.
 京都文化博物館
 「池大雅美術館コレクション寄贈記念 池大雅」①(11月15日)


 京都文化博物館は我が京都伝統工芸館から歩いて 3 分のところにある博物館、東大時代の学生で、つい先日『明治絵画と理想主義』(吉川弘文館)という好著を出した植田彩芳子さんと、『國華』で 2 年ほど編集を手伝ってもらった森道彦さんが学芸員として勤めています。このたび池大雅美術館の収蔵品が京都府に寄贈されたのを機に、森さんが中心となって立ち上げたのが、この特別総合展示です。実業家で、のちには大雅研究家となった佐々木米行先生が集めた大雅の作品を展示したのが池大雅美術館で、苔寺の前にありました。僕も何度か拝見にうかがったことがあり、また米行先生からは編著書をお送りいただいたこともある思い出深い美術館です。今春、森さんから講演依頼の電話があり、聞くと先生のお嬢さんであるもと子さんとのコラボとのこと、二つ返事でお引き受けしたことでした。森さんが考えてくれたタイトルは、「池大雅を楽しむための基礎講座」という真面目なものでしたが、いつものおしゃべりトークでやっていたら、このコレクションの目玉ともいうべき「柳下童子図屏風」のところで予定の時間が来てしまいました。続いてもと子さんからは、収集にまつわる興味深いお話を聞くことができ、米行先生に対する尊敬の念をまた新たにしたことでした。大雅にちなんで、次回はかつて朝日新聞に寄せた「こころの風景 深?の裏通り」を再録することにしましょう。
 
● 2014-53.
 秋田県立近代美術館
 「招き猫亭コレクション 猫まみれ展」 入場者10000人達成を祝して(11月8日)


 一海知義さんに会ったことはありませんが、尊敬する中国文学研究者です。最近、僕は『國華』「南画と文人画」特輯号のために、「行路の画家蕪村――その旅立ち」という拙文を書きましたが、蕪村結城下館時代の傑作、「陶淵明・山水図」三幅対を考えるに当たって、まずひもといたのは一海さんの『陶淵明 虚構の詩人』(岩波新書)でした。しかしガチガチの研究者ではないらしく、かつて一海さんの友人たちは、停年記念に『生前弔辞 一海知義を祭る』と題する一冊の弔辞集を出版したというのです。これは陶淵明の「自祭文」にならったものですが、一海さん自身にユーモア精神があっての話でしょう。この一海さんが編集した『陸游詩選』(岩波文庫)に、「贈猫」という七絶が収められています。一海さんによれば、陸游は「南宋随一の詩人」、「飼猫の詩は唐以前にはあまり見えず、宋に至ってにわかに増える。陸游には20首を超える作品があり、雪児、粉鼻、小於菟などの愛称で呼んでいた」そうです。又々僕の戯訳で……

 塩を贈ってその代わり 我が家に仔猫を迎えたよ
 書斎の本の万巻が 鼠にやられぬようになる
 しかし悲しや貧乏で その功績に報いえず
 寒中座る毛氈も 食事に添える魚もなし

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 10月 (48~52)

● 2014-52.
 サントリー美術館
 「高野山の名宝 高野山開創 1200 年記念」( 10 月 20 日)


 唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海は、弘仁7年( 816 )勅許を得て高野山を開きました。やがて高野山は仏教美術で満たされることになりますが、これは曼荼羅に代表されるごとく、密教においてもイメージが重視されたからでしょう。来年は節目の年、これを記念して 60 件もの名品が六本木に集いました。「僕の一点」は「不動明王坐像」+「八大童子像」です。前者は藤原時代の作ですが、これに合わせて運慶が眷属である後者を造ったのではないでしょうか。いずれにせよ、両者が相まって不動世界を形成しているのです。不動明王はヒンドゥ教の神が仏教に取り入れられ、如来の使者となったものです。つまりインドに起こり、中国で展開した仏様ですが、きわめて盛んに造像作画が行なわれ、不動信仰が高まり広まったのは我が国においてでした。その理由は、不動明王がもともと子供だったことにあるというのが私見です。善無畏訳『大日経』には、「不動如来使者は慧刀・羂索を持ち、……額に水波の相があり充満した童子形である」とあります。実際には壮年の形に作られますが、童子形であったという記憶は、8人の子供という珍しい眷属のなかに生きているのです。エドワード・モースをはじめ、近世以降わが国に来た西洋人は、子供が大切に育てられていることに驚きの声をあげています。その根底には、子供を純粋無垢なるものと考える日本人の伝統的感覚があったのです。
 
● 2014-51.
 奈良国立博物館
 「天皇皇后両陛下傘寿記念 第66回正倉院展」内覧会( 10 月 23 日)


   京都美術工芸大学の母体である二本松学院は、正倉院展のために協力をさせていただいているので、そのお陰でしょう、今年は僕にも招待状が届きました。本当にしばらくぶりです。「僕の一点」はもちろん「鳥毛立女図屏風」です。ポッチャリ型の唐美人が樹木の下に立ち、あるいは岩に腰掛けています。カタログに谷口耕生さんが指摘しているように、これと同工異曲の樹下美人図屏風が、西安(唐時代の長安)にある韋家墓の壁面に描かれています。正倉院本がわが国で制作されたことはほぼ確実なのですが、そのオリジンはこのような唐代絵画であったことが明らかです。しかし、さらに西方のトゥルファンから出土した樹下美人図画がMOA美術館にあります。アスターナ出土の樹下男士図が東京国立博物館にあって、両方を合わすとまるで男女がデートしているように見えるので愉快ですが……。道浦母都子の「子を生まぬ乳房なれども吐魯番の絹に包めばみずみずとせり」に感を深くしながら、まだそこに行ったことはないのですが、さらなる起源はペルシャやインドに求められます。これらでは「アショカ樹にもたれる摩耶夫人」に見るごとく、樹木は「生命の樹」という象徴性を強く主張するようになっています。しかしさらに、ギリシアのアテナとオリーブの神話とも根は一つであるというのが私見です。もしそうなら、鳥毛立女は純潔なる女性ということになるのですが !?
 
● 2014-50.
 第 29 回国民文化祭記念講演・シンポジウム
 「江戸に花開いた秋田の文化」( 10 月 5 日)


 前日は「名誉館長講座」の国民文化祭記念「秋田蘭画試論」、 6 階ギャラリーでは、重要文化財の小田野直武筆「不忍池図」が玉座を占めています。東洋では古くから芍薬に浪漫的なイメージがありました。また不忍池は、恋愛のシンボルである蓮の名所であり、男女が逢瀬を楽しむお茶屋さんのメッカとしても有名でした。それらが分かち難く結びつきながら、弁天堂に祭られる弁才天を表象した作品になっているという持論を展開したことでした。終了後は上記シンポジウムのため角館へ、夕方からは懇親会が開かれました。 1994 年秋、『解体新書』出版 220 年を記念して、ここ角館で大シンポジウムが開催されましたが、そのとき大変お世話になった町長の高橋雄七さんに 20 年ぶりにお会いし、本当に懐かしいことでした。その高橋さんがご持参くださったのは「朔雪」、初めての銘酒を心行くまで堪能しました。翌日午前中は見学会、新潮社記念文学館、直武のお墓に続いて、平福記念美術館前の旧制角館中学校跡に建つ「角館中学校歌稿碑」と回りました。この校歌は平福百穂の依頼で島木赤彦が作詞したのですが、完成する前に病没したため、斎藤茂吉が補作したのです。その朱が入った原稿をそのまま碑にするというアイディアに深く感じ入りましたが、その 4 番に「朔雪しのぐ若杉の……」とあるではありませんか。実に「朔雪」という酒名は、中学校校歌から採られていたのです !?
 
● 2014-49.
 秋田県立近代美術館
 「招き猫亭コレクション 猫まみれ展」( 10 月 4 日)


 人気を集めた「岩合光昭 猫の写真展」に続いて、今度はその名も「猫まみれ」――浮世絵からコンテンポラリーまで、招き猫亭小銀さん夫婦が、「好きか?嫌いか?」というシンプルな基準だけで集めたという猫アート・コレクションです。ご夫婦は 10 匹の猫と、家中の壁を埋める猫アートに囲まれて暮らしているそうです。「僕の一点」は、カタログの表紙にも選ばれている高橋弘明の「ジャパニーズ・ボブテイル」。 1926 年の新版画で、海外の美術館にも多く収蔵されているとのこと、赤い鹿の子絞りの首輪、というよりも襟巻きをして、じっとコチラを見据える真白な日本猫が、漆黒のバックを背に箱座りをしています。その空摺りの美しさ !!  高橋弘明( 1871 ~ 1945 )は松亭とも号し、伯父の松本楓湖に日本画を学びました。浮世絵版画の複製などで口に糊していたのですが、渡辺庄三郎から勧められてオリジナル新作版画を制作したところ好評を博します。以後、渡辺版画店から新版画の代表作となる「南都八景」をはじめとして 500 点以上を出版、その後も活躍を続けました。高橋に関する研究は、清水久男さんの『浮世絵芸術』 149 号所載論文に尽きています。それによると、 1891 年、高橋は青年画家たちと一緒に、岡倉天心を会頭とする「日本青年絵画協会」を設立するのですが、とくに我らが寺崎広業といい飲み友達だったそうです。つまり秋田ゆかりの芸術家だったのです !?
 
● 2014-48.
 藤野可織さんとの対談(10月1日)


 藤野可織さんは去年、『爪と目』によって第149回芥川賞を受賞した新進気鋭の作家です。藤野さんと琳派について、何回か対談することになりました。琳派400年記念祭を迎えて、特集記事にしたいという京都新聞からのオファーです。第一回目の今日のテーマは本阿弥光悦と光悦村、もちろんランデブー――ちょっと古いですね――の場所は光悦寺です。かつて『光悦と光悦流』を書いたときは、お参りしながら刺を通じなかったので、まず京都伝統工芸館の新谷由貴代さんから、山下智昭住職を紹介してもらいました。光悦の墓前に額づいたあと、鷹が峰を背に藤野さんと対談を始めました。対談といっても、ほとんどおしゃべり名誉館長の独壇場といった感じでしたが……。光悦村の見方については、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動につながるような芸術村と、法華宗徒による宗教村という二つの説があります。しかし僕は、日蓮の浄仏国土思想を具体化させようとしたのが光悦村だと信じているので、今日も何とかの一つ覚えのごとくに繰り返してしまいました。続いて「望月庵」でおいしいお茶をいただきながら、夕方まで充実したひと時を過ごしました。僕が『爪と目』からは、中学生のとき横光利一を初めて読んだ時と同じような感を覚えたと言うと、横光はもっとも好きな作家の一人だと藤野さんが応えてくれたので、とてもうれしくなったことでした。

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 9月 (44~47)

● 2014-47.
 京都伝統工芸館
 「琳派400年記念祭プレイベント   連続講座『琳派』の作家たち――400年の系譜」 (9月19日)


 京都伝統工芸館は、言ってみれば京都美術工芸大学の大学美術館、京都地下鉄・烏丸御池駅の6番出口を出たところが入り口です。ここで10回にわたり、琳派をテーマに河野トークを行なうことになりました。これまで琳派とは何かなんて考えたこともなかったので、よいチャンスだと思い、第1回目の今日は「琳派とは?」と題して話すことにしました。まず琳派の定義から入ったのですが、「定義することはできないというのが琳派の定義である!?」と言って笑いをとりました。そのあと「手弱女ぶりの装飾性」こそ、琳派最大の特質であるという私見から、琳派名称論に移りました。玉蟲敏子さんの名著『生きつづける光琳』によると、最初に「琳派」という流派名を使ったのは、数寄者・高橋箒庵だそうですが、昭和47年、東京国立博物館創立100年を記念する特別展「琳派」がヒットしてからは、誰もが「琳派」と呼ぶようになりました。その数年後、山根有三先生は5冊の大型研究図録を監修出版され始めましたが、「宗達光琳派」主義者であった先生も、ついに『琳派絵画全集』と銘打たざるを得なくなったほどでした。最後に、宗達や光琳は確かにすごいけれども、「新しき琳派出でよ!!」という僕の願望を述べて〆ました。イギリスの女性ギリシア学者、ジェーン・ハリソンも、「表現すべき情緒は今日の情緒であり、また明日の情緒ならなおさらよい」と言っているのですから。
 
● 2014-46.
 京都国立博物館
 平成知新館オープン記念展「京へのいざない」<11月16日まで> (9月12日)


 今日は内覧会、現代日本を代表する建築家、谷口吉生さん設計の素晴らしい平成知新館が出迎えてくれます。「僕の一点」は堂本家所蔵の「四条河原図屏風」です。僕が名古屋にいたころ、小学館から『近世風俗図譜』というシリーズが出版されることになり、第5巻「四条河原」の編集を依頼されました。そのとき大きく取り上げたのが、すでに重要文化財に指定されて有名であったこの屏風と、双璧をなす静嘉堂文庫美術館所蔵の屏風でした。京都の一大歓楽地として発展していた四条河原のエネルギーをとらえて、余すところがありません。遊女歌舞伎を中心に、さまざまな芸能や見世物を描きつつ、その喧騒まで伝えるところがすごいのです。この2点の傑作は、寛永年間の制作と推定されるのですが、これ以前、四条河原は洛中洛外図屏風のなかに描き込まれるだけでした。しかし僕は、寛永以前に四条河原図が誕生していた可能性を推定しました。阿国歌舞伎や倣阿国歌舞伎の場合には、それらが洛中洛外図屏風にとらえられて程なく、単独主題として確立していたからです。すると間もなく、蒲郡の天桂院というお寺から、新たに「四条河原図屏風」が発見されたというニュースが飛び込んできましたが、これこそ僕が想像していた元和年間の作品でした。自分の予想がみごと当ったのでちょっとうれしくなりましたが、考えてみると、それは名古屋のすぐ近くにあったのでした。
 
● 2014-45.
 秋田県立近代美術館
 特別名誉館長講座 「大原美術館コレクション日本近代洋画の魅力」 (9月6日)


  156 名もの方々で満員御礼 !!  河野トークの人気ゆえ !? 「僕の一点」は関根正二の「信仰の悲しみ」、 2003 年、重要文化財に指定された作品ですが、そのとき僕も審議委員をつとめていたので、強く印象に残っているのです。日比谷公園でみた女性の行列の幻影に発する作品というのが定説ですが、親しかった素木しづの小説に原点を求める意見もあり、『國華』 1305 号の大原近代美術特輯号では、蔵屋美香さんが「巡礼」と結びつけています。しかし、肺結核に苦しんでいた関根が死期の近いことを予感し、生命のはかなさを象徴的に表現した浪漫主義的作品だというのが私見です。脇役の女性 4 人は花を持っていますが、赤い服を身にまとうヒロインは果実を手にしています。それは花→実という植物の成熟を示していますが、その位置に注目するとき、よく知られた牧野富太郎博士の言葉が思い出されるのです。果実は生命の結実でありながら、うな垂れたヒロインは寂しげであり、悲しげであり、はかなげです。果実もやがては大地に還っていく――生命の終焉におののき、諦観に向かう関根を、このヒロインに読み取りたい誘惑にかられるのです。これは第 5 回二科展で樗牛賞を受けた作品として有名ですが、二科展最初の出品作が、「死を思ふ日」であったというのは、何と象徴的なことでしょうか。 19 歳の関根が、生命の素晴らしさを讃美したものと考えたいところではありますが……。
 
● 2014-44.
 サントリー美術館
 「プラハ国立美術工芸博物館所蔵 耀きの静と動 ボヘミアン・グラス」< 9 月 28 日まで> (9月1日)


 チェコ共和国のボヘミア地方を中心に発達したボヘミアン・グラスは、水晶のように耀くカットによって見るものを魅了します。 13 世紀に始まるガラス製造は、 17 世紀後半、透明度が高いカリ・クリスタルの発明によって興隆の時を迎えます。 18 世紀、ヨーロッパではヴェネチアン・グラスがはやっていましたが、ボヘミアン・グラスがこれに取って代わり、 19 世紀に入ると色々な着色法が開発され、モノクロ美から色彩の耀きへと大きく変化、そして 20 世紀には、そのガラス彫刻が世界からオマージュを捧げられるようになったのでした。 170 件ものコレクション作品が、このようなボヘミアン・グラスの展開を一望のもとにさらしてくれます。「僕の一点」は「酒器セット ミスター・エッグ」、 1990 年にヤン・ネメチェクとミヒャル・フロネクによって設立されたオルゴイ・ホルホイ・デザインスタジオの作品です。シンプルなフォルムは文字通り卵のよう、どんなお酒でもとても美味しく飲ませてくれそうです。カタログの表紙にもなっている「コロウラット家紋章文蓋付ゴブレット」はもちろん素晴らしい !!  しかし毎日やるにはなぁ――なんて思いながら帰宅すると、先日ネットで注文した 100cc ストレート・グラスがちょうど到着しています。これはスロヴァキアの「ロナ」という会社のものですが、広義のボヘミアン・グラスだなどと思いながら、早速一杯やったことでした。

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 8月 (42・43)

● 2014-43.
 出光美術館
 「宗像大社国宝展 神の島・沖ノ島と大社の神宝」<10月13日まで>(8月18日)


 宗像大社の沖津宮が鎮座する沖ノ島には、中国や朝鮮、ペルシャなどのお宝がシルクロードを通してもたらされました。1954年から学術調査が行われ、約8万点ものお宝が出土、一括して国宝に指定され、沖ノ島は「海の正倉院」とたたえられるようになりました。このお宝を中心にした特別展、「僕の一点」は「鳥文縁方格規矩鏡」です。方格規矩鏡とは、鈕とよばれる真ん中の紐を通す部分を正方形で囲み、その外側にTとLとVのような形の模様を配した鏡です。これはわが国の古墳時代に作られた鏡ですが、?製鏡と考えられます。?製鏡とは中国の鏡をもとに作った鏡のことで、直接型取りしたものと、参考にしながら作ったものに大別できます。「僕の一点」は明らかに後者です。これのもとになったような、漢代の「?金方格規矩四神鏡」が京都大学の博物館にあります。これを見ると四神が東西南北に正しく描かれていますが、「僕の一点」ではそれが渦巻文になっているからです。これを写しくずれのように見なす意見もありますが、リアリズムより優美なデザインを好む美意識がすでに育っていたと考えることもできるでしょう。それはともかく、ギャラリー・トークを終えた八波浩一さんとおしゃべりしていたところ、漢代のバックギャモンに似た賭博遊具に、同じT・L・V模様が見られることを教わりました。神聖な鏡と賭博遊具がまったく同じデザインを用いているとは!!
 
● 2014-42.
 辻惟雄『ある美術史家の回想 奇想の発見』 <新潮社>(8月15日)


 「おしゃべり名誉館長」にも度々登場してもらっている辻惟雄さんの自伝、絶対オススメの一冊です。失恋や失敗の数々、お色気譚までが赤裸々に!?語られていますが、このような開放的キャラと好奇心が伊藤若冲を発見させたのだと思います。僕もちょっと顔を見せますので、恥ずかしながら引用させてもらいましょう。
 「河野先生と笑い茸 東大を定年退職した私の後任は、山根先生最後の頃の学生で、宗達・光琳研究法を伝授された河野元昭氏だった。博識な学者であると共に、温厚で明朗快活なお人柄である。1985年に名古屋大学から助教授として東大に赴任してきた時から、今にいたるまで、そのことに変りはない。だが、東大で教えるうち、まるで笑い茸にでも中ったように、ゲラゲラゲラッと大声で笑う癖が何時からか始まり、今になっても止まらない。2006年、氏の退官を記念して23人の教え子たちが力作論文を寄せた。分厚いこの本の背表紙に大きく書かれたタイトルは『美術史家、大いに笑う』である。愛情を込めながら意表をついたこの題の命名者は、後任の佐藤康宏教授だった。しかしこの笑い、河野教授の健康維持に大いに役立っているようだ。」

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 7月 (37~41)

● 2014-41.
 天王洲・銀河劇場
 「 TAO   DRUM   ROCK  琳と凛」( 7 月 20 日)


 「琳派 400 年記念祭」の記者発表でコシノ・ジュンコさんに会ったとき、 TAO のことを聞きました。一度見てみたいなぁと思っていたところ、京都伝統工芸館の新谷由貴代さんから誘われました。 TAO は和太鼓を中心としたアート・パフォーマンス・グループ、 2004 年、衝撃の世界デビューを果たしたあと、 20 ヵ国、 400 都市の公演で 600 万人もの観客動員を達成した日本発エンターテイメントの雄です。今年、 2 ヵ月半にわたって開催された北米ツアーも、大成功のうちに終わったそうです。女性二人の合奏から始まった舞台は、コーヒー・ブレークをはさんで 2 時間 10 分、その迫力、エネルギー、肉体美に圧倒されました。力強いリズムが心臓の鼓動と共鳴します。人類が考え出した最初の楽器は、打楽器だったにちがいありません。打楽器が人間の本能を何よりも強く揺り動かすのは、原始の記憶が呼び起こされるからでしょう。コシノさん担当の衣装もじつに素晴らしい。黒と白を基調とし、琳派のデザイン感覚を取り入れた衣装自体きわめて魅力的ですが、パフォーマーがまとい動くことによって、さらに輝くのです。聴覚と視覚がぶつかり合い、やがて渾然一体となります。クライマックスでは、自然に拍手が湧き起りますが、ちょうど 71 歳の誕生日を迎えた僕には、「若さっていいなぁ、うらやましいなぁ」という気持ちもちょっと湧き起ったのでした。
 
● 2014-40.
 秋田市立千秋美術館
 「草間彌生 永遠の永遠の永遠」 ( 7 月 19 日)


 草間は日本のピカソだ !! 決して自己模倣に陥りません。 2004 年以降、この 10 年間の最新作を集めたこの特別展でも自己変革を見せつけます。水玉と網目模様という草間イメージを否定、人間の顔や生物をモノクロームで即興的に描き、シルクスクリーンに転写した「愛はとこしえ」。そこにサイケデリックなアクリルのポリクロームを加えて、増殖し続ける「わが永遠の魂」。草間がいま 85 歳であることを考えれば、尊敬に値することです。しかし、草間からみれば固定観念にとらわれやすい日本人は、戸惑いながら会場をあとにするかもしれません。かくいう僕も、一番好きなのは、静岡県立美術館の「無題」( 1959 )なのです。昨日、『無限の網 草間彌生自伝』をはじめて読みましたが、外国大学からのオファーに応える勇気を欠いた小心者の僕にとって、草間は異次元に生きる人間のように感じられたことでした。先日、京都市立銅駝美術工芸高等学校へ挨拶にうかがったとき、校長の中村則和さんから、草間がここの卒業生であることをお聞きしました。この変った校名は、洛陽から西域に向かう地点に銅でできた駱駝が立っており、それに由来する平安京以来の「銅駝坊」にちなむものだそうです。このアールデコ風の校舎で学びながら、草間は自由なアメリカへの憧れを高ぶらせていったのでした。
 
● 2014-39.
 秋田県立近代美術館
 「秋田魁新報創刊140年・秋田県立近代美術館開館20周年 大原美術館展」
   < 9 月 15 日まで> 開場式 ( 7 月 18 日)


 待ちに待った「大原美術館展」です !!  すぐれた実業家であり、また社会事業家でもあった大原孫三郎さん以来三代にわたる大コレクションのなかから、 68 点もの名画が秋田へやってきてくれました。開場式には理事長の大原謙一郎さん、館長の高階秀爾さん、課長の柳沢秀行さんも駆けつけてくれました。挨拶に立った僕は、三氏と魁さんに熱いお礼の言葉を献じたあと、持論である「3つのティ」を展開しました。すぐれた美術展にはクォリティ(質)・ポピュラリティ(人気)・パブリシティ(広報)の 3 つが兼ね備わることが必要ですが、今回、前の二つが 120 パーセント担保されていることは、改めて指摘するまでもありません。あとはパブリシティだけですからと、魁社長の小笠原直樹さんにプレッシャー?をかけたことでした。翌日は大原さんと高階さんの特別講演会、用意した 150 席に空席は一つも見当たりません。名誉館長講座とはえらい違いです――比べるのが僭越だ !!  示唆に富む講演会が終わって、館長室に戻ると、三浦さんが隣の応接室へどうぞと促します。ドアを開ければ、蝋燭ともるバースデーケーキが用意され、「ハッピーバースデー」の大合唱、プレゼントされた大原美術館の T シャツに着替えて、その輪に加わりました。こうして 71 歳は忘れがたき誕生日となったのでした。
 9 月 5 日(土) 13:30 より、本館講堂で「名誉館長講座」特別編「大原コレクション 日本近代洋画の魅力」があります。おもしろくてためになる 90 分を !?
 
● 2014-38.
 映画『天心』公式サイト<拙評「映画『天心』を観て」>(7月11日)


 竹中直人が岡倉天心を演じる映画「天心」については、その特別試写会の印象記を去年アップしました(2013-53)。その後、『國華清話会会報』にその映画評を書いてほしいと、幹事の天羽さんから頼まれました。先日、「追悼 アラン・レネ」をアップした僕が、二つ返事で引き受けたことは、言うまでもありません。キャッチ―にするため、ちょっとミエミエだなぁと思いながらも、そのラブシーンから書き始めました。「ラブシーンも抜かりなく用意されている。竹中直人演じる岡倉天心と、神楽坂恵扮する九鬼波津子が、道ならぬ恋に落ちていくシーンである。最近僕は、美術雑誌『美術フォーラム21』に「江戸の美学」という一文を書いたのだが、大きく取り上げた『「いき」の構造』の著者九鬼周造のことを思い出しながら見ていた」と。生まれて初めての映画評ですが、我ながらよく書けているなぁ!?とうぬぼれていると、今度は製作委員会から公式サイトに転載させてほしいと言ってきました。もちろん、これまた二つ返事でオーケーを出しました。上記公式サイトにアクセスの上、上にある「天心プロジェクト」をクリックすると、拙文のPDFが出てきます。ご笑覧のほどを……。
 映画『天心』公式サイトはコチラから
 
● 2014-37.
 出光美術館
 「没後 90 年 鉄斎  TESSAI 」< 8 月 3 日まで>( 7 月 3 日)


 企画した笠嶋忠幸さんがカタログに書いています。「自ら言う『儂の画を観るなら、まずは賛文から読んでくれ』という鉄斎流の鑑賞法は、文人画を観る場合の作法であるかもしれないが、鉄斎のように、これほどまで強烈なインパクトをもった画を見せられたら、実際には、賛文を読む前に画の魔力に心は吸い寄せられ、圧倒されてしまう」と。そうなのだ !!  もう現代人は鉄斎の賛を読もうなどと、変な色気は出さない方がいい。それじゃどうするか? 僕は感情移入を勧めたい――その山水の中に入り込んで、あるいは画中の人物になったつもりで、楽しみ考えるのです。確かに鉄斎の<強烈なインパクト>は、感情移入を拒否するようなところがあるけれども、それを飛び越えてしまえば、あとは自由自在に画中を遊泳することができます。自由自在なる画風がそれを担保してくれるからです。「僕の一点」は若描きの「月ヶ瀬梅渓図」、その賛詩は読みやすいので、鉄斎の言に従うことにしましょう。と言っても、またまた戯訳で……

 筆と硯をたずさえた もちろん一緒に酒樽も
 西のあたりを踏破して つぎに南へ足向ける
 いつもながめて楽しんだ 飽きるほどにもこの山を
 今日はそこへと分け入った 梅が万本 咲く渓へ

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 6月 (34~36)

● 2014-36.
 東京国立博物館
 「台北國立故宮博物院 神品至宝」( 6 月 29 日)


 「白菜」はハナからあきらめて、ほかを堪能することにしましたが、一番のお目当てだった蘇東坡の傑作「黄州寒食詩巻」は、 8 月からとのことで振られてしまいました。といっても、本当に見たかったのは黄山谷の跋の方です。黄山谷は中国・北宋時代を代表する詩人にして書家、政争に巻き込まれて、あっちこっちと配流の憂き目をみたあげく、最後に流された宜州(江西省)で亡くなっています。中国において、真の文人の系譜とは、敗者の系譜でもあるのです。僕は黄山谷の書が大好 き で、「黄州寒食詩巻」でも跋の方に惹かれるのです。もちろん内容は別にして……。この黄山谷に「乞猫」という七言絶句があります。黄山谷のことですから、これにもいろいろと典拠を盛り込んでいるにちがいありませんが、まずは僕の戯訳を……

 この秋以来ネズミども 愛猫の死をよいことに
 盆で遊ぶわ甕 [ かめ ] の水 飲んで騒ぐわ眠られず
 お宅の家猫数匹の 仔猫を育てていると聞く
 柳で魚を目刺しにし それもて一匹招聘せん
 
● 2014-35.
 細見美術館
 「光琳を慕う――中村芳中」( 6 月 17 日)


 中村芳中は江戸時代中期から後期にかけ、大阪を中心に活躍を続けた琳派の画家です。しかし初めは文人画家として出発したらしく、南画風のすばらしい山水画を遺していますし、指頭画をも得意としていたようです。指頭画というのは指墨とも呼ばれ、筆を使わずに、指や爪や手のひらに墨をつけて描く技法で、文人画家たちが好んで用いるところでした。ところが芳中は、尾形光琳の魅力に取りつかれるようになり、たらし込みを駆使して他にだれもまねのできない独特の画風を創り出して人気を集めます。江戸に居たときには『光琳画譜』を出版しましたが、江戸琳派の創始者ともいうべき酒井抱一の『光琳百図』に 10 年以上も先行しているのです。「僕の一点」は細見美術館が所蔵する「白梅小禽図屏風」、僕が最初にこの作品をある個人コレクターのお宅で見たのは、 1967 年 8 月 31 日のことでした。それまでも掛幅や扇面には触れていましたが、この屏風を前に、琳派を代表する画家の一人であることを確信したのでした。ところで、芳中は信州松代藩主真田家に仕えていたらしいのですが、梅は真田昌幸が蟄居させられた高野山九度山を、小禽の白頭翁は信濃を連想させます。この屏風も真田家のために描かれたのでは?などと、勝手に想像しているのですが……。
 
● 2014-34.
 中山人形その後( 6 月 14 日)


  1 年ほど前から、小林忠さんに勧められてフェイスブックをやっています。やってみると、確かにおもしろい。最近、名古屋市美術館の神谷浩さんの友人 Hirokazu Noritake さんと友人になりました。プロフィールの猫がすごく可愛かったからです。 Hirokazu さんは猫の郷土玩具や浮世絵を蒐集している猫マニア、北九州市立自然史歴史博物館で行なわれた「まるごと猫展」には、 160 匹もの招き猫を貸し出したそうです。僕の「おしゃべり名誉館長」をご笑覧いただきたいと頼むと、さっそく「中山人形」(過去のおしゃべり 2013-74 )を見て返信がありました。彼のコレクションのなかに、古い中山人形の「竈猫」があるとのこと、その画像も添えられています。かまどの残り火も消えたあと、温もりに誘われて入り込んだ猫をモチーフにしたもので、口元に煤をくっつけているところがユーモラスです。僕が中山人形の樋渡さんに知らせることにしましょうと返信したところ、「樋渡さん、なつかしいお名前です。 10 年以上前に樋渡昭太さんにお手紙を差し上げて、添付のような中山人形招き猫を送っていただいたことを思い出しました」と、また画像とともに応えてくれました。「縁に連るれば唐の物」ということわざがありますが、現代ではその縁をフェイスブックが生み出してくれるのです !?

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 5月 (28~33)

● 2014-33.
 京都国立博物館
 「南山城の古寺巡礼」< 6 月 15 日まで>( 5 月 27 日)


 木津川流域の旧国名は南山城、その地域の 10 を越える寺院の寺宝を見せてくれる特別展、京博が数年にわたって行なった調査研究のすばらしい成果です。南山城が秋田とも細い糸で結ばれていることがうれしい――呉孟晋さんがカタログに「内藤湖南と秦テルヲの南山城・瓶原 [ みかのはら ] 」を書いています。「僕の一点」は、堀切 7 号墳から出土した「人物埴輪」です。冠帽をかぶる男性の埴輪で、とくに注目されるのは、頭部の鉢巻状の側面と、目の下あたりに直弧文が刻されている点です。直弧文とは、直線と弧線で構成された我が国独特の文様です。これの起源については、早くからスイジガイ説があり、奈良県の纏向 [ まきむく ] 古墳から出土した木製装飾板「弧文円板」によって補強されています。ところで、この埴輪の直弧文をみると対角線が入っていますが、これをスイジガイだけで説明することはできません。この対角線はのちに伊勢神宮において完成する千木・破風のクロス・イメージに由来するものだ――これが私見です。スイジガイも千木・破風もひとしなみに権力や富の象徴でした。それはともかく、顔面に直弧文をもつ埴輪なんて !!  きわめて特殊な、あるいは呪詛的な埴輪だったにちがいありません。
 
● 2014-32.
 三重県立美術館
 「福田豊四郎 描いても想っても尽きないふるさと」< 6 月 29 日まで>
 石水美術館
 「川喜多半泥子の書と絵画」< 6 月 29 日まで>( 5 月 25 日)


 我らが福田豊四郎の特別展です。しかも西日本では最初の豊四郎展です。しかもしかも 68 点の出品作が、すべて秋田県立近代美術館の所蔵なのです。僕はとても誇らしい気持ちで開場式に臨み、名大時代の教え子でもある毛利伊知郎館長と、担当した道田美貴さんたちに感謝の挨拶をしました。翌日はお馴染みの河野トーク、演題は「福田豊四郎 北国の抒情」、この郷愁の画家について持論を吐露していたら、絶筆の「紅蓮の座・池心座主」にたどりつく前に、タイムアップとなってしまいました。この日の午前中はフリーだったので、前から訪ねてみたいと思っていた石水美術館への案内を毛利さんに頼みました。愛して止まない川喜多半泥子の美術館です。「僕の一点」は、「かまつけば窯の中まで秋の風」という自賛をもつ「千歳山真景図」。千歳山とはこの美術館が建つ小山、昭和 8 年、半泥子は小山冨士夫の指導を得てここに窯を築き、二年後、完全なる成功に漕ぎつけました。真景図とはいっても、松の木だけを淡彩で描いた作品です。尾形乾山に傾倒し、『乾山考』まで著わした半泥子が、その兄光琳の「松図」(川端康成記念館蔵)を見る機会に恵まれ、インスピレーションを得た作品だと直感したことでした。
 
● 2014-31.
 出光美術館
 「日本絵画の魅惑」< 6 月 8 日まで>( 5 月 15 日)


 黒田泰三さんが立ち上げた必見の特別展です。カタログにエッセーを寄せた黒田さんは、「私的日本絵画鑑賞法」について語っています。それは「日々の生活のなかで起きるさまざまなことがらをきちんと見つめ、できればそれらに少しだけ驚くような生活をしたいというささやかな私の人生への願望の反映だった」とのこと、「いいね」、いや、「すごくいいね !! 」。僕の一点は「四季花木図屏風」――初めて見たのは 1978 年 7 月 4 日のことでした。そのときの調査カードを引っ張り出してみると、「春は紅梅にはじまる。くどいほどの朱だ。しかし補筆はまったくない。……折り込みの所にも絵あり。改装すれば少し絵が大きくなる。……珍しき傑作なり。」などと書いてあって、 M さんのお店で暑さを忘れ見入っている若き日の自分が髣髴としてくるのです。黒田さんは左隻左端の上方、紅葉した楓越しにみえる遠山の松林に雪が積もっていることに注目し、これは新しい季節への憧れであり、日本人の感情表現だと書いています。「紙ふうせん」の名曲のリフレイン、「冬が来る前に もう一度 あの人とめぐり逢いたい」も心に浮かんできます。ところで黒田さんがスライド・ショーで見せてくれた楓の隻の下には、鮮やかな紅葉が散っていたので一瞬驚きました。しかしよく見ると、それはダンボールに印刷された日通の赤いマークなのでした !?
 
● 2014-30.
 MBS 毎日放送 4 時間スペシャル
      「次の世代に伝えたい昭和の名曲 100 」( 5 月 9 日)


 本当に懐かしかった !!  中学高校時代、大学時代、研究所時代、名古屋時代が、一曲ごとに思い出されてくるのです。第 1 位は坂本九の「上を向いて歩こう」(昭和 36 )。今は亡きニキビ・フェイスの九チャンがモノクロで登場、毎週見ていた「ザ・ヒットパレード」がよみがえります。そのころ僕は、 FEN で「ビルボード・トップ 10 」も聞いていましたが、「スキヤキ」と名を変えて登場してきた時は、驚くとともに、何か誇らしい気持ちになりました。これは作曲した中村八大の功績でもあるのですから、作詞した永六輔とともに、その名前をテロップで出してほしかったなぁ。第 2 位は山口百恵の「いい日旅立ち」(昭和 53 )。今でも僕が熱狂的百恵ファン ? であることは前にしゃべりました( 2013 年 8 月 1 日)。曲自体でいえば、同じ谷村新司が作詞作曲した「昴」の方が上でしょうが、やはり百恵の魅力でしょう。第 3 位はイルカの「なごり雪」(昭和 50 )。一杯入ると必ず弾き語りをしたくなる伊勢正三の名曲です。同じく正やんの「 22 才の別れ」も選ばれていました。こうやってみると、日本人はやはり抒情歌が好きであり、そこに国民性が求められるのでしょう。象徴的なのは百恵の場合で、とんがった「横須賀ストーリー」より、何といっても「いい日旅立ち」なのです。
 
● 2014-29.
 生身 [ いきみ ] 天満宮参拝 ( 5 月 9 日)


 新谷理事長さんから、キャンパスの近くに日本最古の天満宮があると聞きました。天満宮といえば、北野か大宰府と相場が決まっています。「ほんまかいなぁ」と思いながら、参拝に出かけました。額づいていると宮司の武部昌英さんが声をかけてくれ、詳しく由来を聞くことができました。天満宮は全国に 12000 社ありますが、菅原道真が生きているうちにお祀りしたのはここだけで、それ故に生身天満宮というのだそうです。あとはみな道真没後にお祀りしたもの、したがってここが日本最古ということになります。園部には道真の知行所があり、武部源蔵という代官がこれを守っていました。ところが 901 年、道真は政争に敗れ、筑紫(福岡県)に流されることになります。源蔵は道真を追い、東寺のあたりで別れの挨拶をすると、道真から八男慶能の養育を託され、硯と和歌を賜ります。園部に戻った源蔵は、道真の姿を木に彫り、これをお祀りして生祠 [ いきほこら ] としました。二年後、道真が没したため、源蔵は生祠を霊廟とし、さらに神宮へ改めたのでした。昌英さんは源蔵から数えて 38 代目にあたるそうです。ところで、三大歌舞伎の一つ「菅原伝授手習鑑」中もっとも有名な「寺子屋」の段は、この話を竹田出雲らが脚色したものとのこと、見ながら涙したことがある僕も、はじめて知って 驚いたことでした。でも京美の学生なら、きっとこう言うでしょう。「マジ?」
 
● 2014-28.
 追悼 アラン・レネ < 3月 1日没 享年 91 >② ( 5 月 5 日)


 「二十四時間の情事」は人生坐で見ました。あるいは文芸坐だったかもしれませんが、ともかくも池袋でした。イケメンの――その頃こんな言葉はありませんでしたが――岡田英二とエマニュエル・リヴァのラブシーンに見とれましたが、内容はよく理解できませんでした。それが公開直後に見た「去年マリエンバートで」になると、完全にお手上げです。レネがもとにしたという黒沢明の「羅生門」や、影響を受けたに違いないと愚考するグリフィスの「イントレランス」なら、まだ筋も追えましたが、こんな映画がこれからのベクトルなら俺にはとても無理だと思いつつ、館をあとにしたものでした。実際のマリエンバートはチェコの温泉保養地だそうですが、撮影に使われたミュンヘン・ニンフェンブルク城のフランス庭園が、日本の庭とあまりにも違っていたことを思い出すだけです。泥棒容疑の男が警官に職務質問され、「その時間なら『去年マリエンバートで』を見ていた」と容疑を否認すると、「それじゃ、その筋を言ってみろ」と追及される。当然男は答えられず、本当に逮捕されちゃったというジョークがあるそうです。僕に映画を断念させ、美術史へ進めてくれたのは、実に巨匠アラン・レネだったのです !?

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 4月 (22~27)

● 2014-27.
 東京富士美術館
 「江戸絵画の真髄初公開 !!  若冲・蕭白・応挙・呉春」 < 6月29日まで>( 4月27日)


 この特別展のために、辻惟雄さん、小林忠さん、それに僕が招かれて鼎談を行なうことになりました。僕らは「山根ダンゴ三兄弟」と呼ばれているらしいのですが、ちょっと不思議なことに鼎談となると初めてです。もちろん談論風発、丁々発止、喧々諤々、さすがの「おしゃべり名誉館長」もタジタジでしたが、間もなく『聖教新聞』にアップされるのでお楽しみに……。三章 3 特集からなるコレクションは素晴らしく、優品力作のオンパレードです。その中から「僕の一点」は、やはり鈴木其一の「風神雷神図襖」です。この傑作を大阪の個人コレクター宅で初めて見たのは 1978 年 6 月 7 日のこと、その時の調査カードを持って鼎談に臨みました。あの宗達が生み出した天衣無縫なる風神と雷神が、何と大きなメタモルフォーゼを遂げていることでしょう。その戦慄すべき画面感情は、妖雲と呼びたいような黒雲に象徴されています。偉大なる先輩たちが開拓したマニエラ、つまり手法や図様を使いながら、其一は独自の造形を創り出したのです。しかしそれは個性的でありながら、江戸後期に活躍した才能あふれる画家たちの美的世界とも、美しく共鳴しています。それを僕は、「幕末マニエリスム」と名づけたい誘惑にかられるのです。
 
● 2014-26.
 京都美術工芸大学の生活がスタート(4月10日)


 今日は入学式、生まれて初めて式辞なるものを読みました。通り一遍のものはいやだったので、僕の日本美術史観?を入れました。その一節を紹介することにしましょう。  先に指摘した日本美術の特質、つまり美術が生活美術であった歴史と事実を考えると、まず挙げられるのは建築です。建築が生活と密着した美術であることは、改めて指摘するまでもありません。建築がなければ、人間にとって日々の生活を送ることなどまったく不可能です。生活美術というと、一般的にはまず工芸が思い起こされますが、生活美術の基本にあるのは建築なのです。もっともこれはどんな地域、いかなる国においても同様ですが、我が国においては、生活との結びつきがきわめて強固でした。それを何よりもよく物語るのは、自然や四季をそのまま取り入れようとするプラン、設計、構造でしょう。よく日本の家は木と紙でできていると揶揄されますが、そのことと無関係ではありません。建築は日常の生活を送る場であり、生活美術そのものです。もちろん建築には、宗教建築や城郭建築のように、権威の象徴としての建築もあるわけですが、この場合も、我が国においては生活と強く結びついていたように思われます。寝殿造、書院造、数奇屋造、民家、茶室と、生活居住建築と呼ぶべきものがとくに発達してきたのも、故なきことではないのです。
 
● 2014-25.
 追悼 アラン・レネ< 3 月 1 日没 享年 91 >①(七七の 4月18日に)


 娯楽映画が好きでした。「紅孔雀」「笛吹童子」に始まり、やがて洋物に移っていきました。高校時代、同好の高木君と授業を抜け出して、エルヴィス・プレスリーの「GIブルース」を見に行ったことなども、懐かしく思い出されるのです。「いちご白書をもう一度」のように、ガール・フレンドではなかったのが残念ですが……。大学に入ると、ちょっと将来への色気もあって、暇があると映画館に出かけました。『シナリオ研究』を購読したり、ジョルジュ・サドゥールの『世界映画全史』や浅沼圭司の『映画美学入門』を読んだりもしました。その頃にはもう娯楽映画ではなくなっていて、そうなると最新のバイブルは、ヌーベル・バーグの天才アラン・レネの「夜と霧」「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」「去年マリエンバートで」ということになります。 2007 年、クラクフ Manggha 日本美術芸術センターにおける「日本ポーランド友好 50 周年記念会議 進展の文明・革命の文明」の日本美術史パネル「日本美術の機能――公と私の間」に参加した時、何か行かなければいけないトポスのようにアウシュビッツを訪れたのは、「夜と霧」がトラウマになっていたからでしょう。このパネルは佐野みどりさんが企画したもので、とても刺激的でしたが、僕にとってはそこへの一人巡礼の方が、強い印象として残っているのです。
 
● 2014-24.
 サントリー美術館
 「のぞいてびっくり江戸絵画 科学の眼、視覚のふしぎ」<5月11日まで>(4月12日)


 かつて松平健が主役を演じ、高い視聴率を誇ったテレビ・ドラマに「暴れん坊将軍」がありますが、この暴れん坊将軍のモデルこそ、徳川八代将軍吉宗でした。吉宗は享保の改革を進めた名君として知られていますね。ちょっとほころびの見え始めた幕府を立て直すため、吉宗はさまざまな方策を打ち出しましたが、江戸文化史上もっとも重要なのは洋書の解禁です。さすがにキリスト教関係の書は、家康の遺訓によりご法度でしたが、それ以外にはOKを出したのです。これがその後、澎湃として起こる実証主義の土壌となったのですが、そこから洋風画という美しい花が咲き、さらにおもしろい実がたくさんなったことは不思議でも何でもありません。これを具体的に見せようとする特別展、会場に足を踏み入れると、まず我らが小田野直武の筆になる「不忍池図」が出迎えてくれます。作品番号も№1、じつにこの展覧会のシンボルとなっているのです!! わきには特別パネルが用意されていて、芍薬の花に小さな蟻が描かれていることに注意を喚起しています。並んで見ていた中年の女性が眼鏡を取り出して、「ワァー いるいる」と感動しているのを聞いたとき、とても誇らしい気持ちになりました。
 
● 2014-23.
 東京国立博物館
 「開山・栄西禅師800年遠忌 栄西と建仁寺」<5月18日まで>(4月6日)


 建仁寺の出血サービス的出開帳です。「僕の一点」は、やはり「5年ぶりに参上」のキャッチコピーとともに飛来した俵屋宗達の「風神雷神図屏風」です。京都の美術系大学をいくつか挨拶回りした後の疲労感が、一気に吹き飛ぶのを覚えました。この傑作を見ると、必ず『枕草子』をパロディ化した仮名草子『犬枕』の一つを思い出します。「静かなる物」として、雪の夜、元日の朝、牛の家出!?が挙げられ、「騒しき物」として大風・鳴神、近所の火事、旅人屋に客多く集いたると続くのですが、「大風・鳴神」とは、この屏風のモチーフそのものではありませんか。同じく仮名草子の『竹斎』に、「扇は都俵屋が、源氏の夕顔の巻、絵具をあかせて書きたりけり」とあることはよく知られていますが、宗達の絵画世界と仮名草子の文学世界は同じ時空を漂っているのです。それだけではありません。「風神雷神図屏風」と『犬枕』の「大風・鳴神」は、おおらかなユーモアにおいて、明らかに共鳴し合っています。この特別展の音声ガイドは、愛読する『インド旅行記』を書いた女優・中谷美紀さん――生まれて初めて自腹で案内を乞いました。見終わって上野公園に出ると、トゥランカーズというグループがロックンロールのパフォーマンスをやっています。これまた疲労感を吹き飛ばしてくれたことでした。
 
● 2014-22.
 名誉館長――なんちゃって!? (4月1日)


 エイプリルフールでないのがちょっと残念ですが、このたび館長を退任させていただくことになりました。顧問時代を含めて10年間、本当にお世話になりました。あっという間でしたが、県民の方々に楽しんでもらえる美術館を目指して頑張ってきたつもりです。ご期待に添えなかった点がたくさんあることは、僕自身よく分かっていますが、84169人の方々をお迎えできた藤城清治影絵展は、とくに胸底に深く刻まれています。皆さんのリクエストから始まった平山郁夫展や、初挑戦のコンテンポラリーアート展、僕の好きなネコをモチーフにした岩合光昭写真展など、忘れられない特別展ばかりです。また館長講座をはじめ、生涯学習センターや県立図書館におけるゼミ講座も、「おもしろくってためになる」を目指したつもりですが……。花輪移動展の際に大湯ストーンサークルを訪れ、それが『秋田美術』の拙論にまとまったことなども、懐かしい思い出です。館長は降りますが、名誉館長として講座やこのブログを続けられることになったことも、深く感謝せずにはいられません。今日からは京都美術工芸大学のプレジデントとして、微力を振り絞ることになりました。これまで同様よろしくお願い申し上げます。

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 3月 (16~21)

● 2014-21.
 『國華』 1421 号<特輯 根来塗>( 3 月 20 日)


 根来塗 [ ねごろぬり ] は和歌山県の根来寺で、中世以来、日用のために作られた朱漆塗の膳椀類ですが、同じ様式を有するものを広く根来塗と呼んでいます。僕がもっとも愛する漆工芸です。我らが秋田市立千秋美術館の小松大秀さんに、その特輯号を編集すべく依頼したところ、すばらしい一冊ができ上がりました。『國華』側の担当は僕だったので、短い序文を書きました。その一部を引用することにしましょう。
 日本は漆のまほろばである。おおやまとは蒔絵の国である。我々は漆器の民である。 Japan と大文字で始めれば日本、 japan と小文字で書けば漆器を意味すること、多くの人が知るところである。 China が中国、 china が陶磁器を指すのと好対照をなすこと、これまた常識に属する。……そして漆工芸の原点ともいうべき無文漆器から幕末明治の民衆的工芸、いわゆる民芸へと広がる大河のごとき流れがあった。根来塗はこの流れに棹差すもっとも重要な一ジャンルにほかならない。……私たちは根来塗の単純明快なるフォルムを愛しいとおしんできた。朱漆と黒漆のハーモニーに魅了されてきた。風化と手擦れが視覚化する時間の流れに深い感銘を覚えてきた。
 
● 2014-20.
 藤田嗣治とエノケン
(平島高文『エノケン喜劇のドラマツルギー』 <演芸資料選書 10>)( 3月 18日)


 独立行政法人・日本芸術文化振興会は、その設立趣旨に沿ってすぐれた活動を続けています。そのもとに国立劇場調査事業委員会があって、関連事業を審議するのですが、僕もその委員をつとめています。今日の委員会では、調査研究の成果である上記の選書が配布されましたが、我らが藤田嗣治とエノケンの関係に驚かされました。それは 1934 年、新宿松竹座で上演されたオペレッタ「君恋し」です。そのもとになったのは二村定一が歌って大ヒットした「君恋し」ですが、僕らの世代にとって「君恋し」といえば、フランク永井のリメイクの方でしょう。それはともかく、嗣治登場の部分を引用します。
 脚本を読むと、フジタなるダンス教師が登場する。自らの画才に見切りをつけたという偽藤田嗣治画伯という役どころで、画学生であるベエちゃん(二村)、健ちゃん(榎本)にモデルを斡旋したりする。<月刊エノケン>昭和 9 年 4 月号に、藤田画伯そっくりに扮装した柳田貞一の写真が掲載されている。……藤田嗣治とエノケン劇団は、カジノフォーリー時代から、川端康成の『浅草紅団』水族館の章に、「パリイ帰りの藤田嗣治画伯が、パリジェンヌのユキ夫人を連れて、そのレヴュウを見物にくるのだ」と紹介されたりする縁があった。
 
● 2014-19.
 猫の話「祇園南海 猫を悼む」( 3 月 16 日)


 祇園南海は初期日本文人画の一人、「悼猫」という素晴らしい七言古詩があります。梅尭臣の「祭猫」( 2013 年 4 月 1 日参照)が霊感源になっていることは疑いありません。最近『國華』のために「日本初期文人花鳥画試論」を書いたところですが、もちろん南海にもスペースを割きました。猫派の僕としては「悼猫」も引用したかったのですが、本旨とまったく無関係のため断念せざるを得なかったので、またまた戯訳で……

 べっこう色の毛はソフト 生まれついてのおりこうさん
 ネズ公出没しなくなり 夜も太平ぐっすりと……
 もらって来てから一年も たたずに何で死んじゃった
 あるいは僕の飼い方に 欠けていたのか愛情が
 膝に抱かれてご主人に 甘えていたのを思い出す
 縁側あたりで子供らを 呼んでいた声まだ聞こゆ
 漢方烏薬 [ うやく ] を飲ませたが 薬効なきを恨むのみ
 牡丹の下に埋め 蘇生 願ったけれど無駄だった
 襤褸 [ ぼろ ] でくるんで丁重に…… 恩を謝したが何になる
 ともしびの前 老人の まなこ涙でかすんでる

 
● 2014-18.
 東京都美術館
「日本美術院再興100年 世紀の日本画」<4月 1日まで> ( 3 月 8 日)


 岡倉天心創設の日本美術院が再興されてからちょうど 100 年、節目の年を祝う特別展です。「僕の一点」は橋本雅邦の「白雲紅樹」、狩野派に洋画風を取り入れつつ、品位高き会場芸術を生み出した雅邦の傑作です。「白雲紅樹」といえば、忘れられない思い出があります。かつて僕は、雑誌『江戸文学』に「大雅の詩」という拙文を寄せたのですが、池大雅のこれまた傑作「白雲紅樹図」を取り上げました。そして大雅自詠の漢詩からみて、この画題が大雅によって考案されたものであり、いかに彼の創造意欲を掻き立てたか想像に余りあるなどと書いたのです。ところが実践女子大学の濱住真有さんが、この言葉が古く唐詩にあるのみならず、明の画家・藍瑛にこれを題した作品があって、大雅への強い影響があることを実証したのです。美術史学会全国大会で口頭発表を聞いていた僕は、穴があったら入りたいように気分でしたが、すばらしい内容に興奮を覚えたものでした。査読を経て学会誌『美術史』に載ったこの論文が、その年の学会賞に選ばれたのも当然の結果でしょう。しかし世の中というのは皮肉なものです。そのころ僕は学会の代表委員だったので、自分の説を否定した若き研究者に、衆人環視の中で激賞の賞状を手渡すというハメになったのでした。
 
● 2014-17.
 秋田県立美術館
「秋田県・甘粛省友好提携 30 周年記念文化交流展 シルクロードの記憶」< 3月 23日まで>( 3月 7日)


 高精細デジタルデータを使って再現された敦煌壁画が圧巻です。以前の定番であった模写とは雲泥の差です。莫高窟第 57 窟の「敦煌のモナ・リザ」も、現場よりずっと美人に見えます。 2003 年から 05 年にかけて行なわれた、県省合同発掘調査による武威市磨嘴子遺跡の出土品も本当にすばらしい。かつて埋蔵文化センターの大野憲司さんから聞いた話を思い出しながら、漢の「木馬」をはじめとする文化財を、いや、美術品を堪能したことでした。しかし「僕の一点」は番外ともいうべき「五毒」です。羅信耀の『北京風俗大全』によると、五毒とはサソリ、羽が生えたムカデ、トカゲ、ガマ、ヘビですが、展示品を見るとぴったりとは一致しないようです。それはともかく、五毒意匠の染織品が二つ展示してあったので、来日している甘粛省文物考古研究所の趙雪野さんに訊ねると、子供の元気な成長を願ってつけさせるヨダレ掛けと、門口に吊り下げる魔除けだと教えてくれました。二つともみごとなデザインで、これなら効果も抜群でしょう。実は僕も、辻惟雄さんから中国みやげに五毒のバッグをもらって、 4 半世紀ちかく愛用しました。近所に買い物に行く時は、これに財布を入れて自転車の荷かごに放り込みましたが、一回もヒッタクリに遭わなかったのは、五毒のお陰にちがいありません。
 
● 2014-16.
 『國華』1415号(日欧美術交流特輯号)<2013年9月20日発行>
 東京国立博物館「支倉常長像と南蛮美術400年前の日欧交流」<3月23日まで>( 3 月 2 日)


 1613 年、伊達政宗は家臣支倉常長をヨーロッパへ派遣しました。マドリードからローマへ赴いた常長は洗礼を受け、力を尽くしましたが、所期の目的は果たせず、 7 年後、失意のうちに帰国しました。出発後すぐに、幕府が禁教政策へ舵を切ったためです。同じ 1613 年、イギリス船クローブ号がわが国に来航しました。去年はそれからちょうど 400 年という節目の年でした。そこで『國華』は 3 編の論文を収める特輯号を発行したのですが、巻頭言は僕が書かされるハメになり……。さて小山真由美さんの研究は、イタリアの個人コレクションにある「花鳥葡萄蒔絵洋櫃」が、支倉使節の遺品であること考証したもので、バチカン図書館に所蔵されるボルゲーゼ家関係文書を駆使しながら導いた結論は、大きな注目を集めました。小山さんは、朝日新聞の美術記者で今は亡き田中三蔵さんと東京芸大の同期、かつて三人で飲んだことを思い出しつつ、今おしゃべりをしているのです。東博特別展の目玉は、アルキータ・リッチが描いた「支倉常長像」です。装束の柄は薄と鹿、旧暦で言えば晩秋の 9 月に行なわれた、常長のローマ入市式と関係づけるキャプションが、とても興味深く感じられたことでした。

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 2月 (11~15)

● 2014-15.
 千葉市美術館
 「江戸の面影 浮世絵は何を描いてきたのか」 < 3月 2日まで>( 2 月 5 日)


 田辺昌子さん企画のオススメ特別展です。「僕の一点」はまたまた葛飾北斎、その『隅田川両岸一覧』です。謎に満ちるこの狂歌絵本は、新吉原開郭 150 年を祝う記念出版だというのが僕の見立てです。最初の「高輪の明烏」が春の女神である佐保姫に始まり、最後の「吉原の終年」が手弱女と吉原の里で終わっている点からの思いつきです。また本書の強い紅色は、芸術性をそこなうものとして非難の的になってきましたが、それは紅楼、紅閨、紅粉、紅羅、紅玉など、吉原や遊女のイメージにつながる色だったのです。吉原遊郭は 1657 年、明暦大火により葺屋町から浅草山谷へ移転を命じられ、その 8 月新遊郭が開設されました。本書の開版年は 1801 年、あるいは 1806 年と言われてきましたが、後者こそ節目の年に当るのです。畏友浅野秀剛さんが、版元仙鶴堂のビジネスではなく、狂歌師が金を出し合って作った私家版だろうとカタログに書いている点も支援材料です。浅野さんの言うことだから間違いない――我らが秋田出身だからではなく、現代の名狂歌師だからです !?  今年の年賀状から、傑作「春画展会場でペアで鑑賞するを妬みて」を……

 くろかみながく やはらかき をんなごころを たれかしる
 をとこのかたる ことのはを まこととおもふ ことなかれ

● 2014-14.
 豪雪帰還 ( 2 月 8 日) ②

 
 自動販売機でコーンスープ「シャキシャキ つぶ入り」を 2 缶買い、待合室でウトウトしていると、「とき」の車両を開放するという放送があり、 23 番線にぞろぞろと移動すれば、男性、家族、女性に分けて泊まれるように準備されています。車中は温かく、照明もおとしてあるのですが、ひどく乾燥していて、風邪引き中の喉がヒリヒリ――しかしホテルと違って加湿機はありません。当たり前だっ !!   4 時半過ぎに目が覚めたので、在来線の方に行ってみると、横須賀線はまだ×ながら、京浜東北線の大船行き始発があります。生まれて初めて乗りました―― 4:55 東京駅発ですから、これまた当たり前です。終点まで行きあとはタクシーでと決めて、車内 TV を見ていたら京急はほとんど回復していることが分かったので、横浜で乗り換え新逗子へ。朝からたらふく食べて、ちょっと飲んであとは爆睡。三浦直さん言うところの「嵐を呼ぶ男」の面目や躍如たり……でした。翌週この顛末を某氏にしゃべると、「その日は帰るんじゃなかったな」。確かにおっしゃる通り !!  でも、それって後になって分かることですよね。ほら、よくあるでしょ。「あんなリーチはかけるんじゃなかった」「あんなに飲むんじゃなかった」「あんなのと一緒になるんじゃなかった」 !?

● 2014-13.
 豪雪帰還 ( 2 月 8 日) ①


 予約していた帰りの ANA880 も、大雪のため早々と欠航決定とのこと、館長講座の今年度最終講義を終えて、 6 名の方々に皆勤賞の『月刊水墨画』と『鹿島美術財団美術講演会講演録』を手渡すと、そのまま JR 横手駅へ直行しました。スーパーこまちの指定は何とか取れてホッとしましたが、小岩井駅での 30 分停車に始まり、あとは行っちゃー止まり行っちゃー止まりの連続です。なにしろ「三無主義」の僕ですから、こういう状況になると情報収集がまったく不可能ということになります。車掌さんに訊いてみると、横須賀線も京浜急行も止まっているらしい。こりゃいかんと思い、大宮での長時間停車を利用し、駅員さんから周辺ホテルのリストをもらい、公衆電話へ飛んで行ってみると、誰も並んでいません !?  早速電話しまくってみましたが、今度はすべて満室です。もうジタバタしないことにホゾを固めて、と言うよりも観念して、そのまま東京駅へ……。着いたのは午前零時ちょっと前でした。こまちで買えたのはサンドイッチと「モルツ」と「高清水」だけだったので、改札を出してもらいエキナカを探しましたが、もうすべて閉まっています。

● 2014-12.
 追悼 ピート・シーガー< 1 月 27 日没  94 歳>
       (初七日の 2 月 2 日に)


 フォーク・ギターを買ったのは、大学合格が決まった直後でした。その少し前からアメリカン・フォークがラジオで聞かれるようになり、フーテナニーという言葉も少しずつ広まりました。当時はアメリカのテレビ番組の人気が高く、それを見て高校時代を送った僕は、何となくアメリカに憧れを抱いていたのでしょう。そして最初にギターで歌えるようになったのが、ピート作詞作曲の「花はどこへ行った」でした。コードが簡単で、リドル・ソングゆえ歌詞も覚えやすかったからです。もっとも、手本にしたのはキングストン・トリオで、ピートのオリジナルを聴いたのは、少し後になってからでした。もちろんこれは反戦歌として作られたのですが、キングストン・トリオはポピュラーソングとしてヒットさせたのです。同じような傾向をもつブラザース・フォーも人気を誇っていました。やがてアメリカでフォーク・ブームが起こり、我が国へ波及しますが、それをリードした、そして僕が大好きなディランやバエズ、 PPM などはみな「ピートの子供たち」でした。 YouTube でピートを呼び出し、「花はどこへ行った」を聴いたあと、みずからも歌って冥福を祈ったことでした。

● 2014-11.
東京国立博物館
「クリーブランド美術館展 名画でたどる日本の美」< 2 月 23 日まで>
    記念拙講 「笑う美術館館長 名画を語る」( 2月 2日)


 企画した松嶋雅人さん発案のすばらしい演題です !!  僕への献呈論文集に佐藤康宏さんがつけてくれた『美術史家、大いに笑う』からの引用ですが、さすがに「おしゃべり館長 名画を語る」だと気が引けたのでしょう。 1980 年、『在外日本の至宝』 6 に僕は、今回取り上げた呉春筆「青天七十二芙蓉図」の解説を書きました。そのころはスイスのネゼ・コレクションにあって、僕は未見でしたが、責任編集者の辻惟雄さんから頼まれたのです。ネゼのカタログでは「蜀桟道」となっていたので、それに従いましたが、一応は中国・衡山の可能性も示唆しました。しかしミズテンで書いてしまったので、 2 年後、一人で 1 ヶ月間、在欧江戸絵画を見て回った時、ぜひ実見したいと思ってネゼに手紙を出しましたが、収蔵庫が修理中とのことで×でした。その後、衡山の芙蓉峯が古くは容峯といわれていたことを知って、呉春が「芙蓉」を「芙容」と書いているのはそのためであり、蜀桟道は間違いであることが分ったのですが……。この特別展のカタログでは、ちゃんと衡山を描いたものと確定されていて、またまた若い研究者に一本取られたことでした。

 * 1 月 14 日の「クリーブランド美術館展」印象記にもアクセスを……

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 1月 (1~10)

● 2014-10.
江戸東京博物館
「国際浮世絵学会創立50周年記念 江戸東京博物館開館20周年記念特別展
                大浮世絵展 国際シンポジウム」( 1月 26日)


 高階秀爾さんをゲスト・スピーカーに迎えたこの国際シンポジウムにおいて、重要テーマの一つとなったのは、浮世絵と外国との関係でした。僕はかつて読んだアルフレッド・ウォーレスの『マレー諸島』の一節を思い出しながら聞いていました。ここにいう「色彩版画」が浮世絵版画であることは、改めて指摘するまでもないでしょう。驚くことに、それはアンボイナというモルッカ群島の小さな町における 1860 年ころの出来事なのです。もちろんアンボイナの住民が持っていたわけではありませんが、浮世絵版画の国際的性格を語る一資料として、とても興味深く感じられるのです。
 この医者(モーニケ博士)は長崎から江戸まで陸地を旅行し、日本の人々の性質、生活様式、習慣、またその国の地質学、物理学的特徴、自然誌などについて詳しく知っていた。彼は私に安い色彩版画のコレクションを見せてくれた。それらは一枚一ファージング足らずで売られていて、無限に変化のある日本の風景のスケッチと生活様式から構成されていた。粗末ではあったが、それらは大変特徴的で、しばしば実にユーモアのある筆運びで描かれていた。

● 2014-9.
横浜美術館
「生誕 140 年記念 下村観山展」< 2 月 21 日まで>( 1 月 25 日)


 横浜美術館協力会講演会で酒井抱一についてしゃべったあと、この特別展を堪能しました。観山は天賦の才に恵まれた画家でした。それを証明するのが、「僕の一点」に選んだ「狼図」です。落款に「狙仙写十七才 観山記」とありますが、これは明らかにあとから観山が加えたものです。おそらく大正初期に無落款の自作を見た観山が、 17 歳の時に、つまり 1890 年に描いたことを思い出し、これを書き入れたものにちがいありません。というのは、森狙仙の原本が知られているからです。『美術精観』という図録に 増上寺所蔵として載っている作品がそれです。もっとも原本の落款は「祖仙」となっていますから、狙仙還暦前の作で、おそらく 50 代の作品でしょう。それはともかく、若き観山が、いかにすぐれた画才を天から与えられていたか、一目瞭然たるものがあります。 1990 年、東急日本橋店で行なわれた「名画家たちの 10 代」という展覧会で、今回も出ていた 12 歳の「唐子」を見て感じていたことが、今回、原本が判明する「狼図」によって実証されたことは実に愉快なことでした。

● 2014-8.
国立西洋美術館
「モネ 国立西洋美術館×ポーラ美術館
          風景を見る眼 19世紀フランス風景画の革新」< 3月 9日まで>( 1月 22日)


 我が国にあるコレクションだけで、こんなすごいモネ展が開けるというのが驚きです。モネといえば睡蓮ですが、これは第一連作と第二連作に分けられます。「僕の一点」は国立西洋美術館所蔵の「睡蓮」、モネの関心が水面の光に集中していった第二連作の一つで、 1916 年の制作です。時おり常設展示で見ていた作品ですが、こうして年代順に並べられた作品の最後にこれが登場すると、晩年に至っても止むことのなかったモネの造形的挑戦が改めてよく理解されます。しかもこれは日本ゆかりの作品なのです。実業家の松方幸次郎は西洋美術を日本に紹介するために、美術館の建設を計画、明治末年から第一次世界大戦にかけて、ヨーロッパで膨大な量の西洋美術を収集しました。このとき幸次郎はモネにも会い、直接作品を分けてもらったのですが、「睡蓮」こそその中の一点だったのです。心行くまで堪能した後、パリから直輸入されたという、モネの「舟遊び」がラベルに刷られたブラッド・オレンジ・ソーダをショップで求めて家路についたことでした。

● 2014-7.
江戸東京博物館
「国際浮世絵学会創立 50 周年記念
          江戸東京博物館開館 20 周年記念 特別展 大浮世絵展」< 3 月 2 日まで>( 1 月 18 日)


 入り口には「現在会場は大変混雑しております」という張り紙――その中に欧米系の人がかなりいて、中国語も聞こえてくるというのが、ほかの日本古美術展と違います。一般的に中国人は日本美術を中国のコピーと考えていますが、浮世絵には一目も二目も置いています。 1989 年北京にいたとき、中央工芸美術学院の陳瑞林さんから日本美術の講演をやってくれと頼まれたので、テーマは何がいいかを訊いたところ、即座に「フーシーフェイ」と返ってきたものでした。大集合した傑作中「僕の一点」」はやはり葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」です。かつて日曜美術館に出た時も話題になりましたが、この作品がコンパスと定規を使って構図されているという意見があります。しかし筆者は天才北斎ですよ。モーツァルトが作曲法を利用しながら 40 番を作曲したり、ゴッホが色彩理論に従って「向日葵」を描いたり、魯山人がレシピ本を見ながら計量スプーンを使って星ケ丘茶寮の料理を創ったりしたと思いますか。天才がそんなことを !!

● 2014-6.
東京国立博物館
「日本伝統工芸展 60回記念 人間国宝展 生み出された美、伝えゆくわざ」< 2月 23日まで>( 1月 14日)


 工芸技術や芸能のうち、芸術上の価値や歴史上の意義などから、とくに貴重だと判断されるものを国が認定するのが重要無形文化財です。個人のわざを指定対象とする蒔絵などの「各個認定」と、多数の技術者によって保持される柿右衛門製陶技術などの「総合認定」があります。それらのわざを最高度に修得している個人が、重要無形文化財保持者(人間国宝)として認定されます。重要なのは、保持者の死去によって認定が消滅し、保持者がいなくなった重要無形文化財の認定が解除されることです。つまり重要無形文化財は、その時代の頂点に光を当てる公的な制度です。これに対し、家元あるいはそれに近い私的な伝承があります。伝統的な日本工芸において、この二つのシステムが、補完的にとてもうまく機能していると僕は思います。さて、かつて室瀬和美さんから素晴らしい朱盃を頂いて愛用していたのですが、人間国宝になられてからは大切に仕舞っていました。しかし今日は帰宅後、これで 6 年ぶりに至福の一時を迎えたことでした。

● 2014-5.
東京国立博物館
「クリーブランド美術館展 名画でたどる日本の美」<2月23日まで>( 1月14日)


 初めて僕がこの美術館を訪れたのは 1975 年 7月 8日、山根有三先生を団長とする「在米琳派調査」の一員としてでした。館長シャーマン・リー先生と何恵鑑先生に紹介され、緊張したのを覚えています。何しろ若かったのですから !?  そのとき調査した深江蘆舟筆「蔦の細道図屏風」が、今回の「僕の一点」です。蘆舟は同じ主題を、しかも屏風に三点も描いています。尾形光琳に学んだ蘆舟でしたが、その伝記には悲しい影がつきまとっています。京都銀座年寄筆頭役の父庄左衛門が銀座手入れによって三宅島配流となると、母は自害、 16 歳の蘆舟も追放に処せられました。『伊勢物語』の宇津山超えの寂しげな描写や、沈んだ色感を蘆舟のトラウマと結び付けたい誘惑にかられます。それはともかく、宇津山超えは夏のシーンなのですが、蘆舟は紅葉した蔦を描いています。かつて蔦紅葉をモチーフにした伊年印の風炉先屏風を紹介した際、不思議に思って僕なりの解釈を述べてみたのですが、土屋貴裕さんはカタログに見事な解答を提示しています。
 2 月 2 日(日)この展覧会にちなむ記念講演回で、僕がしゃべることになっています。
 そのタイトルや、「笑う美術館館長 名画を語る」 !?

● 2014-4.
出光美術館
「没後50年・大回顧 板谷波山の夢みたもの<至福>の近代日本陶芸」< 3月 23日まで>( 1月 12日)


 この素晴らしい波山展を企画した柏木麻理さんは、波山とわが国同時代文化との共鳴に耳を澄まそうとしています。それは光への関心であり、生命の礼賛であり、科学への憧憬でした。序章から終章へ、見終わればこれまでとはまったく違った波山があなたの心に宿ることでしょう。時にいわれる孤立どころか、洗練された時代精神と生き生きと呼吸する波山の姿です。波山といえば葆光彩ですが、僕は「葆光」という言葉が、『荘子』に出ることをとても興味深く感じるのです。もちろん波山も知っていたでしょう。光を隠すとか、かすかな光という意味です。かつて蕪村の微光感覚を巡る一文を書いた時や、出光美術館で抱一の光の感覚についてしゃべった際に、これをキーワードに選んだことも思い出すのです。「この一点」はカタログの表紙にも選ばれた「葆光彩磁草花文花瓶」ですが、もし一つ頂けるとしたらこの作品ではなく、榎木孝明が波山を、南果歩が妻のまるを演じた映画「 HAZAN 」で見て、欲しいなぁと思っていた飛鳥山焼の盃です !?

● 2014-3.
サントリー美術館
「平等院鳳凰堂平成修理記念 天上の舞 飛天の美」 < 1 月 13 日まで>( 1 月 7 日)


 かの定朝作「阿弥陀如来坐像」の光背から飛んできた飛天が目玉です。繊細優美なる日本美術を象徴する作品だといってよいでしょう。もちろん坐像である本尊に比べればずっと動的ですが、その動きはとても優しく柔らかです。しかしこのような飛ぶ仏様のオリジンが、遠くインドや中国にあったことを、この展覧会は教えてくれるのです。最も早いスワートの浮き彫りの飛天には翼があるのです !! それはまるで天使ですが、ここにはヘレニズムの影響を読み取るべきでしょう。事実、クチャの舎利容器には有翼の天使が描かれているのですが、完全にヘレニズム調です。それがガンダーラになると、翼ではなく天衣になっています。片岩という石に彫ってあるせいか、翻る天衣というわけではありませんが、天衣の一部を持ち上げて袋状にし、そこに散華のための花を入れているのが実に愉快です。それが北魏の飛天になると、完全に天衣は翻り、このパターンが唐から統一新羅へと伝わっていきます。鳳凰堂の飛天はその日本的変容だったのです。

● 2014-2.
続けて酒の話( 1 月 4 日)


 朝日歌壇にも銘醸賛歌は少なくありません。僕が選ぶ去年のベストワンは、「冷やされし酒の表面張力に唇触れてひとりの宴」。去年といえば正月、「おしゃべり館長」に中唐の詩人李賀のことを書き、『國華清話会会報』に続けたところ好評だったので、悪乗りをしてその「将進酒」を又々戯訳で……
 ガラスのさかずき琥珀色
 小さな樽から注がれる ワインは真紅のパールのよう
 龍煮て鳳凰包み焼き 脂が涙のごと流る
 絹の屏風と刺繍した 幕が閉じ込むよい香り
 鳴らす龍笛ワニ太鼓
 明眸皓歯 柳腰 舞いつつ歌う美女の群れ
 加えて春は真っ盛り 日は今まさに暮れんとし
 乱れ散ってる桃の花 まるで真っ赤な雨のよう
 君に勧めん一日中 ジャンジャカ飲んで酔いに酔え !!
 かの劉伶も死んじゃえば 墓まで酒はやって来ず

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
● 2014-1.
まずは日本酒の話( 1 月 1 日)


 昨年末、ある蔵元から蔵付分離酵母で醸したお酒を頂戴しました。『秋田さきがけ新報』で知っていましたが、色香味三絶に加えて、ここには物語があります。いつも ANA 機内誌『翼の王国』で「未完成へのオマージュ」というワイン・エッセーを読んで、日本酒にもさらにロマンが必要だと思っているところでした。それだけではありません。ワインは形容が豊富です。「名バイオリニストの弓から立ち上った松脂のような」「最も上等なヤギの燻製のような」「よく乾いたスコティッシュホールドの毛のような」「大切に半年ほど使われたなめし皮のような」「朝露に濡れたあと少し乾いたマロニエの落ち葉のような」……ホンマかいなと思うようなものまでありますが、これがワインを面白くしていることは否定できません。それはともかく、秋田の酒の素晴らしさをもっともっと広く知ってもらうべきです。琳派 400 京都フォーラムのとき、京都府長さんから「日本酒で乾杯しておくれやす」というステッカーをもらって、とても感動したものでした。