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過去のおしゃべり(名誉館長)


 
  2013年(平成25年)のおしゃべり 
 
12月 11月 10月
9月 8月 7月
6月 5月 4月
3月 2月 1月
  

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 12月 (71~74)

● 2013-74.
中山人形 ( 12 月 23 日)


 中山人形は素朴なフォルムと華やかな色合い、上品な土の香りが素晴らしい郷土玩具です。平鹿町吉田字中山(現横手市)にあった中山窯で、明治の中ごろ作られ始めました。中山窯は初め生活雑器を焼いていましたが、それを継いだ有田の陶工の息子がこの地の樋渡ヨシと結ばれました。ヨシは姉様人形を手本に、また歌舞伎をモチーフに土人形を作り始め、ここに中山人形が誕生したのです。中山人形が飛躍的に発展したのは三代目の時代で、とくに 1949 年に売り出した干支土鈴は人気を呼び、五代目に受け継がれた現在も中山人形のシンボルとなっています。僕は秋田ふるさと村の工芸館で、ランチの行き帰りに眺め、秋田がもっと誇るべき郷土玩具だと感じ入っていましたが、このたび干支土鈴の「午」が来年の年賀切手のデザインに選ばれたというニュースほどうれしいものはありませんでした。それだけではありません。五代目のお嬢さんが我が館の解説員なのです。ぜひ六代目として中山人形を受け継ぎ、後世に伝えていってくれるよう、祈らずにはいられません。

● 2013-73.
秋田県立近代美術館
「没後 80 年 平福百穂展」< 2014 年 2 月 2 日まで>( 12 月 19 日)


 蕪村は郷愁の詩人、百穂は望郷の画家でした。僕が特に惹かれるのは「春山」、百穂の感情が視覚化されています。印象派風の明るい光が満ちていますが、それは厳しい冬が終わって、早春を迎えた故郷への賛歌です。アララギ派歌人でもあった百穂の一首、「ひとときに芽吹きたち匂うみちのくのあかるき春にあひにけるかも」と美しく共鳴しています。これを詠んだ仙巌峠は秋田岩手の県境、近くの国見温泉は 40 年ほど前に泊まって感動したものでした。 9 月に生涯学習センターで百穂についてしゃべった時、この絵とそっくりの山が角館の近くにあると教えて下さった受講者もありました。いずれにせよ、「うつろへる川の流を見るにさへ年ふりにけり国を出しより」と詠んだ百穂は望郷の画家でした。「故郷は蝿まで人をさしにけり」(小林一茶)や「木賊刈る信濃はいづこ還るべき故国持たざるゆゑに男ぞ」(塘健)と故郷をうたった信州人の対極にあるのが、百穂であり秋田人なのです。

● 2013-72.
東京都美術館
「ターナー展」<12月18日まで> ( 12 月 4 日)②


 ある時、今は大英博物館のキューレーターをつとめているニコル・ルマニエルさん(7月20日参照)が、ギリシアのコルフ島にある東洋美術館に日本絵画が数多く収蔵されているという情報をもたらしてくれました。それをもとに2008年夏、辻惟雄さんを団長とする一行が調査におもむきました。しかし日ごろの行ないが悪かったせいか、僕は参加のチャンスを逃してしまいました。その後里帰りした我らが佐竹家旧蔵の狩野山楽筆「群馬図屏風」や、東洲斎写楽の肉筆扇面は確かに傑作でしたが、それはともかく、コルフ島には何が何でも行きたかった!!この島を舞台にするジェラルド・ダレルの『虫とけものと家族たち』――池澤夏樹の翻訳がまた素晴らしい――を読んで、昔から憧れていたからです。ところで、その続編『鳥とけものと親類たち』にターナーがちょっと登場するのですが、そのユーモア感覚はさすがダレルです。主人公ジェリーの兄ラリーらの操縦するヨットが強風のため難破し、命からがら助かった翌朝の描写です――「ラリーの目は今やターナーの筆なくしてはとうてい写せないような微妙かつ壮麗な夕暮れの色合いになっていた」!?

● 2013-71.
東京都美術館
「ターナー展」< 12 月 18 日まで> ( 12 月 4 日)①


 天才とはこういうものなのでしょう。W.ホウルによる版画の「自画像」に続いて展示されるのは、水彩画「南西より望むオックスフォード」、キャプションによれば 12 歳か 13 歳の制作ということになりますが、もう完璧なのです。さらに興味深く感じられるのは、ここにはすでにターナーのすべてが表現されている点です。画面の上、三分の二ほどが空になっているのですが、その素晴らしいこと !! 微妙な光にあふれ、かすかな風が流れているのです。このような美質がすべての作品を、空のない作品をもターナーたらしめています。ターナーはイギリス最大の風景画家と称えられます。「風景」を英語で言えば「ランドスケープ」、主催者挨拶にも ” painting landscape and famous historical site around the English countryside ” とありますが、漢語で言った方がずっとふさわしい。『諸橋大漢和辞典』によれば、「景」の第一義はひかり・ひざしですから、「風景」は風と光なのです。何とターナーにふさわしい言葉でしょうか。この意味でこそターナーは風景画家なのです。

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 11月 (65~70)

● 2013-70.
出光美術館
「江戸の狩野派――優美への革新」< 12 月 15 日まで>
水曜講演会「江戸の狩野派――探幽私観」( 11 月 20 日)


 企画した宗像晋作さんのアレンジが光る特別展です。河野トークも満員御礼、若冲や琳派なら話も分かりますが、これは江戸狩野ですよ !! 江戸絵画人気、いや、もはやブームです。隔世の感あり、僕が学生のころ、狩野派といえば光信まで、探幽などに興味を示す研究者はとても少なかったのです。僕も無関心派でしたが、あるとき東博の平常陳列で「草花写生図巻」を見て、本当に素晴らしいと感じ入りました。そう思って見直せば、いい作品が少なくない上、江戸絵画のベクトルを決定したという重要な美術史的意義をもつことに気づき、少しずつ調べ始めたものでした。今日は、「優美への革新という副題は間違っている。正しくは優美への革命である !! 」と言って笑いをとったあと、私観に入りましたが、例のごとく高射砲のようにしゃべっていたら、本題の写生に来るまえで終わってしまいました。展覧会の「この一点」はもちろん写生系から「白?図」、かつて陽明門の白?図を、観光客がいなくなった夜中、厳寒のなかで調査したことを懐かしく思い出したことでした。

● 2013-69.
東京国立博物館平成館
「京都 洛中洛外図と障壁画の美」< 12 月 1 日まで>( 11 月 9 日)


 7 点の洛中洛外図屏風が圧巻です。とくに舟木本の高精細画像は、肉眼でとらえられない細部まで見せてくれます。メトロポリタン美術館とシアトル美術館に所蔵される 12 面に、近年戻った 6 面を加えて、イギリスの個人コレクションを除く 18 面すべてが一堂に会した龍安寺障壁画も呼び物です。模写に替えられた二条城二の丸障壁画も、こうやってオリジナルを真じかで見るとやはり迫力がちがいます。しかし何と言っても、今回の目玉は「龍安寺石庭の四季」でしょう。桜の春から緑濃き夏へ、さらに紅葉の秋から粉雪舞う冬へ、効果音とともに石庭の一年を居ながらにして体験できるのです。ハイビジョンの 4 倍に相当する 4K というものすごい高精細のカメラ 4 台を使って撮影、それを 3 面のパノラマ映像に編集したイメージに、みんな感嘆措くあたわざる様子、僕もその前で 3 年間を過ごしてしまいました。それが本物の龍安寺石庭とは別次元の新しい視覚世界だとしても、東京で京都を満喫できる時代になったのです。ショップで「おたべ」を買って帰ればさらにね。

● 2013-68.
五島美術館
「光悦 桃山の古典 < クラシック > 」< 12 月 1 日まで>
記念講演会「光悦芸術 作品は何を語るのか」( 11 月 23 日)


 ものすごい人気です。ギャラリーは立錐の余地なきほどです。それも当然、万能の天才・本阿弥光悦の名品傑作がほとんどすべて集められているのですから。その波及効果か、はたまた河野トークの人気?ゆえか、開始前 1 時間半以上早く着いたのに、すでに長蛇の列です。企画した名児耶明さんは長年の親友、一昨年奥様を伴って来秋され、一緒に大曲の花火を堪能したものでした。彼に先導されて講演会場に向かうと、補助椅子を出しても足りず、ロビーには大きなディスプレーが用意されています。わが館長講座とはえらい違いです !? 僕も乗りに乗りました。例のごとく「AKBの河野です」から始めたのですが、光悦村と嵯峨本、金銀泥下絵和歌巻についてしゃべったところでタイムアップ、茶碗も蒔絵もバロック論もカットせざるをえなくなりました。去年『茶の湯』に書いた内容に、新しく法華宗私論を加えてしゃべりました。そもそも法華宗は偶像否定的性格が強いのですが、日蓮に見られる独立不羈の精神が芸術家を鼓舞するのだというのが私見なのですが……。

● 2013-67.
東京国立博物館東洋館
「上海博物館 中国絵画の至宝」< 11 月 24 日まで>( 11 月 6 日)②


 列車のなかで陽気な上海青年と親しくなった。僕の希望を話すと、それなら国際飯店が一番だと言う。タクシーで直接乗り込んだ。なるほど素晴らしいホテルだが、もう満室だと体よく断られてしまう。それまではどこでも飛び込みで泊まれたが、やはり国際都市上海は少し違うらしい。あきらめて外に出ると、華僑飯店という同じようなホテルが隣にある。今度は失敗できない。ちょっと考えて、先日友達が予約してくれた河野だと、フロントで嘘をついた。服務員は帳面を一生懸命めくっているが、僕の名などあるはずがない。するといきなり、その友達の名は何だと尋ねてきた。とっさに、「ジョーガン」と口を突いて出た。ちょうどそのころ、我が研究室に留学してきていた中国人学生の名である。こうして、今やパリで売れっ子画家になっている彼のお陰で、きわめて快適な一夜が送れたのだった。しかし、もはやこの手は使えない。きっと、こう断られるであろう。「残念ですが、電脳にインプットされておりません」。

● 2013-66.
東京国立博物館東洋館
「上海博物館 中国絵画の至宝」< 11 月 24 日まで>( 11 月 6 日)①


 東洋館のリニューアル( 2 月 7 日参照)を記念した特別展です。東京国立博物館と上海博物館は姉妹館のような関係にあり、 40 点もの名画が海を渡ってくれることになりました。この一点は、盛懋筆「秋舸清嘯図」です。サントリー美術館・谷文晁展のカタログに書いたように、文晁と小島一鳳という画家の愉快な逸話があるのですが、その元ネタは中国の呉鎮と盛懋の逸話にあるらしいのです。「秋舸清嘯図」を見ると、なるほどこれなら……と腑に落ちます。上海といえば、かつて『朝日新聞』の「こころの風景」に紹介した 1989 年の笑話を、 2 回に分けて再録することにしましょう。
 夜の 10 時近くなのに、上海でホテルが決まらない。如何ともし難い。嘘も方便である。初めての中国は、北京日本学研究センターの講師として訪れた。いくつかの小旅行をして要領もつかめたので、メーデーの休みを利用し、江南に出かけることにした。外国資本の近代的ホテルもたくさんあったが、上海では古きよき時代の雰囲気を残すところに泊まりたいと思っていた。夜 9 時ごろ上海駅に着いた。

● 2013-65.
江戸東京博物館
「明治のこころ モースが見た庶民のくらし」< 12 月 8 日まで>( 11 月 4 日)


 日本人必見の展覧会です。 1877 年、エドワード・モースがアメリカからやってきました。日本に多くいたシャミセンガイなどを研究するためでしたが、むしろ大森貝塚の発見者として必ず教科書に載っているでしょう。僕は大森の山王小学校に通っていたので、社会科の授業で発掘?に行ったものでした。またモースは、当時の庶民が使っていた生活用具をたくさん収集し、持ち帰りました。それは明治という時代の玉手箱、現在はピーボディー・エセックス博物館のコレクションとなっています。かつてシーボルト研究プロジェクトを一緒に進めたことがある副館長・小林淳一さん渾身の里帰り展です。僕がピーボディーで実際に触れ、『日本その日その日』の英語版を求めたのは 1993 年のことでしたが、さらに充実し、見やすい展示となっています。手拭主義者の僕がもっとも興味深く感じたのは、モース収集と明治後期のデザインの違いでした。洒落から大胆へと大きく変化しているのです。ショップで櫛をアレンジした手拭を求めましたが、これは明治後期的意匠でした。

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 10月 (58~64)

● 2013-64.
國華清話会特別鑑賞会
「岡田美術館」(10月28日)


 この秋、美術界最大の話題といえば、岡田美術館のオープンです。長年にわたり蒐集を続けてきた実業家の岡田和生さんが、「おしゃべり館長」にも度々登場頂いている小林忠さんを館長に迎えて、箱根で広く公開してくれることになりました。実は10月4日がその特別招待日だったのですが、AKB出勤日とぶつかったため、出席できませんでした。ところが時を置かず、國華清話会特別鑑賞会がここで開かれることになったのです。日本・中国を中心に、古代から近代におよぶコレクションは質量ともにすぐれ、見るものを圧倒しますが、「この一点」はやはり渡辺崋山の傑作「虫魚帖」です。季節に合わせて「洗手露?図」が展示されていましたが、鳥肌が立つようなとはこれを言うのでしょう。対向ページの賛も崋山の筆ですが、明代の詩人・瞿佑の詩から取られています。それをまた戯訳で……

 鱗粉の蝶・金の蜂 自然の霊気に感応す
 蓮花を愛し悠々と 蘭の花にも集まるよ
 生意の写生パーフェクト 毘陵[びりょう]の画家の筆になる
 心込め溶く臙脂[えんじ]もて 高級絵絹に描かれる

● 2013-63.
千葉市美術館
「ジョルジュ・ルオー展」< 11 月 17 日まで>( 10 月 10 日)


 わが国で最初にルオーの作品にオマージュを捧げたのは、梅原龍三郎や白樺派の人々だったそうです。かの松本俊介も影響を受けたようですが、画風というよりも生き方だったのではないでしょうか。ルオーの差し響きは秋田にも及び、金沢秀之助の第 8 回日展特選作「肉屋の店」を生むことになります。さて、「この一点」は「裁判官」(出光美術館蔵)、時に彼は 41 歳、ヴォラールと契約する前、早期の作品です。バロック化される前で、内面から噴出するような力強さに圧倒されます。おもしろいのはその額縁、ちょっとアールデコ調なのです。そこに抽象的な模様が描いてあるのですが、彼自身の筆にちがいありません。わが国でいえば「描き表装」です !! そう思って見ていくと、ルオーが額縁に強い関心をもっていたことに気づきます。例えば「受難」はシリーズなのに、みんな額縁が異なり、しかも凝った作りになっています。ルオーのコダワリだったのではないでしょうか。そもそも彼は、画面の周りに大きな額のような枠取りを描いてしまうような画家だったのです。

● 2013-62.
琳派 400 年記念祭 プレフォーラム in 京都(龍谷大学アバンティ響都ホール  10 月 6 日)

「過去のおしゃべり」 2012年 7月 31日「琳派 400年記念祭 記者発表」へもアクセスを !!

 いよいよ琳派のメッカ京都での宣言発表です。府知事、市長の挨拶に続いて、秋田新美術館顧問でもある高階秀爾さんの 22 世紀に向けたすばらしい基調講演があり、パネルディスカッションへ移りました。芳賀徹さんは映像での登壇となりましたが、「与謝蕪村も琳派だ」というのが刺激的でした。かつて僕も、酒井抱一と蕪村の美意識的相似についてしゃべり、書いたことがあるのでとても意を強くしました。コーディネーターの銅版画家・山本容子さんからトップバッターに指名された僕は、お馴染みの「秋田県立近代美術館、略称AKBの河野です」と言って笑いをとりました。辻惟雄さんのかざり論に対し、「<装飾>という漢字の方が、衣も食も入っていて、この記念祭にピッタリだ」というのも受けました !? あとで仕掛け人の下田元美さんから、「AKB」で一気に会場が和みましたと感謝され、ちょっとうれしくなりました。交流会もありましたが、大学施設のためかソフトドリンクのみ、終了後直ちに辻・岡田秀之さんと近くのホルモン屋にしけ込んだことでした。

● 2013-61.
秋田県立近代美術館
館長講座特別編「 ZIPANGU 日本美術史の視点から」( 10 月 5 日)
ABS 秋田放送開局 60 周年記念「ZIPANGU 沸騰する日本の現代アート」<11月 10日まで>にちなんで


 宣伝コピー「ジパング秋田展に河野元昭が緊急参戦、美術史家が現代アートを斬る」は、タッグを組んだ ABS が考えてくれたものですが、コンテンポラリーアートも大好きな僕が、予定していた「英一蝶」をこれに替えてもらったことは事実です。日本現代アートがどんなに奇抜に見えようとも、そこにはわが国の美意識が脈々と流れています。特にバブル崩壊後の閉塞感には、本歌取りや見立てを尊ぶ日本文化の再認識が強く作用したのでしょう。それが 90 年代以降のジャパン回帰を生み出したのです。好みの作家 11 人を取り上げましたが、目玉はやはり秋田出身の鴻池朋子です。去年、日経日本画大賞を受賞する契機となった「シラ―谷の者 野の者」が、会場でも圧倒的迫力を発揮しています。ここにはデミアン・ハースト、トランスボディ、リアリスティック・ファンタジーなど、同時代絵画との息詰まる真剣勝負があります。しかしその襖絵という画面形式を、わが国障壁画の伝統抜きに考えることはできません。所蔵が寺社ではなく、㈱ダブルラックであるとしても……。

● 2013-60.
追悼 藤圭子
< 8 月 22 日逝去>(七七の 10 月 9 日夜)


 先日の芬蘭グラスで献杯のあと、ギターを片手に彼女を偲びました。サトウサンペイが表紙を飾る『あのうたこのうた 2222 曲』には代表曲が三つ収められていますが、やはり「圭子の夢は夜ひらく」です。先日フジタ展の帰り、たまたまクロサワ楽器でピックを買いました。それで 4 ビートというのが正調でしょうが、今夜はアルペジオです。そのあと彼女に会い、呆然と<怨歌>を聴き、冥福を祈りました。もちろん YouTube です。八代亜紀とのデュエット「なごり雪」まで、「ふたりのビッグショー」からアップされています。これまた心にしみる一曲でした。以前だったらレコードでしょうが、僕は彼女のを一枚も持ち合わせず、きっと寂しい 49 日になったことでしょう。「夜ひらく」がヒットした 1970 年を『 20 世紀年表』に求めると、ちゃんと彼女の美しい横顔が出ていました。初めて僕が就職した年ですが、将来への自信などまったくありませんでした。永田和宏が先日の朝日歌壇に採った「詰め襟で十五十六十七と歌ひし頃の不安な未来」ほどではありませんでしたが。

● 2013-59.
サントリー美術館
「ドリンキング・グラス 酒器のある情景」<11月10日まで>( 10 月 3 日)


 神への献酒から日常の愉しみまで、五つの生活シーンに分けて飾られた 180 点ものガラス器をながめていくと、その歴史が自然と腑に落ちます。上戸も下戸も、必見のガラス展です。「この一点」は「ダイヤモンドポイント彫りフルートグラス」。近世初期ネーデルランドの傑作、今ならシャンパングラスですが、当時はワイン用だったらしい。でも僕なら断然ビールです。 1991 年初夏、ハイデルベルク大学にゲストとして招かれた時、毎晩カールスルーエの「マイスター・ベウ」をやっていたのがフルートグラスでした。もちろん街の雑貨屋で買った安物でしたが、上から注ぐと一瞬全部が泡となり、底から徐々にビールに戻っていく、それを一気に飲み干す――あのアパートのベランダが彷彿としてきます。ただガラスがとても薄く、記念に持って帰るとき、ひどく気を使ったものでした。企画した土田ルリ子さんの解説を聞きつつ堪能、ショップではフィンランドのヴィンテージ・グラスを求めました。もちろんその晩、即使い初め、「フィンランディア」のうまかったこと !!

● 2013-58.
東京国立近代美術館
「近代日本画の巨人 竹内栖鳳展」< 10 月 14 日まで>( 10月 1日)


 修論で栖鳳を研究した中村麗子さん渾身の特別展です。僕も「よく見ると、描かれているものが実物とかけはなれていることもしばしばです」という主張に大賛成ですが、今回は「観花」に注目しました。江戸期の俳人・上島鬼貫の「骸骨のうへを粧て花見哉」から霊感を得て描いた作品で、栖鳳は解剖学的正確さを期すため、京都府立病院から女性の骸骨を特別に借り出したというのです。栖鳳塾に備えられていた骸骨だったという説もありますが、このころ栖鳳は医師・河田蘭太郎から解剖学の講義を受けていますから、病院から借り出す機会は充分あったことでしょう。いずれにせよ、この俳諧と客観主義との組み合わせが実に興味深く感じられます。栖鳳が西洋の写実を積極的に学んだことは事実ですが、その胸底には俳諧趣味があったのです。僕は「羅馬之図」を見ながら、芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」を思い出していました。「観花」を見ていた女性が発した一言も、日本絵画の本質をズバリ突いていました。「個人蔵とあるけど、一体どこに飾るのかしらねぇ?」。

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 9月 (52~57)

● 2013-57.
国立西洋美術館
「システィーナ礼拝堂 500 年祭記念 ミケランジェロ展 天才の軌跡」(続)< 11 月 17 日まで>

(ミケランジェロをMと略記  9 月 25 日)

 M粗食説をアップしたところ、館長の馬渕明子さんと、MOA美術館の福田雄二郎さんから「?」が呈されました。実は、Mが美食家だったとは思えないと言いたかったのです。ロッシーニを挙げるまでもなく、ヨーロッパの芸術家にはグルメが多いのに反して。僕は「飲食は只腹空しく口渇せるを凌ぐが為にするのみ」だった北斎を思い出します。ちなみに彼は、食べ物を包みから食器に移すことなく、手づかみで食べていました。また彼は、冬の間炬燵に入って描き続け、夜はそのまま仮眠を取るだけでした。Mも若い頃、服を脱ぐのが面倒になるほど仕事に没頭、そのまま寝たものだと語っています。おもしろい一致だと思って拙著(『日本の美術』 367 )に紹介したところですが、その巻末には馬渕さんが特別寄稿をしてくれたのでした。福田さんは『光明』の記事を送ってくれました。料理研究家・辰巳芳子さんはMのエネルギーのもとが子牛の骨のスープ「フォン」にあったと推定していますが、それ以外の高級食材のことも、美食家だったとも言っていないようです。

● 2013-56.
国立西洋美術館
「システィーナ礼拝堂 500年祭記念 ミケランジェロ展 天才の軌跡」 ( 9月 20日)


 最初の「食べ物のスケッチと 3 種のメニュー」を見るだけで、「ミケランジェロは天才だ !! 」と分かります。なぜなら、天才は天才を知るからです。 ( 笑 ) 朝昼晩の三食らしく、パンが 2 個→ 4 個→ 6 個と増えています。朝食にもワインがついている点は、さすがイタリアですが、ルネッサンス期の巨匠の食事としては、ちょっと質素ではないでしょうか。鰯や鰊ばかりで肉がないのです。事実、弟子のコンディヴィは、「ミケランジェロは必要以上の楽しみのための食物は決して摂らなかった」と書いているそうです。ところがカタログ解説は、晩年ローマに住んでいた彼が、フィレンツェにいた甥から定期的にワインやチーズを送ってもらっていたことをもって、質素説に疑問を呈しています。肉断ち期間中の可能性があるとも言っています。しかし僕は、断然ミケランジェロ粗食説です。もし彼がグルメだったら、我らが呉春のようにもっと洒落た画風になったことでしょう。食べ物にこだわらなかった葛飾北斎の力強い画趣も、何とミケランジェロに似ていることでしょうか。

● 2013-55.
秋田県立近代美術館
「吾、之を得たり 勝平得之が歩んだ道」< 10 月 6 日まで>
ブルーノ・タウト(篠田英雄訳)『日本美の再発見』より( 9 月 15 日)


 私達の案内役は、勝平(得之)氏と同氏の友人(平野勝氏)、それから横手駅勤務の鉄道職員である。何もかも凍っている。太陽はちょっと顔を見せたきりだ。駅前の旅館(平源支店)で、ご馳走の沢山ついた午食をとる。新聞記者が三人インタヴューにやってきた。写真を撮るというので、疲れていたけれどももう一遍外へ出た。あとでこの時の新聞記事を読むと、また知事さんや金足村の裕福な地主のことを問題にしていた。そしてタウトはそんな不快事があったにもかかわらず、秋田の風物を慕ってふたたび来訪したと書いてあった。一時間半ばかり午睡して眼を醒ますと、やがて夕食である。ご馳走は昼よりももっと豊富だ。それからカマクラを見に町へ出た。すばらしい美しさだ。これほど美しいものを私は曾つて見たこともなければ、また予期もしていなかった。これは今度の旅行の冠冕だ。この見事なカマクラ、子供達の雪室は !

● 2013-54.
中野晶子
「出光美術館所蔵『江戸名所図屏風』の作画期について」(『國華』 1414 号)( 9 月 10 日)


 この屏風の不忍池に描かれる白い鳥がペリカンであり、 1629 年ここに飛来したことの画証であるというユニークな本論文は、先日『朝日新聞』にも報道されました。 1986 年、カンサス大にゲストとして滞在した僕は、暇があると生協で買ったローラ・ I ・ワイルダーのかのシリーズを読んでいました。『シルバーレークのほとりで』に登場するペリカンは……
 ある日パパは、ペリカンがどんな鳥かをママに見せたくて、撃ち落した一羽を家に持って帰ってきました。パパは長い嘴を押し開け、飲み込んでいた魚を全部嘴嚢から吐き出させました。その瞬間ママはエプロンで顔をおおい、キャリーとグレースは鼻をつまみました。「どっかにほかして。チャーリー、すぐによ」。ママがエプロンで顔をおおったまま叫びました。飲み込んだばかりの魚だけでなく、嘴嚢のなかで長いあいだ醗酵していた魚が多かったのです。ペリカンという鳥は食用にならないだけでなく、羽も腐った魚の臭いがひどく、ママも枕のアンコに取っておくことをあきらめたのでした。

● 2013-53.
完成記念特別試写会 「天心」(東京芸術大学奏楽堂  9 月 2 日)


 竹中直人が岡倉天心を演じる「天心」の特別試写会に、國華を終えたあと出かけました。まず初めに、竹中らの舞台挨拶がありました。竹中は熱演につぐ熱演です。天心が奇矯な行動をとったのは、性格的弱さをカモフラージュするためであったと思われますが、それもよく描かれていました。以前みた「板谷波山」には、ラブシーンがなくて残念 ? でしたが、この「天心」には九鬼波津子との場面が抜かりなく用意されています。この夏休み、『美術フォーラム 21 』のために拙文「江戸の美学」を書いたのですが、大きく取り上げた『「イキ」の構造』の著者九鬼周造のことを思い出しながら見ていました。ご存知のように竹中はハゲ頭、竹中天心はカツラですが、アデランスとメーキャップアーティストの完全勝利です。一方、天心自身の写真をながめていると、そのふさふさした黒髪がカツラのように見えてくるから不思議です。『國華』創刊者としての天心がなくて、ちょっと心残りでしたが……。

● 2013-52.
飯島幸永写真集
『寒流 津軽のおんな/越後・雪下有情』( 9 月 1 日)


 とてもいい。玉繭のような雪国の少女の表情が。海岸の雪道を我が家へと急ぐ親子の姿が。猛吹雪のなか、全校生徒 6 人の小学校に通う子供たちの元気な様子が。飯島さんには國華清話会でも写真をお願いしており、また小泉淳作画伯の生き方を追った写真家として存じ上げていましたが、こんなすごい仕事があったとは !! 飯島さんは写真大学卒業と期を一にし、雪が絶対的風土を形作る越後と津軽で、ごく普通に生きる女たちを撮り始めました。時は昭和 40 年代、確かに彼女らは強靭と気高さを湛えつつ、雄々しく生きていました。しかしそれだけを称えるのは、幕末明治のころわが国へやってきて、衆庶の素晴しさを書き残した外国人と同じでしょう。彼女らもより豊かな生活を望んでいたのです――秋田県人の僕にはそれがよく分かります。高度成長こそその結果でした。木村伊兵衛と土門拳も秋田の風俗を撮っています。いつか三人を一緒にした写真展をやってみたいのですが……。

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 8月 (46~51)

● 2013-51.
朽木ゆり子
『東洋の至宝を世界に売った美術商 ハウス・オブ・ヤマナカ』<新潮文庫> ( 8 月 25 日)


 朽木さんはニューヨークに住むノンフィクション作家です。『フェルメール全点踏破の旅』で洛陽の紙価を高めた彼女が、続いて伝説の美術商「山中商会」に挑みました。実証性を確保しながらも、読ませるのです。特に日米開戦前後から、アメリカ政府がどのようにして山中商会を解体していったかを明らかにした第三部は息をもつかせません。この原著が出版されたのは 2 年前、そのとき僕は日経に書評を書いたのですが、これを文庫化するにあたり、うれしいことに彼女から巻末の解説を依頼されたのです。彼女にオマージュを捧げつつ、また自分の体験を織り交ぜつつ書いていたら、規定の枚数をはるかに超えてしまったのですが、我が美術館のこともさり気なく入れることを許してもらいました。「今度ニューヨークに行ったとき、是非お会いしたいなぁ。もし秋田県立近代美術館を訪ねて下さったら、いまやB級グルメの雄となった横手焼きそばを必ずご馳走したいなぁ」と。

● 2013-50.
Bunkamura ザ・ミュージアム
「レオナール・フジタ展」< 10 月 14 日まで>( 8 月 20 日)


 藤田の面相筆による輪郭線――面相線は輪郭線に非ず、これが私見です。物の外形を形作る線が輪郭線ですが、もちろん絵を描く時には最初に引かれます。だが藤田はこれを最後に入れています。どの乳白色の肌の作品でも明らかですが、特に興味深いのはスケッチ下絵の「女眠る」(紙+鉛筆)と、完成画の「仰臥裸婦」(カンバス+油彩)です。前者では輪郭線が最初に引かれていますが、後者では最後に加えられています。モデリングと明暗法によるヌードが完成したあと、面相線が加筆されているのです。藤田と日本美術との密接な関係は否定できませんが、実は西洋画の本質を誰よりもよく理解した画家だったのです !!CG を使って面相線を消してみれば、その美しさを生かすように用意された完成画だったことが分かるでしょう。面相線はパリで生きるための策略であり、二重の意味で落款のようなものでした。土門拳が撮った「面相筆で猫を描くフジタ」を見ると、制作途中で面相筆を使っているように見えますが、これはメクラマシのための演技に違いありません。

● 2013-49.
秋田県立近代美術館
「吾、之を得たり 勝平得之が歩んだ道」<10月6日まで>(8月15日)


 大好きな秋田アーティストの一人です。得之は昭和10年、秋田を訪れたドイツ人建築家ブルーノ・タウトと知り合いました。私見によれば、これが得之芸術にとってきわめて大きな転機になったのです。宿泊した石橋旅館で得之の版画を見たタウトは、市内の案内を得之に頼むことにしました。翌年もタウトは来秋するのですが、建築だけでなく、人々の生活や風物の美しさに感嘆の声をあげるタウトの審美眼に、得之は大きな驚きを覚え、刺激を受けました。タウトは秋田の人々の美しい顔立ちや、すばらしい農婦の服装、光と影に彩られたカマクラの幻想美について、日記の中に書き残しています。もちろんそれは以前から、得之の愛するモチーフでしたが、タウトの称賛を耳にしたとき、新しい意味をもつようになったのです。日常の風景が得之の心中で理想化されたのです。それは秋田の芸術家がひとしなみに持っていた、望郷の念ととても近しいベクトルをもつ精神作用でした。

● 2013-48.
太田記念美術館
「江戸の美男子 若衆・二枚目・伊達男」< 8 月 25 日まで>( 8 月 10 日)


 「江戸文化講座 江戸絵画の魅力」のあと堪能しました。浮世絵の二大テーマは、美人と役者です。これまで役者絵は役者絵としてはっきりとジャンル分けされてきましたが、これを美人に対する美男子として解き放ったところがミソです。僕にとって「美男子」と言えば長谷川一夫です――なんて言っても若い人には通じないでしょうが。キャッチコピーの方には、ちゃんと「いけめん」とルビが振ってあります。「美人」とセットにするには頭韻を踏み、しかも字数が揃う「美男」でもよかったでしょう。いずれにせよ、美人画にもたくさんの美男が登場します。大首絵を除いての話ですが。しかも美人のお添えものではなく、美人と対等に渡り合っています。その点からも、今回の一押しは鳥居清広の紅摺絵「汐干狩」です。実にロマン的な情景ですが、それをさらに高めているのが、「姫貝の肌やゆかしき汐干かな」という句賛です。「バレ句じゃないか」なんて言っているのは誰ですか?

● 2013-47.
新秋田県立美術館
「篠山紀信 写真力」< 8 月 25 日まで>( 8 月 1 日)


 「篠山は、スターたちの虚像を暴くといったことには関心をおかず、あくまでスターがスターとして最も輝く瞬間を捉えることを目指しています」というキャプションは疑問です。虚像を暴くことはともかく、「実像を見せる」ことをあえてやるからです。今も熱狂的 ? ファンである山口百恵――僕の百恵コレクションのなかに、 LP 「ひと夏の経験」があります。そのジャケットはもちろん篠山、ビキニをつけた百恵の上半身ですが、右腕の付け根にものすごい BCG の痕が写っています。あるいは「横須賀ストーリー」、おでこや頬のニキビがクッキリと浮き上がっています。カメラ位置やライトをちょっと変えるだけで、いくらでもきれいに撮れたことでしょう。篠山はブロマイド写真家を拒否しようとしているのです。さて、マイコレクションの目玉は 1st アルバム「としごろ」、これは相当だろうとヤフオクにアクセスしてみたら、終了間際なのに最低価格 300/ 入札 0 。ガックリきたことでした。

● 2013-46.
酒の話 李白「将進酒」 (承前  8 月 1 日)


 天賦の才あるからいつかは就職できる 使った金などいつかは戻る。
 羊やら牛のご馳走たらふくと…… 飲むなら三百杯を飲むべし。
 岑先生 丹丘君にも是非一献 「いや結構」など言うんじゃないよ。
 君がため僕が一曲歌うから 耳をそばだて是非聴いてくれ。
 大仰な音楽ご馳走不要なり 酔いから醒めずにただいたいだけ。
 偉人でも死んでしまえばそれっきり 酒飲みだけが歴史に残る。
 曹植の平楽観の宴会に 出た酒一斗が一万銭だ。
 「金がない」なんてこの俺言うものか 買ってくるからじゃんじゃん飲んで。
 花紋の名馬 ミンクのコート
 ウェイターに持っていかせて美酒に換え もろともに消さん万古の愁い。

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 7月 (39~45)

● 2013-45.
酒の話 李白「将進酒」 ( 7 月 23 日)


 恒例の河野ゼミ・ランチョンレッスン――今年から上福岡キャンパスが川越キャンパスに統合されたので、今までの焼肉屋は不便になり、川越駅前の「海峡」へ。あるコンテストで唐揚げ部門日本一に輝いた店と聞いていたので、店員さんに「……だそうですね」と言うと、「いや、東日本一です」。律儀な方でした !? 今の学生は酒を飲みません。皆ドリンクバーです。僕と飲んだのは湖南から来た龍君だけ、彼によると、中国で最も人口に膾炙する酒の詩はこれだそうです。日本ではもちろん「月下独酌」と、我らが大伴旅人ですが。彼の訳をもとに、僕の戯訳を……。楽府題のためちょっと長いので、 2 回に分けましょう。

 君見ずや天より下る大黄河 海へ走って二度と還らず。
 白髪を立派な鏡に映す人 朝の黒髪夕べにゃ雪だ。
 人生は楽しめるうち!それが花 月に酒樽さらすは馬鹿だ。

● 2013-44.
高松宮殿下記念世界文化賞
25周年記念シンポジウム「現代社会における文化芸術の役割― 124 人の世界文化賞受章者から考える」(鹿島講堂 7 月 17 日)


 この賞は絵画、彫刻、建築、音楽、演劇・映像の 5 部門で、傑出する業績をあげた芸術家に授与されます。主催者は日本美術協会、 1878 年、佐野常民らによって設立された龍池会から発展した美術団体です。伝統美術の復興を目指したはずですが、今や時代の先端を切る芸術家の顕彰を行なっていることを知りびっくりしました。シンポジウムは浅田彰さんの司会のもと、高階秀爾さんをはじめ 5 人のパネリストによって進められました。その一人が第 21 回絵画部門賞を受けた写真家・杉本博司さん、本当に懐かしかった !!1986 年、カンサス大学にゲストとして呼ばれた時、ニューヨークへ出かけ、杉本さんの店で古美術を見せてもらいました。そのころ氏は、古美術商で生活しながら、写真を撮っていました。そのとき見た狩野元俊筆「松に錦鶏図屏風」はすばらしく、後で探幽名古屋城障壁画論に使ったものでした。もちろん氏の作品も見ましたが、あのとき一枚買っておけばよかった !?

● 2013-43.
またネコの話 ( 7 月 20 日)


 2003 年サバティカル・イヤーを得た僕は、 5 月から 8 月にかけて、英国はノリッジにあるセンズベリー日本芸術研究所で過ごしました。充実した三ヶ月を送れたのは、所長のニコル・ルマニエルさんのお陰でした。僕はここで還暦を迎えたのですが、あれから 10 年、今日はもう古稀です。それはともかく、ノリッジ大聖堂のショップで求めた猫に関するアンソロジー ” Cats, A Book to Make Your Own ” から、最も愉快な一話を紹介しましょう。
 私は『禅の本質』という本を閉じると、ネコに声をかけた。彼女はざらついたピンクの舌で、丁寧に毛ヅクロイをしながら、のんびりとくつろいでいた。「ネコちゃん、勉強するんならこの本を貸してやってもいいんだけど、君はもうみんな読んじゃったように見えるなぁ」。ネコは私を見上げ、じっと見据えると、ゴロゴロとのどを鳴らしながら言った。「馬鹿なこと言わないで !  それは私が書いたのよ !! 」。 ディリス・レイン「ミャオ」

● 2013-42.
サントリー美術館
「生誕 250周年 谷文晁 この絵師、何者 !? 」< 8月 25日まで> ( 7月 11日)


 谷文晁は大好きな絵師の一人です。ちょっと俗っぽいけれど、道学者然とした絵師よりずっとおもしろい。何より、すばらしい作品がたくさん遺っています。華やかな化政文化の象徴的存在です。パッと咲いて、盛大な喜寿祝宴の翌年、パッと散ったのにも惹かれます。もちろん、この業界では超有名な画家です。 1969 年、松下隆章先生監修のもと、銀座・松屋で「近世五人の巨匠展」が開かれましたが、ちゃんとその一人に選ばれています。その時のカタログをなつかしく眺めながら、今しゃべっているのですが……。至文堂版『日本の美術』にも入っています――著者は何者?河野とかいう美術史家です !! ところが一般的には、あまり知られていません。本展を担当した池田芙美さんと上野友愛さんによると、プレス発表の時も、「この絵師、何者?」という質問が少なからず出たそうです。そこで僕は、悪乗りしたような一文を図録に草しました。タイトルは「この絵師、何者 !? 人気者」 !!
 7 月 20 日(土) 14:00 よりサントリー美術館で僕のトーク「知れば知るほど面白い 谷文晁の魅力」があります。秋田の方には是非どうぞというわけにいきませんが……。

● 2013-41.
ネコの話(続) 忠猫ニケちゃん ( 7 月 6 日)


 館長講座<江戸時代の美術・前期>③は「狩野探幽」、いつものように喋りまくったあと、受講者からサブレーをプレゼントされました。先日アップした伊勢家忠猫の名がニケに決まったそうで、それをフィーチャーした新製品です。目だけは袋に印刷したアイディアがおもしろい。僕の提案した「コイセ」は採用されなかったようで、ちょっと残念ですが、伊勢家ならぬサモトラ家?の「ニケ」も悪くありません。さっそく館長室でいただくと、デザインだけでなく、味の方も実にすばらしい。僕は鎌倉の「鳩サブレー」がナンバーワンだと思っていたのですが、それに勝るとも劣りません。これからはニケちゃんが、平鹿町の町興しに大活躍してくれることでしょう。いや、あれほど鼠退治に大活躍してくれたのですから、すでに保証されているようなものです。しかし、やはりタマ駅長のように本物がほしいなぁ。町中を探せば、どこかにニケちゃんの子孫がいるのではないでしょうか。

● 2013-40.
秋田県立近代美術館
「光のシンフォニー 藤城清治の世界展」開場式・内覧会 < 9 月 8 日まで>( 7 月 5 日)


 初めて僕が藤城さんの作品に触れたのは、大学生時代、銀座・交詢社ビルの 1 階にあったビヤホール「ピルゼン」においてでした。壁画影絵「街角で乾杯」が、冷えた麦酒をさらにおいしくしてくれました。飲む機会としては「ライオン」の方が多かったのですが。結婚後は、女房の購読する『暮しの手帖』が清治ワールドを運んできたくれました。やがて交詢社で開かれる浮世絵協会理事会が終わったあと、その影絵壁画のまえに陣取り、みんなで慰労 ? するようになりました。 2 年前、我が館で藤城展を開催することが決まった時、そんな思い出が一気によみがえってきました。光と影の美が、 3.11 後の人々の心をとらえたのでしょうか、実に 84169 人の方々が来館して下さいました。空前のことにて、「よく鑑賞できなかった」「ぜひもう一度」というアンケートの声が、今回の開催を決断させてくれたのです。「大曲花火」を加えて一新された「光のシンフォニー」を心ゆくまでご堪能あれ !!

● 2013-39.
新宿今昔譚
「『種蒔く人』と“秋田”」<浅見淵『回想の文学 昭和文壇側面史』より>(7月1日)


 石原慎太郎を見出した文芸評論家として名前だけは知っていましたが、『國華』の天羽さんが、本書の中に秋田が出てくることを教えてくれました。『裏面史』といった感じで、実に愉快な一書です。それはともかく、昭和 7 年ごろ、「種蒔く人」同人や福田豊四郎の後押しでコジンマリと開店した飲み屋の“秋田”は、戦後もいち早く再開、やがて鉄筋三階建てになり、ものすごい繁盛振りだったそうです。僕の親爺とお袋も時々食べに行っていたらしく、結構おいしいと聞いていましたが、浅見は評論家らしく、秋田女性の口を借りて、その頃の“秋田”に辛口批評を加えています。ほかに秋田美術関係では、伊勢正義と山田順子が登場します。『國華』創刊 120 年記念「対決」展が成功裏に終わった時、朝日新聞は僕の顔を立てて、近所の秋田料理店で打上げをやってくれました。「白瀑」痛飲のあと出た〆の「キムチチーズきりたんぽ」はじぇじぇでしたが、これはこれで「マイウー」でした。

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 6月 (33~38)

● 2013-38.
岩手県立美術館
「東日本大震災復興支援 若冲が来てくれました プライスコレクション 江戸絵画の美と生命」< 7 月 15 日まで>
スペシャルトーク「プライスコレクションにみる江戸絵画の楽しみ」( 6 月 9 日)


 若冲の発見者であるプライスさんが、最初に紐育の古美術店で買ったのが、実に若冲の「葡萄図」だったのです。プライスさんは日本語が分かりません。落款の「景和」が若冲であることなど、専門家でも知りません。プライスさんは自分の眼だけで選び取ったのです。その後の蒐集も同じようにして続けられました。僕が最初にお会いしたのは大学院時代ですが、その後、在米琳派調査でオクラホマのゴフ・ハウスへ、あるいは東大の研修旅行でロスのマッシュルーム邸へお邪魔した時の思い出は、今もなお心に深く刻み込まれています。そのプライス夫妻が、若冲を初めとする名品を、宮城・岩手・福島の三県に里帰りさせてくれました。大英断以外のなにものでもありません。ギャラリーではみんな楽しそうにおしゃべりをし、講堂は立錐の余地なきほどです。 DVD 上映のあと、エツコ&ジョウさんから江戸絵画の魅力をお聴きしていたら、あっという間に 90 分が過ぎてしまいました。 9 月 8 日(日)午後 2 時から福島県立美術館で、おもしろくてタメになる !? 僕のトーク「プライスコレクションの魅力」があります。福島の方は是非ご参加を !!

● 2013-37.
フジフイルムスクエア・写真歴史博物館
「エドワード・ J ・マイブリッジの『動物の運動』」< 9月 2日まで>( 6月 16日)


 写真家マイブリッジは 30 台ものカメラを並べ、それに合わせて糸やワイヤーを走路に張り、その端をシャッターに接続して 1 台ずつ撮影するという方法を発明、疾駆する馬を連続分解写真に収めることに成功しました。愉快なのは、疾走する馬の脚が 4 本とも地上から離れる瞬間があることを、スタンフォードが友人と賭けたことに端を発するという点です。彼こそ名門スタンフォード大学の創始者なのです !! もっとも、彼がいくら儲けたかは知りませんが。エジソンが映画のアイディアを思いついたのは、彼に会い、その連続写真を見た瞬間だそうです。対象を他の動物に広げたマイブリッジは、 1887 年、 ” ANIMAL LOCOMOTION ” と題する写真集として出版しました。かつて円山応挙の卒論を書いていたとき、参考資料としてその縮刷ドーヴァー版 ” ANIMALS IN MOTION ” を買い求めました。しばらくぶりで書架から引っ張り出し、青春の思い出とともにつぶやいているところなのです。

● 2013-36.
小山市立博物館
「小山で生れたアイヌコタンの医師 高橋房次」< 6月 16日まで> ( 6月 6日)


 高橋房次先生の名を、今回初めて知りました。 1882 年、小山で生れた先生は済生学舎で医学を学び、 1922 年、旧土人保護法によってできた白老病院に、院長として赴任しました。先生はアイヌの人々を一切差別することなく、貧しい人からは治療費も取らず、アイヌはもとより、町の人たちからも厚い信頼を寄せられました。白老病院が閉院となったあと、「高橋病院」を開設、そこで一医師としての生涯を終えました。野辺送りには 1000 人以上の町民が参列、逝去後 50 年以上経った今も、白老の人々はその恩を忘れていません。当時、和人の待合室には畳が敷いてあり、アイヌは土間で待つことが普通でしたが、先生はまずそれを止めたそうです。大好きな内田百閒に似た風貌の写真を見ているうちに、僕はウルウルになってしまいました。アイヌの衣裳や生活用具も陳列され、近くの小山市立車屋美術館では、北海道の大自然に魅了された画家による「北海道を描く」展が開かれています。

● 2013-35.
江戸東京博物館
「ファインバーグ・コレクション展 江戸絵画の奇跡」<7月15日まで>( 6月11日)


 ファインバーグさんは米国の化学者にして実業家、きわめて質の高い江戸絵画のコレクションを一代で作り上げました。 1972 年、メトロポリタン美術館で開かれた南蛮屏風展をみて、日本美術に開眼したそうです。僕がはじめてお会いしたのは、 1983 年、ギッター・シンポジウムにおいてでした。その後たびたび会いましたが、いつも愛妻のベッツィーさんとご一緒、その雰囲気が何ともいえず素敵なのです。アカデミズム絵画は感覚に合わず、町衆や庶民に愛された絵画に強い魅力を感じつつ、自分の眼だけを信じて蒐集を続けてきたそうです。この江戸博展に合わせて、『國華』 1411 号をその特輯号にあてたのですが、僕も酒井抱一筆「十二か月花鳥図」の解説を担当しました。このバージョンはいくつかあり、僕も論じたことがあったので、何とか新味を出そうと思い、月次絵の伝統から説き起こしたところ、またまたこの優品に直接触れる余裕がほとんどなくなってしまいました。

● 2013-34.
東京芸術大学大学美術館
「夏目漱石の美術世界展」< 7 月 7 日まで>( 6 月 5 日)


 例えば『それから』には、主人公代助が画帖を開き、ブラングィンの絵に感心する場面があるので、この画家の代表作「蹄鉄工」を選び展示するという構成になっています。もっとも実際に漱石が見たのは、美術雑誌『ステューディオ』 1904 年 10 月号に掲載された「近代の貿易」という絵らしいのですが。ブラングィンは英国の画家、 3 年前、国立西洋美術館で特別展が開かれ話題となりました。いまブラングィンを取り上げたのは、秋田とも関係があるからです。以前紹介した前田恭二さんによると、 1909 年秋の第三回文展に、角館出身の寺沢孝太郎が「かぼちゃ」という絵を出品したのですが、ブラングィンそっくりで、「よくこんな真似をしていられるな」という声さえ出たというのです。寺沢が洋画から日本画に転向したのは、これがきっ掛けだったと僕は想像しているのですが、この転向は彼にすぐれた結果をもたらしました。我らが「松林」のような傑作が生れたのですから。

● 2013-33.
東京国立博物館
「国宝 大神社展」<6月 2 日まで>( 6 月 1 日)


 第 1 室がイキナリ「古神宝」です。これが「大寺院展」だったら、当然「仏像」でしょう。これこそ神道美術最大の特色であるイコノクラスム――偶像否定です。むろん神像も登場しますが、最後の第 6 室なのです。これを一躯ずつながめていくと、神様なのに畏敬よりも親しみがわいてくるのは、仏像にくらべて全体的に小ぶりだからです。最も大きいのは高野神社の「随身立像」ですが、それでもほぼ等身大です。しかも目をむいてにらみつけているのに、ちっとも怖くない。これは神社や祭神を守るガードマンなのですが、仏像の仁王が人間を威嚇するのとえらい違いです。有名な松尾大社の男神坐像のように、おっかない顔をしたのもいますが、たいしたことはありません。画像も絵図を除けば、みな小ぶりで穏やかな構成、高雄曼荼羅のようなものなんて皆無です。というわけで、みんな小さく細かいので、皆さんガラスケースにくっついて熟覧熟視、列はちっとも進みません !?

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 5月 (27~32)

● 2013-32.
川合玉堂「胡桃」
<『多摩の草屋』より>( 5 月 28 日)


 6 月 8 日より山種美術館で、「川合玉堂」特別展が開かれます。図録に一文を求められた僕は、玉堂芸術と文学との関係について書こうと思い、まず俳歌集『多摩の草屋』を読んでみました。すると、我が秋田のお米をたたえた素晴しい長歌があるではありませんか。もっとも、修業期から書き始めたところ、本題の前に紙数が尽きてしまったのですが……

 みちのくの 秋田の友ゆ ころからと 鳴る箱着ぬ 胡桃ぞと 思ひ開くや 布ぶくろ やれむばかりに 充たされし 秋田白米 雪のごと 白き新米 箱の隅 袋のすき間 むくつけき 胡桃七八つ 米うれし 胡桃かはゆし 胡桃はも 長き旅路を 手触れなば ころろころろと 動かせば からりからりと 音たてて 守り来し米 きびしかる まさなき眼にも 米なりと えこそさとらね 板谷越え 白河過ぎて うち日さす 都の真西 稲田無き 多摩の奥処に いみじくも 秋田白米 着きにけるかも

● 2013-31.
横手・浅舞公園「忠猫碑」( 5 月 23 日)


 明治の中ごろ、現在の横手市平鹿町浅舞に伊勢多右衛門という素封家がおり、困窮した人々を助けるべく、備蓄のための米蔵を建て、また庶民の憩いの場として浅舞公園を造りました。しかし、米蔵も公園の土手も野鼠に食い荒らされて、どうしようもありません。すると多右衛門の飼っていた雌猫が、鼠退治を始めたのです。 1907 年 2 月 15 日、 13 歳で没するまで、彼女が働きに働いたお陰で、米蔵も公園も立派にその役目を果たしたのでした。そこで多右衛門は碑を建て、その功績を称え 伝えることにしたのです。以上は主に簗瀬均さんの解説板によるところですが、残念なことに、この猫の名は伝えられていないようです。そこで僕は勝手に、「コイセ」と名づけることにしたのですが……。初めてこのことを知ったのは、『週刊朝日』に載った内館牧子さんのエッセーで、 4 月初めに訪ねたのですが、そのあたり一帯が雪に覆われていて近づくことさえできず、すごすごと引き返してきたのでした。




● 2013-30.
秋田県立近代美術館
「巴里の小西正太郎」< 7 月 7 日まで>( 5 月 11 日)


 明治美術会で活躍した小山正太郎ではありません。 1876 年、秋田に生れた小西正太郎は、 1922 年、突然渡仏してパリ・アカデミーに入学します。 46 歳ですよ !! 僕にはとてもできない相談です。 3 年後、「若い女」をサロンに出品して会員となり、翌年帰国して光風会などで活躍しました。「若い女」はアカデミーの古典的画技を完全に習得したことを示しています。むしろ個性を抑えて、教えに忠実であろうとする小西に、僕は真面目な秋田気質を見るのです。パリで交流した藤田嗣治のようなとんがったキャラや、感動してポスターを持ち帰ったミュシャ、あるいは当時日本でもはやりだしていたキュビズムやフォービズム、それらの影響はまったく見られません。下手にそんなものなんてない方が、鑑賞者を安心させ、感情移入を誘ってくれるでしょう。これこそ秋田人小西の魅力ですが、もし彼がそれらを取り入れたなら、どんな作品が生れていたか?を考えてみるのも楽しいことですね。

● 2013-29.
秋田県立近代美術館
「岩合光昭写真展 とうぶつ家族」< 6 月 26 日まで>( 5 月 10 日)


 岩合さんが写し出す自然の中の野生動物たちと心を通わせれば、人間も動物も、地球という宇宙船に乗って旅する仲間であることが、文字通り自然に感得されることでしょう。実をいうと、岩合写真展は 3 回目なのですが、アンケートに寄せられた「ネコ展・イヌ展はすばらしかった ! ぜひもう一度 ! 」というたくさんの声が、館員の背中を押してくれました。「みんな、どこかでつながっている」という副題も、復興に向けてがんばっている私たちの背中をそっと押してくれることでしょう。安野光雅絵本展に続いて、 AAB さんと進藤社長が主催を買って出てくれたことも、望外の喜びでした。開場式の日に、好きな 3 点を挙げ、テレビでオマージュを捧げるという機会が与えられました。僕は長沢芦雪の傑作「黒白図屏風」と通じ合い、日本美術の豊かな水脈を感じさせてくれる「ゾウとシラサギ」に加え、個人的関心から「シマウマの親子」と「セキセイインコのカップル」を選びました。

● 2013-28.
出光美術館
「源氏絵と伊勢絵――描かれた恋物語」< 5 月 19 日まで>( 5 月 9 日)


 主催者の思惑などは脇に置いて、とても分かりやすいキャプションを頼りに、色好みのイケメンが繰り広げる二つの恋物語をそっとながめていけば、こんな楽しい展覧会はありません。「『源氏物語』は小さなエピソードの寄せ集めにすぎず、『カラマーゾフの兄弟』のような構築性がない」などと言ったヤツがいますが、そもそもドストエフスキーと比べることが間違っている !! 小さなエピソードの寄せ集めで何が悪い !! ここにこそ日本人の美意識が秘められているのです。源豊宗先生はごく小さな花が集まって一つの花になる秋草こそ、日本美術の象徴であると看破されました。『源氏物語』や『伊勢物語』もまったく同じ構造を持っているのです。だからこそ、それは色紙や扇面や画帖にふさわしく、名品を生む契機ともなったのです。もっとも、系図やリストを作りながら読まないとこんがらかっちゃうという点で、『源氏物語』と『カラマーゾフの兄弟』はよく似ているのですが……。

● 2013-27.
サントリー美術館
「『もののあはれ』と日本の美」< 6 月 16 日まで>( 5 月 1 日)


 これを見ずして、日本美術を、いや日本文化を語ることはできません。もののあわれ(以下「も」と略します)は、言うまでもなく日本人を特徴づける感覚です。一言で言ってウエットな感覚です。これを認めた上でなお、このような感覚はほかの民族にもあるというのが僕の見方です。かつて藤原正彦の『父の旅私の旅』を読んで、サウダーデというポルトガル語を知りました。最近著された『孤愁』のオリジンで、『国家の品格』を凌駕するこの名著によれば、日本語の「懐かしさ」にもっとも近しい言葉だそうですが、「も」にも回顧の感慨が含まれていることを思うと、ポルトガルにも「も」があるにちがいありません。中国語では「惻隠」でしょう。『孟子』に出る言葉だそうですが、「も」の一番重要な意味は、同情をもって他人の心を思い遣ることですから、中国にも「も」があることになります。そもそも<もの>とはタミル語から来ているというのが、丸谷才一先生の説なのですが……。

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 4月 (21~26)

● 2013-26.
國華清話会特別鑑賞会
「金閣寺と相国寺承天閣美術館」( 4 月 16 日)


 金閣寺は何度も外から見ていますが、今回は初層に上がるとのこと、これまで 69 年間入ったことがないのですから、今入らなければこのまま一生を終えてしまうでしょう !? 愛知県立美術館の円山応挙展や京都国立博物館の山楽・山雪展、野村美術館から依頼された拙稿「野村得庵の絵画蒐集」のための再調査などを兼ねて出かけることにしました。足利義満が建立した北山殿舎利殿、つまり金閣は北山文化の象徴です。初層は寝殿造、中層の潮音洞は書院造、上層の究竟頂は禅宗様となっていますが、それは貴族、武家、禅僧によって形成される北山文化を表象するとともに、太政大臣と征夷大将軍、天山道有と号する禅僧という三つの身分を併有した義満の隠喩ともなっているのです。これはすでに指摘されるところですが、重要なのは屋上路盤に銅製の鳳凰を乗せている点です。これは明らかに天皇のシンボル、義満はみずから天皇になろうとしていたというのが私見なのですが……。

● 2013-25.
国立新美術館
「第 90 回記念春陽展」( 4 月 24 日)


 サントリー美術館でインタビューを受けたあと国立新美術館へ。春陽会は 1922 年結成された美術団体、今年は節目の年です。まず 3 階の版画部へ、田中俊行さんの「星の誕生Ⅱ」へ直行です。彼は駒場時代以来の友人、高度成長に多大なる貢献をしたあと、今は版画に邁進しています。昨年の「青春プレイバック」に登場したTさんがその人、最近体調芳しからぬとのことですが、宇宙誕生の秘密を造形のなかに究明しようとする気迫に圧倒されました。今年の賀状「クチャ・クズルガハ烽火台」もすばらしかった !! そのあと絵画部へ。「新世代の作家たち」の 4 人に選ばれた秋田出身、三浦明範さんの作品に直接触れるためです。我が館にはテンペラの代表作 4 点が収蔵されていますが、今回の出品作はシルバーポイント、他を圧倒して絵画部中に屹立しています。「事実」が一つであろうと「真実」は人の数だけあるという彼の哲学は、僕の「真理あれども真実なし」という信念と同じです。

● 2013-24.
Bunkamura ザ・ミュージアム
「ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア」( 4 月 13 日)


 初めてルーベンスに興味をもったのは、 1982 年、ルーブル美術館で「マリー・ド・メディシスの一代記」に取り囲まれた時でした。これはまるで桃山障壁画だという直感が、 10 年後、桃山障壁画バロック論を書かせることになったのです。僕は拙文の最後に、「形態をマニエリスム的な輪郭線の拘束から解放し、充分な重みと実在性と内的・外的な動きの自由とを付与した」という美術史学者・フーバラの言葉を掲げました。そしてこれは、永徳や聚光院障壁画についてではなく、アントワープに工房を築き、様式完成期を迎えたルーベンスについての記述であると付け加えたのです。直前に発表された勝國興「美術における共同制作――リューベンスの場合」も示唆的でした。桃山障壁画も共同制作だったからです。 1640 年、ルーベンスは痛風のため 62 歳で歿しましたが、翌年、娘のコンスタンツィアが生まれたそうです。僕も痛風ですが、やはりルーベンスはすごい !? と思いました。

● 2013-23.
歌舞伎座<?葺落四月大歌舞伎>第一部
「寿祝歌舞伎華彩 鶴寿千歳」「お祭り」「一谷嫩軍記 熊谷陣屋」(4月10日)


 ようやく取れたのは三階席、いつも展覧会場で世話になる望遠鏡を持ってでかけました。隈健吾さんは旧歌舞伎座になるべく寄り添ったとのこと、うしろの高層ビルだけが目に新しい。「鶴寿千歳」は岡鬼太郎が昭和天皇の即位を寿ぎ作った舞踊、新開場を祝って藤十郎が鶴を舞いました。鬼太郎は東文研でお世話になった岡畏三郎先生の父君、浮世絵も専門にされた先生の江戸的エスプリは、父によって育まれたことを確信させてくれました。人間国宝は80歳を越えても、春の君・染五郎に負けず劣らずエレガントです。かつて鴈治郎と名乗っていた頃、ある祝いの会でいただいた替紋の向い藤菱入り名刺入れは僕の宝物です。「お祭り」は山王祭に取材する清元の舞踊、先ごろ亡くなった18世勘三郎に捧げられています。次男の七之助が成長著しく、その美しさは「熊谷陣屋」の相模・玉三郎を脅かさんばかり――とはいえ、勘三郎の孫で2歳の七緒八君にみな食われてしまったのでした。

● 2013-22.
国立西洋美術館
「ラファエロ」( 4 月 7 日)


 イタリア・ルネッサンスを代表する画家ラファエロの最高傑作とされる「大公の聖母」が遂に日本へ――「ルネサンスのグラツィア、 500 年目の初来日 !! 」です。じっと聖母の顔を眺めてみましょう。この女性がそっと抱きかかえる赤ちゃんを、ただ一人で生んだというのは絶対に本当のことなのだと思えてくるでしょう。 30 年ほど前科学調査が行なわれ、この作品がスポルヴェロ法により描かれていることが明らかになりました。下絵の輪郭線に沿って、ピンで細かい穴を開け、それを画面の上に置き、上から木炭粉や他の顔料を詰めた布袋でたたくと、輪郭が点線となって転写されます。あとはそれにしたがって描いていけばよいのです。我が法隆寺金堂壁画の念紙法とよく似た発想です。人間は同じようなことを考えつく動物らしい。もっとも美術における科学調査というものを、僕はあまり信用していないのですが、いくら目を凝らして画面を見ても、その点線は見えませんでした。

● 2013-21.
ネコの話 梅尭臣「猫を祭る」 ( 4 月1日)


 ネコも北宋の詩人・梅尭臣も僕の愛するところです。そこで『中国詩人選集』第二集<3>から、例によって僕の戯訳で ……

 五白というネコ飼ってから 本は鼠にかじられず。
 だが今朝五白は死んじゃった ご飯と魚をそなえたよ。
 水葬に付し心籠め 彼女の冥福いのったよ。
 かつて鼠をつかまえて 鳴きつつ庭をぐるぐると……。
 ほかの鼠もおどかして 追っ払おうとしたんだろう。
 オイラの舟に乗り込んで 来た時いらい夫婦のよう。
 貴重な乾飯 [ かれいい ] ネズ公の 残飯食わずにすんだのも、
 彼女の働きあればこそ !  鶏や豚にもまさりたり。
 馬車は楽ちん ! 人は言う 馬やロバなら役立つと。
 分かっちゃないなと笑いつつ 哀悼の意を捧げよう。

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 3月 (14~20)

● 2013-20.
「特輯 文人画と南画 花鳥画篇」(『國華』 1409 号)( 3 月 20 日)


 夕方仕事を終えたあと、『江戸名作画帖全集』や『新潮美術文庫』、あるいは展覧会カタログのなかから、文人画関係の一冊を適当に選んで盃を傾ければ、すぐに豊かなアジア世界と至福の一時が生まれます。文人画には琳派のような華やかさも、奇想派のようなおもしろさも、浮世絵のようなポピュラリティーもありません。したがって、いま文人画は人気がありません。また賛が難しい。テクニックもせいぜいヘタウマというところです。なじみのない中国の人物や風景が多いことも、とくにこの頃はマイナスでしょう。でも何とか広く親しんでもらいたいと思い、やってきた一つが『國華』の文人画・南画特輯号です。この「花鳥画篇」はその 4 冊目、まず図版を見てください。僕の巻頭論文なんか読む必要はありません。もっとも僕は、國華を退いたあと東海道線の老人席で、「うん、我ながらよく書けている !! 」と思いつつ熟読していたら、藤沢まで乗り過ごしてしまいましたが……。

● 2013-19.
神奈川県立近代美術館
鎌倉「現代への扉 実験工房展 戦後芸術を切り拓く」 < 3 月 24 日まで> ( 3 月 17 日)


 実験工房―― 1951 年から 57 年まで、戦後のアート・シーンを駆け抜けた前衛芸術家たちの集団と僕との接点といえば、 1970 年の大阪万博です。そこには明るい未来と前衛性のハイブリッドがありました。山口勝弘をはじめ、かつての実験工房のメンバーが多くこれに参加していたのですが、それは彼らに社会が追いついたことを意味するのです。さて今回、一番興味を引いたのは 1951 年の「北斎」でした。実験工房のリーダーともいうべき瀧口修造が脚本を書き、武満徹が音楽を担当した美術映画です。結局これは、勅使河原宏の第一回監督作品として 2 年後に完成するのですが……。かつて『北斎と葛飾派』<日本の美術 367 >を書いた際、たまたまこのことを知ったのですが、会場で北斎の落款をタイトルにしたガリ版刷りのシナリオと、瀧口がプロデューサー手塚益雄と写ったプリントを見たとき、そのまま完成していたらどんな作品になったんだろうなぁと、改めて思ったことでした。

● 2013-18.
国立能楽堂
特別講座「描き伝えた芸能」
同資料展示室「野上記念法政大学能楽研究所設立 60周年記念共催 収蔵資料展」< 3 月 20 日まで>( 3 月 15 日)


 先年、わんや書店社主・江島伊兵衛さんの愛蔵品「古狂言後素帖」が、西野春雄さんにより『国立能楽堂調査研究』 6 号に紹介されました。一連と思われる狂言図はいくつか知られていたのですが、このアルバムには実に 110 図も収められているのです。それが公開され、併せてシンポジウムが開かれることになりました。僕にもお呼びがかかったのですが、聞いてみると相方は西野さんと山路興造さん――ちょっとビビリましたが、厚かましくも参加させてもらうことにしました。西野さんは愛用する『能・狂言事典』の編者、ぜひ直接お会いしたかったし、かつて芸能史研究会のシンポジウムで示唆を受けた山路さんには、お訊きしたいことがあったかったからです。僕は「古狂言後素帖」の絵画史的意義についてしゃべったのですが、内容たるや慙愧に耐えず……。しかし、参加してやはりよかった。終了後、狂言「腹不立」と能「善知鳥」を鑑賞する機会が与えられたからです。
 以前にもお許しを請いましたが、この「つぶやき」では、鬼籍に入った方のみ「先生」とお呼びすることにしています。

● 2013-17.
サントリー美術館
「歌舞伎座新開場記念展 歌舞伎 江戸の芝居小屋」< 3 月 31 日まで> ( 3 月 13 日)


 新歌舞伎座は明治 22 年開場の第一期から数えて第五期、歴代の建物の写真が出ています。興味深いのは第一期で、外観は洋風、内部は日本風、しかも天井からはシャンデリアが吊り下げられていたというのです。和洋折衷、よく言えば和魂洋才ということになりますが、同じ年に誕生した帝国憲法、東京美術学校、帝国博物館、そして我が『國華』も、みな相似た性格に彩られています。カタログの表紙は徳川美術館の「歌舞伎図巻」、重要文化財に指定されたときその委員を仰せつかっていたので、忘れがたい作品です。出雲の阿国のフォロアーであった采女が、舞台上で見得を切る姿がアップされていますが、首には南蛮渡来のロザリオがかけられています。よく紹介されるシーンですが、特筆すべきはロザリオの実物が脇に展示されている点です。無原罪のマリアやモノグラムがガラス越しにも観察されますが、こういうものをファッションのアイテムなどにしてよいものでしょうか?

● 2013-16.
山種美術館
「琳派から日本画へ――和歌のこころ・絵のこころ――」 < 3 月 31 日まで> ( 3 月 11 日)


 ポイントは「和歌のこころ」という副題にあります。会場に入ると、まず光悦書・宗達画の「蓮下絵百人一首和歌巻」――その慈円の一首が迎えてくれるという演出がニクイ。その副題に導かれて、私見をぶっちゃければ、和歌と下絵の間には密接な関係があるのだ !! ということになります。百人一首のもとになった「百人秀歌」が二首一対になっているのに対し、百人一首は年代順になっています。つまり蓮の一生を描いた金銀泥下絵と、その上に書かれた百人一首は、時の流れに沿い右から左へ展開する点で呼応しているのです。百人一首を部立からみると、恋歌が 43 首で最も多いのですが、内容的に恋歌とみなされるものを考えれば、半数が恋歌ということになります。その下絵として、恋の隠喩である蓮はぴったりです。それにもかかわらず、百人一首のなかには、蓮を詠み込んだものが一首もありません。両者はすぐれた匂付け的関係に結ばれ、ベタ付けには陥っていないのです。

● 2013-15.
横浜美術館
「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」 < 3 月 24 日まで>( 3 月 9 日)


 横浜美術館協力会講演のあとギャラリーへ。やはりキャパといえば「崩れ落ちる兵士」、これが発表された 1937 年 7 月 12 日号の『ライフ』も展示されていました。< ROBERT CAP ’ S CAMERA CATCHES A SPANISH SOLDIER THE INSTANT HE IS DROPPED BY A BULLET THROUGH THE HEAD IN FRONT OF CORDOVA >というキャプションが添えられています。記事のタイトルは< DEATH IN SPAIN THE CIVIL WAR HAS TAKEN 500,000 LIVES IN ONE YEAR >。ところが対向ページには、僕も若いころ愛用したヴァイタリスの広告が載っているのです。イケメンの男性モデルを大写しにし、これを使った整髪法を説明、最後は< VAITARIS AND THE “ 60-SECOND WORKOUT ” HELPS KEEP HAIR HEALTHY AND HANDSOME >とゴシックで結んでいます。偶然の皮肉ともいうべき両者のコントラストを前に、今の日本で僕のいるのがヴァイタリスの側であることに忸怩たるものを感じながら、静かに会場をあとにしたことでした。

● 2013-14.
三重県立美術館
「開館 30 周年 コレクションの全貌展」< 3 月 24 日まで>( 3 月 6 日)


 大船から「踊り子」に乗ると辻惟雄さんとバッタリ、小田原から「ひかり」へ乗り換えれば、雪化粧の霊峰富士が車窓に迫ってくる感じです。会議のあとギャラリーへ。東京国立文化財研究所時代の先輩である陰里哲郎さんが初代館長となって以来、 30 年間の質量にわたる充実振りには頭が下がります。そのなかで特にすばらしかったのは、青木夙夜の「富嶽図」でした。先生にあたる池大雅が、富士ばかりを描いた 12 幅対の一点をもとにした作品ですが、夙夜の繊細な感覚が画面の隅々にまで行きわたり、とても気持ちのよい一幅に仕上がっています。これを女性的美質などと言うと怒られるかもしれませんが、いかにも男性的な大雅と対照的です。また表装が画と大変よくマッチしています。しかし今日とくに強い印象を受けたのは、やはり富士の雄姿を仰いだすぐあとであったからでしょう。それはともかく、再来年度は我らが館も開館 20 周年、今から準備を始めなければなりません。

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 2月 (8~13)

● 2013-13.
板橋区立美術館
「こんなものまであったんだ !?  狩野派以外も大賑わい」 < 3 月 24 日まで>( 2 月 25 日)


 『國華』編集を終えたあと、辻さん、小林さんと一緒にタクシーで板橋区立美術館へ。ご存知 !! 安村敏信さんが、 30 年以上の歳月をかけ、独自の審美眼で集めたのが板橋近世絵画大コレクションです。中心をなすのは江戸狩野ですが、それ以外も名品、珍品、話題作に満ちています。「我ら明清親衛隊」に続く第二弾は、住吉派から江戸琳派、文晁派、肉筆浮世絵まで、文字通りの大賑わいですが、通奏低音のように安村美学が流れている点に打たれます。柴田是真コーナーも見事で、安村さんのブッチャケ・ギャラリートークでもとくに熱が入っていました。トークが終われば、この 3 月定年となる安村さんを囲んでの大パーティ、明るい人柄を反映してか異常な盛り上がりです。酒豪がたくさん集まるので、持込み大歓迎と案内状に書いてありましたので、僕も名醸?ドイツワインを下げて行きました。しかし痛飲したのは、誰の持込か知りませんが、わが由利本荘の「雪の茅舎」でした。

● 2013-12.
秋田県立近代美術館
「美術館の眼Ⅵ 10年間の収集記録 2004-2013 」(後期)< 4月 14日まで>( 2 月 21 日)


 内藤湖南は秋田毛馬内が生んだ傑物東洋史学者です。新聞記者として出発しましたが、 1899 年中国に遊んでからその研究に没頭、 1909 年には京都帝国大学の教授となって東洋史学を講じ、多くのすぐれた著作を遺しました。それを読むと、広やかな視野に羨望を覚えてしまうほどです。あふれる滋味は、チャイナ趣味によって培われたものでしょう。若干の事実誤認など問題にもなりません。かつて日中春画比較論を書いたとき、僕は湖南の中国文化ニガリ説の引用から始めたものでした。先日アップした前期展に続くこの後期展も魅力的ですが、僕がもっとも惹かれたのは湖南自詠五律の書幅、前の李賀と同じように、戯訳で紹介しておきましょう。現物は是非この企画展で !!

 青雲の望みもあったのに 悲喜はこもごも麻のごと
 むなしく夢見た崑崙山 いかだ浮かべた江も一瞬
 懐かし !! 秋田 !! 秋ふけて あま行く雁に思い出す
 いつか駿馬に打ち乗って 万里の砂漠を越え行かん

● 2013-11.
九州国立博物館
「フィンランド・クレスコレクション 江戸の粋 印籠」
大宰府天満宮
「フィンランド・テキスタイルアート 季節が織りなす光と影」 <共に3月10日まで>( 2 月 11 日)


 開催中のボストン美術館至宝展にちなむ講演を終えたあと、横手出身の畑さんに案内を乞い、トピック展示の印籠を堪能しました。ビジネスから身を引き、印籠の収集研究に情熱を捧げつくすクレス夫妻が、「日本人は小さいものにおいて偉大である」というチェンバレンの言葉を、改めて実感させてくれたことでした。そのあと天満宮へ。東大時代の学生で、今は権宮司として活躍する西高辻さんと、学芸員のアンダーソンさんの解説を聞きながら、文書館の大床を飾るマリメッコのプリントや、宝物殿のドラ・ユングの織りを賞味しました。石本藤雄さんがマリメッコで創造的仕事を続けているのもうれしい限りです。初めて会ったアンダーソンさんはカナダの方と結ばれた日本女性――僕はカナダに行ったことがないのですが、きっとすばらしい国でしょう。今もよくギターを抱えて口ずさむ、イアン&シルヴィアの「フォーストロングウィンズ」のような美しい曲を生んだ国なのですから。

● 2013-10.
東京国立博物館
東洋館リニューアルオープン展( 2 月 7 日)


 東博東洋館は谷口吉郎の傑作です。開館は 1969 年、大学院に入り日本美術史で飯を食っていこうと臍を固めていた僕は、もちろん開館展を見に行きましたが、まず建築に感動しました。渡辺仁の本館、片山東熊の表慶館に対し、軽やかな日本的モダニティを際立たせながら、しかもみごとなハーモニーを奏でているのです。あの大きな楡の木の下に座って見渡たすとき、それが一番よく感じ取れるでしょう。しかし、館員の方々に聞くと評判がよくない――階段で結ばれているため、作品を陳列するとき使いにくいというのです。たとえ不便でも、美しき建築には人間の方がひれ伏すべきだというのが僕の考えですが、今回新たにエレベーターが付け加えられ、この問題も解決されました。その建築年代を考えれば、耐震性が不足していたのも止むを得ないところですが、これも補強されたそうです。コレクションの質と量は今さら言う必要もありません。さぁ、新装開店?の東博東洋館へ !!

● 2013-9.
逗子文化プラザ
能狂言公演「仕舞・羽衣 狂言・節分 能・隅田川」( 2 月 3 日)


 今日に因んだ狂言「節分」が実によかった。夫の留守をまもる人妻に鬼が言い寄るのですが、人妻に裏をかかれて見事失敗するという筋で、ちょっとセクシーなのです。夢幻能には上品なエロティシズムを感じることがありますが、狂言では珍しいでしょう。また鬼の歌う小歌が中世歌謡そのままだそうで、きっと『閑吟集』もあんな風に謡われていたに違いありません。観世元雅の代表作「隅田川」には、改めて感を深くしました。歌舞伎でおなじみの隅田川物のオリジンですが、現在ではこれを教会劇に仕立てた「カーリュー・リヴァー」の方がよく知られているかも? さて今回、真のシテは梅若丸を演じた子方の小島壮大君だったかもしれません。シテをつとめた柴田稔さんが指導している逗子こども能の参加者で、小学一年生、そのすばらしい声がなぎさホールいっぱいに響き渡ったことでした。子供はつねに無限の可能性を秘めている――これを大人は心に刻まねばなりません。

● 2013-8.
東京国立博物館
「書聖 王羲之」< 3 月 3 日まで>( 2 月 1 日)


 みな頭を垂れ、忸怩たるものを感じながらため息をついている感じです。今からちょうど 1660 年前、この特別展の最終日にあたる 3 月 3 日、紹興酒で有名な紹興は会稽山のふもとにある蘭亭に、書聖以下 42 人が集まりました。そして流れを前に詩を詠むという風流な遊びをやったのですが、一首もできず、罰酒を飲まされた人が 15 人もいたというのが愉快です。わざと作らなかったのだろうなどと言うヤツもいますが。この「蘭亭曲水」は非常に好まれた画題で、我が秋田の本郷家には平福穂庵の優品があったそうです。そのときの記録が「蘭亭集」、その序文こそ書聖の最高傑作としてあまりにも有名です。書聖はまず一枚を書き、そのあと何枚も清書を試みましたが、結局最初の一枚が一番よくできていたので、それを残したそうです。天才とはそういうものらしく、平岡正明の『山口百恵は菩薩である』によれば、百恵ちゃんもつねにファーストテークが最もすばらしかったそうです。

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 1月 (1~7)

● 2013-7.
東京都美術館
「エル・グレコ展」< 4 月 7 日まで>( 1 月 30 日)


 「スペインから世界から待ちわびた傑作が東京に」というキャッチコピーに嘘偽りはありません。しかしグレコと共に感動したのは「ジュニアプログラム」です。子供たちのために分かりやすく面白い解説チャートを所々に用意し、ボードを貸し出して自由に模写することを勧めているのです。 2006 年、僕はスペインのサラマンカ大学とマドリッド自治大学で日本美術史の講義講演を行なったのですが、そのときプラド美術館で見た光景を思い出していました。本展に縮写が出ているグレコの「受胎告知」の前に、 25 人くらいの幼稚園児が座って、学芸員の説明を聞いているのです。僕が後ろの方で見ていると、話はそっちのけで、「チノ、チノ」と騒いでいる子もいましたが……。ソフィア王妃芸術センターの「ゲルニカ」の前でも見かけました。何とすばらしいことでしょう。我が館でセカンドスクールを開くときは、理解を求める張り紙を出さないと、すぐクレームが出てしまうのですが。

● 2013-6.
出光美術館
「中近東文化センター改修記念 オリエントの美術」〈3月24日まで〉 ( 1月 17日)


 出光美術館はオリエント美術でも輝いています。出光佐三初代館長の慧眼と、イスラム陶器の第一人者であった三上次男先生の情熱のお蔭です。いつもは中近東文化センターに陳列される名品を、美術館で公開するという 34 年ぶりの特別展です !!  会場を巡りながら、僕は日本人の美意識ととても近いものを感じたのでした。ペルシア伝来の白瑠璃碗が、正倉院御物となっている事実は、両者の等質性を何よりもよく物語っています。さらに僕は、エジプト美術にも同様の感覚を改めて覚えたのです。紀元前 7 世紀の「朱鷺の像」は、桂離宮の書院に飾っても、何ら違和感がないでしょう。だからこそ僕は、古代エジプト美術は東洋美術だ、『國華』でも取り上げるべきだと主張し続けているのです――孤立無援ながら。それはともかく、日本も古代エジプトも農耕社会であり、多神教であり、母系中心主義でした。美意識の等質性にはよって来たる理由があった――これが私見なのですが……。

● 2013-5.
東京国立博物館
「飛騨の円空――千光寺とその周辺の足跡」< 4 月 7 日まで>( 1月 15日)


 江戸時代が生んだ天才的仏師です。本来人間がもっていた純粋無垢なる感覚を呼び覚ましてくれます。だからこそ、カタログの写真もモノクロの方がずっといいのです。日本美術は縄文的美と弥生的美の二大潮流から成り立っているという谷川徹三の説に従うなら、円空はぜったい縄文的美です。『國華』創刊 120 周年記念展「対決 巨匠たちの日本美術」を開催した時、「円空 vs 木喰」は欠くべからざる対決でしたが、個人的にはやはり円空だと思ったものでした。今日は休館日でしたが、買取協議会のあと鑑賞の機会が与えられ、会場におもむくと、ちょうど前田恭二さんが撮影に立ち会っていました。東大時代の学生で、卒業後、この特別展の主催者でもある読売新聞社に入り、美術記者として活躍中、エスプリの利いた文章を読んだ方も多いことでしょう。しばらくぶりの感動と、名古屋大学時代、円空で渦中の人となったほろ苦い思い出とともに、雪道を上野駅に向かったことでした。

● 2013-4.
美術館初出勤とニュージーランド・ダニーデン( 1 月 12 日)


 ANA 機内誌『翼の王国』 1 月号の特集はダニーデン、バードウォッチングで有名な南島の町です。 1991 年秋「在新西蘭日本美術品調査」に参加したのですが、まず訪問したのがこの町でした。北海道の小樽と姉妹都市に結ばれているところから生れた計画だったからです。僕にとって南半球もホームスティも初めてでした。興奮するなという方が無理でしょう。先日登場の竹内順一さんを団長に、総勢 6 人、 2 週間にわたる調査旅行でした。多くの美術史的収穫があったことは言うまでもありません。しかし初体験の南十字星や黄目ペンギン、みやげに求めた女性陶芸家ブライトさんのチーズ皿、戦時中日本から陶器が入らなくなったためダニーデンで焼いたという小皿といった思い出の方が、特集記事と共に、まずよみがえってきたことでした。ところがその時、機長直々の機内放送が流れたのです !! 「秋田空港は雪のため着陸不能につき、これから羽田空港へ引き返すことに決定いたしました」。

● 2013-3.
李賀の詩 ( 1 月 6 日)


 お正月は盃を片手に『中国詩人選集』 14 を繰りながら、大好きな中唐の詩人・李賀を堪能して過ごしました。インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗り合いバスで行くことを思い立った 26 歳の沢木耕太郎が、ザックに突っ込んだ本は 3 冊だけ――西南アジアに関する歴史書と星座の概説書、そしてこの李賀詩集でした。かつて『深夜特急』を読んでいてそれを知ったとき、この作家に対する尊敬と共感が急に高まるのを覚えたものでした。正月にちなみ、「河南府試 十二月楽辞」は「正月」の戯訳を、恥ずかしながらつぶやくことにしましょう。選集訳注者の荒井健さんは伏せていますが、ほとんど艶詩のようです。

 高楼に 登って春を 迎えれば 柳は黄緑 時間は緩慢
 ごく淡い 靄が野原に 立ち込めて 垂枝短く 寒風にそよぐ
 美しき ベッドに横とう 玉の肌 暁明けるも 瞼は開かず
 若すぎて 折るに忍びず 大路の柳 五月に菖蒲と 葺けるだろうか?

● 2013-2.
秋田県立近代美術館
「館長のつぶやき」 たくさんのアクセスありがとう !! ( 1 月 5 日)


 代表して三人の方に登場願いましょう。絵メール画家の梅本到さんは、開設された 2011 年春以来の愛読者です。その頃はエッセー風のつぶやきと、日記風のフットステップに分けていたのですが、後者は一週間分ほどを固め書きせざるを得なかったため、前者も遅れ気味になってしまいました。そのとき今の形を提案してくれたのが梅本さんでした。スーパーブロガー中村剛士さんは、「弐代目・青い日記帳」で僕の講演を何度か取り上げてくれましたが、去年の末には「館長のつぶやき」を大々的にアップしてくれました。開館したばかりの我が館デジタルアーカイブを激賞してくれたことも感激でした。永青文庫館長・竹内順一さんは、 2012 年ベスト 8 を選び、短評を添えてくれました。例えば 1 位は「 KATAGAMI 展」で、「適確な型紙の説明と河野リバティ土産の距離感が出色」と。一緒にいただいた館長エッセーは、僕のと違って格調高く、鵜の真似は……と思いつつ読了したことでした。

● 2013-1.
秋田県立近代美術館
「美術館の眼Ⅵ  10 年間の収集記録 2004 - 2013 」 前期
< 2013 年 2 月 3 日まで>( 1 月 1 日)


 明けましておめでどうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
 僕が顧問を依頼されたのが 2004 年、まさに時空が重なる展覧会です。どの作品もみな愛おしいのですが、何といっても一番は秋田が誇る画家・寺崎広業の「瀟湘八景」八幅対です。 1912 年第 6 回文展の出品作、広業の最高傑作とたたえてよいでしょう。その 2 年前、広業は横山大観や山岡米華とともに中国旅行へ出かけました。そのときの印象と、北宋以来の八景伝統をハイブリッドにして生れた作品です。前に立つと、思わず「いいなぁ」と口からもれてしまいます。しかし一般的には、評判がよくありません。同じ文展に、同じ主題を同じ八幅対に描いて大観が出品したのですが、これを見た夏目漱石が、「八景よいや」と相撲の取組みに見立てた批評を書き、○大観×●広業としてしまったからです。根岸派の漱石に対し、秋田派の僕はいつも、「広業だって負けてはいない !!  引き分けとすべきだ !! 」と大声でつぶやいているのですが、やはり漱石の方が僕より影響力が強いようです。(笑)