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過去のおしゃべり(名誉館長)


 
  2015年(平成27年)のおしゃべり 
 
12月 11月 10月
9月 8月 7月
6月 5月 4月
3月 2月 1月
  

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 11月 (42・最終回)

● 2015-42.
琳派400年記念 古典の日フォーラム2015・パネルディスカッション
「琳派とジャポニスム」(京都国際会館 11月1日)
琳派400年記念 国際シンポジウム・パネルトーク「世界がたたえる琳派の美」(京都国際会館 11月2日)


 琳派400年記念祭も、いよいよクライマックスを迎えました。1日のフォーラムは茂山逸平さんの狂言「鳴神」から始まり、第7回古典の日朗読コンテスト大賞受賞者による作品朗読へと進みました。続いて「ぶらぶら美術館」でおなじみの山田五郎さんが「冷酒と古典は後で効く」、彬子女王殿下が「海外で学ぶ古典の心」と題して講演、藤原紀香さんが「日本の美宣言」を読み上げたあと、パネルディスカッションの開始です。僕がコーディネーターということになっているのですが、彬子女王が発表される上、聴講者が2000人というのですから、柄にもなくちょっと緊張したことでした。高階秀爾さんはフランスを代表するジャポニザンのルイ・ゴンスと尾形光琳の関係について、女王殿下は日本海軍の招きで来日したイギリス人医者であるウィリアム・アンダーソンの『日本美術全書』における琳派評価について、山田五郎さんはウィーン・ジャポニスムを代表する画家グスタフ・クリムトについて発表しました。これに基づいて、美術と工芸の関係という観点から話し合ったあと、高階さんは本阿弥光悦・俵屋宗達の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を、女王殿下は鈴木其一の「青桐・紅葉図」を、山田さんは尾形光琳の「燕子花図屏風」を挙げながら、「私の好きな琳派 この一作」として選んだ理由をお話し下さいました。最後に5分でまとめるというのが僕の役目でしたが、これだけ豊富な内容を、うまくまとめられるはずもありません。しかし、ともかくも時間通りに終えることができてホッとしました。翌日は東儀秀樹さんの雅楽演奏に続いて、呼びかけ人代表・芳賀徹さんの挨拶、クリストフ・マルケさん、ジョン・カーペンターさんら4人の連続講演が行なわれました。そのあと芳賀徹さん、山下裕二さんとのトークとなりましたが、時間が大幅に押してしまったため、司会の僕は口にチャックをしたことでした。

 長い間「おしゃべり館長」「おしゃべり名誉館長」を愛読していただきありがとうございました! これにて中締め、いつかまたどこかでお会いしましょう!!

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 10月 (40、41)

● 2015-41.
京都国立博物館
「琳派 京を彩る」<11月23日まで>開幕(10月9日・10日)


 遂にこの日!! 9日は10:00から記者発表――その場で配られた分厚いカタログは恐る恐る開きました。僕は「琳派私的旅行」と題して、調査旅行や拙文執筆の想い出を書いたのですが、このような展覧会の図録にふさわしかったかどうか、急に心配になったからです。しかし一緒に監修をつとめた奥平俊六さんや中部義隆さん、本展担当の福士雄也さんが優れた論文を寄稿しています。それに免じて許してもらうとともに、「俺に言われたのは論文じゃない、巻頭エッセーだ」と居直ることにしました。宗達・光琳の前で主催する日本経済新聞社の取材を受けたあと、14:00からは開会式、京都府知事、京都市長が相次いで祝辞を読み上げました。京博特別展の開会式では稀有なことだそうです。お二人に挨拶にうかがった際、オール京都でやると約束して下さいましたが、嘘ではありませんでした。アメリカの旅行雑誌で、京都は2年連続魅力的な都市の一位に選ばれ、外国からのお客さんであふれかえっています。観光の合間に、日本美の象徴である琳派の名品を是非堪能して欲しいものと思いました。日本人はもちろんです。15:30からはコシノ・ジュンコさんによるファッション・ショー「琳派の宴」です。琳派の能的美に魅了されたコシノさんは、それをファッションに昇華させ、20人のモデルを使って表現したのです。観世流シテ方・分林道治さんが演出した能「風神雷神」とのすばらしいハイブリッドが、平成知新館のコンコースに吸い寄せられた観客を、感動させて止むことがありません。19:30からは、トイメンのハイアット・リージェンシーでディナー、「月の桂」の特別琳派ヴァージョンが最高の気分にしてくれました。10日は午後から河野トーク「くらしを彩る琳派の美」、山川暁さんの紹介に気をよくして、日本の美術は生活美術であることを『源氏物語』からやっていたら、またまた時間切れになったことでした。


● 2015-40.
出光美術館
「躍動と回帰――桃山の美術」<10月12日まで>(10月5日)


 僕が興味深く感じたのは第1章「『後ろ向き』の創造」、カタログには次のように書かれています。「世界的な造形の物差しからすれば<負の要素>ともいえる『歪み』『割れ』『染み』などが美の要素として地位を獲得していることこそ、日本のやきものを彩る、大きな特徴といえるだろう」。その通りです。しかし「一大転機」であることを重視して、これを桃山バロックと見ることもできるでしょう。バロックとは、十六世紀末から十八世紀初めにかけ、ヨーロッパを席巻した芸術様式です。スペイン語やポルトガル語でいびつな真珠を「バローコ」と呼ぶのですが、これに由来するといわれています。端正に整った古典主義的なルネッサンス建築に対し、その後はやった曲線構成の多い装飾的建築をさげすむ言葉としてはじめ使われ、同じ意味で彫刻や絵画にも適用されました。しかし十九世紀の終りころ、バロック芸術に再評価の光が当てられるようになり、ルネッサンス芸術とは異なる、独自の価値を有するものと見なされるようになったのです。このようなバロック美術と桃山美術の間には、明らかに響きあう美意識が存在します。そもそも「歪み」とは、バローコそのものではありませんか。かつて僕は桃山絵画バロック論を書いたことがあるのですが、もちろんバロック美術論の古典的名著であるハインリッヒ・ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』を取り上げました。この素晴らしい翻訳は、慶応大学の守屋謙二先生によってなされましたが、河合正朝さんと一緒にギャラリーを回りながら私論をつぶやくと、守屋先生も常々「桃山はバロックだ」とおっしゃっていたというではありませんか。河合さんは守屋先生に長いあいだ親しく接したお弟子さんです。「私論は実証された!!」と、僕は小躍りしたい気持ちになりました。バロック論の碩学が断言されたわけですから、毫も間違いなどあるはずがありません!?

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 9月 (37~39)

● 2015-39.
三重県立美術館
「20世紀日本美術再見 1940年代」<9月27日まで>(9月6日)


 再度、秦テルヲの「戦中絵日記」から、ダリアを写生する一葉の文章を、このたびは私意を少し交えつつ、紹介することにしましょう。

 闘病五年再起不能。是れ基[もと]誤診に因る。是れ我が不運。今日猶生命在り。是れ亦々運命在り。人間万事是くの如し。最近時毎日小画作る。病魂狂妄慰撫、暫時の苦悩脱す。時々刻々悪夢に追われ、迷妄亦迷妄を生ず。枯骨露呈、衰弱日々増す。神経?々悪鬼に追われ、毒舌日々増長す。妻女の恩、天地の恵み覚[さと]らず。一瞬の怒狂到り、前後左右を覚らず。唯空言狂語、是れ無分別・無反省に非ず。日日夜夜、邪悪食誡め、誡め破れば自縄自縛。四肢冷々、全身浮腫、戦事奇病の好型也。然して今日生死流転を覚らず。時世相生じて、餓鬼道、自己の骨肉喰い、国乱れ行く。一日の余生盗みて、天地に恥じず。其の罪、血池地獄の大苦也。宜乎[むべなるかな]、日日夜夜の苦悩狂態。最近、沖縄敵軍占領、我が軍司令官切腹の悲報有り。日夜敵飛行機、我が枕頭を見舞う如く飛翔。警報亦警報有り。日夜増々悪夢迷妄怒涛の如く狂乱す。国家の前途を空想して、苦悩増大、心身を破滅に導くのみ也。然も凡愚の落つる所、如何とも成し難し。迷妄は迷妄を生じ、暗澹亦闇黒也。
 娘恭仁子、今日新花を卓上に挿し、我を慰安せんとす。ギヤマンの花瓶、古渡の香、天竺牡丹の形像、亦和蘭風に調和す。一日の生を盗む我が心も永生に似たり。花語らず、人形亦笑わず、然も我が心を慰撫するに似たり。嗚呼今日一日平安に、今日一日平安に、静かに、静かに。
 昭和二十年七月九日 警報下に写生す 五十九歳 病骨を咤して 秦テルヲ<漂>


● 2015-38.
三重県立美術館
「20世紀日本美術再見 1940年代」<9月27日まで>(9月6日)


 日本美術史でもっともおもしろいのは転換期の時代、例えば藤末鎌初、寛永時代、幕末明治です。それにもまさる転換期が1945年を含む40年代、これに焦点を合わせた刺激的な特別展です。その1945年に没した個性的日本画家・秦テルヲの「戦中絵日記」から、カボチャ花と蝶を描く一葉の一部を、田中善明さんによって紹介することにしましょう。

今更悔も及ばぬ 今日も此頃の日常 阿修羅狂闘 日に夜に絶江ず 嗚呼餓鬼道畜生道 悪鬼狂舞の渦の中一刹那の盗生に なほ万年の壽を望む乎 南瓜の花の視て美しさを談られ心より其自然の偉大なるに今更に驚きたる吾心は幸なる哉 唯是幸を 余生の解らぬこの吾が骨を導いて呉れよ 實に有難い発見である ただ感謝の他何の術もないただこの心を 永く遠く冥府迄持て行く様に嗚呼唯嗚呼より外なし 不思議な白い花 南瓜に似て南瓜にあらず フト吾其上に乗り天空を仰ぎ太陽を探し視んとす 黒き影 敵機来襲よ とそれ美しい蝶の吾乗る花に慕い来るやさしい羽音に変り来ぬ 昔荘子夢に蝶となり恣々乎として自適せしよし今吾コノ蝶と語る 嗚呼何たる幸福ぞ

城南瓶原の夢 警報下 昭和二十年初夏テルヲ記(印)

其頃は世を挙げて好況金力 横行対戦の盗資に酔狂して 居た都市を城南肥嗅に親しみ 南都に古跡を探りて古聖に談り 家にハ順従なる妻と三児在り まだ暗きに起出て古言を讀 聞かせ夜更ても妻をモデルに筆を走らせ 耕したものを食い 奈良よりは食糧を購入 贅食富豪と異ならず 否な世の富者以上の幸を 日日身に心にうけし事 今その夢を 追ふ人間の愚痴迷妄亦笑可し


● 2015-37.
京都新聞
「サロン クワトロ」(9月4日)


 京都新聞の求めに応じて、3人の学長と輪番で、月に一度エッセーを書いています。この間はネコについて書いたのですが、我が秋田県立近代美術館で開いた岩合光昭さんのネコ写真展の話から始めました。その結論部分を、僕の下書きから引用しておくことにしましょう。

 どう見ても、今や人気の点でイヌはネコに適わない。しかし僕が子供のころ、こんなことはなかった。ネコの人気なんて、イヌの七割にも満たなかったであろう。事実、そのころ我が家でもイヌを飼っていた。日本登山隊がはじめてマナスル踏破に成功した年に生まれた、マナというオスの雑種だった。いつごろイヌとネコの人気は逆転したのだろうか。僕のみるところ、四半世紀ほど前である。『経済白書』が「もはや<戦後>ではない」と宣言した昭和30年代初めから、わが国は高度成長時代に突入した。「24時間戦えますか」といったキャッチコピーが持てはやされるようなこの時代には、イヌの方がふさわしかった。警察犬に麻薬犬、救助犬に盲導犬など、ともかくもイヌは直接役に立つ。ネコとてかつては大役があったのだが、肝心要の鼠がいなくなってしまうと分が悪い。イヌは容姿もバラエティーに富んでいて華やかである。高度成長期の中国でも、より高い人気を誇っているらしい。あるいは忠実で飼い主のしつけをよく守る点も、ジャパン・アズ・ナンバーワンとたたられた、日本式経営万々歳の時代によく馴染んだのかもしれない。しかしエコやユックリズムの低成長時代に入れば、これはネコである。いつも寝てばかりいるからネコというくらいだし、毎日積極的に外界を経験したいとも思わない。人間に強いられるからとはいえ、噛み付き合いや徒競走のような野蛮にして無意味な見世物行為は絶対にしない。こうしてネコは「頑張らない」時代のスターに成長したのである。それは僕の行き方に近い。何といっても、「人生はワンチャンス!」より「人生はニャンとかなる!」である。

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 8月 (34~36)

● 2015-36.
福岡市美術館
「肉筆浮世絵の世界 ――美人画、風俗画、そして春画――」 
<9月20日まで>(8月22日)


 浮世絵師が心を込めて描いた一点物の肉筆浮世絵と版画は車の両輪、すぐれた浮世絵師は二つながらに、みごとな作品を遺してくれました。もっとも懐月堂派や宮川派のように、肉筆浮世絵しか興味をしめさなかった一派もありますが……。肉筆浮世絵の名品・優品を選りすぐったこの特別展を企画したのは、畏友・石田泰弘さんです。石田さんはかつておしゃべりしたことがある東京浮世絵研究会のメンバー、いや、この研究会の発案者なのです。この特別展は高いクオリティーだけでなく、日本の公共美術館ではじめて春画を公開した点でも、大きな話題を呼んでいます。40年以上の付き合いがある石田さんから、河野トークを頼まれれば、いやとはいえません。「美人という夢」と題して、僕の美人論?を披瀝することにしました。わが国において、美人は衣裳美をもって表現されたというのが私見です。容貌や心情の美しさより、まず衣裳のすばらしさだったのです。さらに正確を期すなら、容貌や心情の美は、衣裳によって象徴されたのです。このように言うと、わが国の美人画は女性本来の美をとらえていないのかという反論が予想されますが、けっしてそんなことはありません。両者を分けて考えることは近代的な思考方法であり、近世までの日本ではナンセンスなことだったからです。このような美意識が古くからわが国に根付いていたことは、『源氏物語』が証明してくれますが、「玉鬘」帖の「衣配り」などに象徴的事象が見出せます。もっともここでは衣裳の色目が中心となっていますが……。このような美意識は、近世に入っていよいよ強くなり、中国にもない「誰ヶ袖屏風」のような画題を生み出し、やがて肉筆浮世絵にも受け継がれていくのです。この特別展に引っ掛けていえば、春画においても、本来副次的な要素であるはずの衣裳が、何と異常なる情熱をもって描写されていることでしょうか!?


● 2015-35.
今年の夏休み(8月9日~16日)


 一週間の夏休みを作り、まずは愛して止まぬ不良老人・筒井康隆の勧めにしたがって、朝から一杯やりました。いわゆる卯酒[ぼうしゅ]というヤツです。もともとの意味は卯の刻、今の時間でいえば朝の6時ごろから飲み出す酒のことですが、いくらなんでも早すぎるので、2時間半ほど遅らせました。陶然とすれば、もう卯酒が大好きだった白楽天の気分、岩波文庫の『白楽天詩選』から「酔吟」という七言律詩を、またまた僕の戯訳で……。大和6年(832)、洛陽における61歳の時の作だそうです。文字通り「卯時の酒」という五言詩も素晴らしいのですが、ここで紹介するにはちょっと長すぎます。
 酔えばすべてを忘れちゃう 喉の渇きも空腹も
 きつい衣冠も束帯も 脱ぎ捨てちゃった気分だぜ
 耳元よぎる時の鐘
 胸に残るは朝の酒
 風に吹かれて吟ずれば 通りすがりの人笑う
 雪見たのしみのんびりと 馬のろくたって構やせぬ
 遅刻のわけは皆知らず 真面目すぎたよ前知事は
 疲れは抜けましたが、こころを奮い立たせるため、ゆっくり<日蓮>を読むことにしました。もと同僚だった末木文美士さんの『日蓮入門 現世を撃つ思想』は、日蓮研究の歴史と現在から始まっていて、見取り図を描くのにすごく便利です。日蓮の文章は飛躍と断定に彩られ、それが爽快な気分にしてくれます。それだけに『日本の名著』も参照しなければ、『日本思想体系』だけではとても歯が立ちません。最後に二人で訳注を加えた岩波文庫の『法華経』で〆ることにしましたが、オススメはサンスクリット学者・岩本裕の上巻あとがき、<日蓮>との共鳴も感じられて、ほほえましくなりますよ。


● 2015-34.
対談「ドナルド・キーンvs林屋永吉」
 <日本サラマンカ大学友の会会報『サルマンティーノ』44号>(8月5日)


 サラマンカはスペインの京都とも称すべき古都、サラマンカ大学の創立は1218年、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、パリ大学、ボローニャ大学とともに、世界でもっとも長い歴史を誇る大学です。今上天皇が皇太子時代、美智子妃と訪問されて以来、日本との関係もとくに深まり、現在は両国の文化交流を促進するため日西センターも設置されています。これらを推進されたのが元スペイン大使の林屋永吉さん、その依頼を受けて、僕は2006年2月、2週間ほどここで日本美術史の集中講義を行ないました。そのときの楽しかった思い出は、「初めてのサラマンカ――スペイン人は親切だ」と題して、『サルマンティーノ』24号に書いたことがあります。この会報を発行するのが日本サラマンカ大学友の会で、僕も入れてもらい、以来毎号愛読しているというわけです。その最新号に載るのがこの対談、お二人の年を合わせると190歳というのですから、それだけで感動的ですが、読み進めるうちに、感動はさらに深まります。キーンさんの『源氏物語』との運命的な出会いや、敵国であった日本の文化に対するしなやかな感覚。フィリピンで戦死した大阪外国語学校同級生に対する林屋さんの深い追悼の念。ぜひ一読を勧めたいのですが、「編集後記」も忘れずに――本文では割愛されたキーンさんの言葉が引かれているからです。「今朝、ルクセンブルクにいる私のファンに長い手紙を書きました。私は各国に大勢の友人を持っており、彼らとの付き合いは私にとって大事な活力源の一つになっていると思います。今の若い人たちは、外国と関わりたくない、外国のことを勉強したくないといいますが、私には理解できません」。以上を書き終わったとき、琉球紅型のすぐれた研究者・兒玉絵里子さんから、ドナルド・キーン・センター柏崎への就職が決まったという吉報が入りました。またまたシンクロニシティです!!

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 7月 (30~33)

● 2015-33.
祇園祭後祭り山鉾巡行(7月24日)


 後祭りの山鉾巡行を堪能しました。祇園祭りは貞観11年(869)、疫病退治のために始まり、100年ほどして毎年恒例となったそうです。応仁文明の大乱で中断したものの、町衆によりすぐ復興され、今日に到るまで続く八坂神社の祭礼、日本三大祭りの一つです。最初は神事だったわけですが、今日ここに集まったたくさんの市民や観光客にとっては、もう物見遊山に近くなっています。これこそ宗教を生活化して楽しむ日本文化の素晴らしい伝統ではないでしょうか。だからこそ、洛中洛外図屏風における下京のライトモチーフとなり、やがて独立して祇園祭礼図が生まれ、近世初期風俗画の重要な主題となったのです。9時ちょっと過ぎ、烏丸御池に到着すればすでに用意万端整い、10基の山鉾が出発を待っています。僕は新谷常務夫妻と一緒に、鈴鹿山と歩調を合わせつつ、木陰を選びながら歩道を進むことにしました。この鈴鹿山は10のサポーター?によって維持されていますが、わが二本松学院もそこに加わり、頑張っているところです。祇園祭りが町衆の地口銭で執行されてきたという伝統に連なっていることを、とても誇らしく感じながら、そして熱中症をちょっと心配しながら、配られた「京都マラソン」の団扇をパタパタやりつつ歩いたことでした。昔々、伊勢・鈴鹿山には旅する人々に危害を加える悪い鬼がいましたが、これを退治したのが瀬織津姫尊で、鈴鹿明神として崇められるようになりました。山鉾の鈴鹿山では金の烏帽子を被り、ナギナタをもつ女性の姿でこれを表していますが、松田元の『祇園祭細見 山鉾篇』に興味深い説明がありますよ。今井俊満の原画になる胴懸――桜と紅葉の綴織が夏の太陽にきらめいています。御池河原町で去年復興の大船鉾を見送り、寺町に戻って、舞妓・芸妓さんの花笠巡行に見惚れました。誰ですか、やはり生身の方が女神よりいいなんて言っているのは?


● 2015-32.
京都新聞
「めぐり合う琳派⑩ 杉本家住宅 祇園会屏風飾り展」(7月16日)


 杉本家住宅は5年ほど前、京町屋の代表的遺構として重要文化財に指定されました。祇園会の三日間だけここで屏風飾り展が開かれるとのこと、宗達筆「秋草図屏風」の前で、藤野可織さんと琳派草花図や祇園会について語り合いました。1743年、杉本家は「奈良屋」という屋号のもとに烏丸四条で呉服商を始め、京呉服を仕入れて、関東地方で販売する「他国店持京商人」として大きな成功を収めました。現在の主屋は、1870年に建てられたことが棟札からわかるそうです。この杉本家にお生まれになった杉本秀太郎先生は、国際日本文化研究センター教授、日本芸術院会員として活躍された「京の文人」、我が国最高の知性でした。8年ほど前、國華清話会の特別鑑賞会をここで開かせてもらい、先の「秋草図屏風」をはじめとして、杉本家伝来の名品をじかに拝見いたしました。廊下から差し込む微妙な自然光のなか、心静かに屏風に対すれば、美術館の人工的な光では味わうことのできない、ふくよかな画趣が心に染みわたります。そのとき杉本先生からは貴重なお話を聞き、また江戸時代初期と思われる画質高き「菊図屏風」を『國華』に紹介する許可をいただき、僕がその解説にあたりました。去年の秋、先生は「40年の歳月をかけて綴じあわされた美のフィールド・ノート」として、『見る悦び 形の生態誌』を出版されました。僕も寄稿したことがある美術雑誌『聚美』では、しばしば先生にお会いしていましたが、多くは初めて触れる珠玉の文章、感を深くしながら読了したことでした。琳派にも多くのページが割かれています。とくに宗達の養源院「唐獅子図杉戸」を論じて、中国で盛んに製された「玉取獅子図緞通」との関係を指摘する点に、強い示唆を受けました。挿図の祇園祭「函谷鉾」胴懸もじつに興味深く、かかる素晴らしいお仕事を遺して、この5月27日、杉本先生は白玉楼中の人となられました。
 合掌


● 2015-31.
サントリー美術館
「着想のマエストロ 乾山見参!」<7月20日まで>(7月6日)


 尾形乾山は江戸時代の前期から中期にかけ、おもに京都で活躍した陶工、乾山焼の名はあまりにも有名ですね。5歳上の兄はご存じ!尾形光琳、日本美術史上に燦然たる光を放つ天才兄弟です。もっとも、「河野は誰でも彼でも天才、天才といって持ち上げる」と暗に批判されているようです。前回アップした北大路魯山人は、これを天才連発癖と呼び、「そう言う人は概ね芸術上の理解に乏しい鑑賞の力不十分な人である」と断じていますが、光琳と乾山が天才であることは、だれも否定できない事実でしょう。これまでも乾山展はずいぶん開かれてきました。僕が参加させてもらったものでは、1982年に五島美術館で開催された「乾山の絵画展」があります。このときはカタログにエッセーを書き、講演の機会まで与えられました。名古屋時代の忘れがたき思い出です。今回の特別展では、とくに「文芸・絵画・工芸といったジャンルや、時には国境までも超えてさまざまな要素を結びつけた着想の世界」を浮き上がらせようとしています。「僕の一点」は個人コレクションに収まる「銹絵山水図四方鉢」、1705年の年紀を有する鳴滝時代の傑作です。乾山に興味をもった半世紀前から、一度ぜひ見てみたいと思いつつ所蔵者が分からなかったのですが、夢がようやく叶うことになりました。瀟湘八景的山水の余白に、五言律詩が書かれています。リチャード・ウィルソンさんの研究によると、中国の詞華集『円機活法』に載っている濮陽なる人の詩だそうです。またまた僕の戯訳で……

 雁が列なし飛んでゆく 東西南北いまは秋
 気分高揚 酔いたくも 楼に登れず足弱り
 いずこ眺めん雲の峰 旅愁深める帆掛け船
 渓流 山に沿うのみで 心哀しくなる季節


● 2015-30.
  京都国立近代美術館
「北大路魯山人の美 和食の天才」<8月16日まで>(7月7日)


 稀世の天才です。陶芸家にして書家、画家、篆刻家、漆芸家、料理家、美食家、行くところ可ならざるはなし――というよりも、雁屋哲さんの漫画『美味しんぼ』に登場する海原雄山のモデルとして有名ですね。その作品もさりながら、魯山人はきわめてストレートな言動によっても、人々の記憶に深く刻まれてきました。そこから不遜、傲岸、独尊などと言われるようになったのでしょう。その理由を、数奇なる誕生と幸薄き子供時代に帰そうとする見方もあります。しかし魯山人は、本質的に心優しく、従順であり、調和を大切にする人間だったというのが私見です。これまで何度か見た魯山人展で感じていたことが、この特別展会場を回りながら、確信に変わったのでした。魯山人の生み出した皿、碗、鉢、徳利、猪口のどこに、驕慢や狷介が感じられるというのでしょうか。それらはみな伝統に従順であり、料理と調和し、優しいフォルムをもっているのです。むしろ尖がった個性など、どこにもないと言う方が正しいでしょう。だからこそ、魯山人はみな写しものだなどと、悪口を言われるようにもなったのです。確かに魯山人は毒舌家であり、強く人に当たりました。例えば、平野雅章編『魯山人陶説』(中公文庫)には、河井寛次郎個展に対する批評が二編採録されています。その歯に衣着せぬ物言いに、眉をひそめるのは僕一人ではないでしょうが、傷つきやすい自分と作品を守ろうとする恐怖心から出た「攻撃は最大の防御なり」だったようにも思います。事実、先の平野さんも、『魯山人 うつわの心』(グラフィック社)を著わした黒田和哉さんも、世評とはまったく異なる魯山人の一面を伝えています。ところで僕も魯山人をコレクションし、正月のおせちはこれで祝うことにしています。「糸巻平向」などは、出陳されていた作品より、僕の方がいいくらいです。もっとも僕のは、セットで売り出された複製品ですが!?

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 6月 (29~25)

● 2015-29.
京都新聞
「京都大好きトーク!」取材と健さん愛用のコーヒー店(6月30日)


 「京都新聞」の人気連載に「京都大好きトーク!」があります。そのコンセプトは、「門川大作市長とゲストの“きょうかん対談”」、34回目は木村英智さんと僕にお呼びがかかりました。木村さんは和をテーマに、魚が泳ぐイメージを照明や音響などを駆使して表現する「アートアクアリウム」という独自のジャンルを確立したコンテンポラリー・アーティストです。このたび、京都・フィレンツェ姉妹都市提携50周年記念事業の一つとして、京都伝統産業青年会が作った金魚をライトモチーフにした作品をフィレンツェ市役所に展示しましたが、これも木村さんの監修によるところです。市長さんと木村さんは、ミラノでも開かれた「アートアクアリウム」展から帰国されたばかり、トークは大いに盛り上がりました。さすがの「おしゃべり名誉館長」もタジタジでしたが、わが新東山キャンパスについては、抜かりなく吹聴したことでした。終了後、会場の京都芸術センターを案内してもらいました。1931年に建てられた明倫小学校が、すばらしい総合的芸術センターに生まれ変わっています。皆さんと別れ、歩きながら「イノダコーヒ」三条店へ。4月28日の「朝日新聞」夕刊に、「京ものがたり 高倉健のコーヒーブレイク」という特集記事が載っていたからです。健さんはここのお店が大好きで、多いときは1日に朝晩2回も通ったそうです。健さんが定席としていたという奥の楕円カウンターに陣取り、これまた健さんが愛飲したというオリジナルブレンド「アラビアの真珠」を注文すれば、もう完全に健さんの気分です。寡黙な印象が強い健さんですが、一緒にコーヒーを飲んだ人たちによれば、大変よく話をされたそうです。この点について、30年にわたり健さんを取材した出版プロデューサーの谷充代さんは、「冗舌さの根底にあるのは、秘めた孤独感でしょう」と語っています。じつは「おしゃべり名誉館長」も!?

● 2015-28.
出光美術館
「没後180年 田能村竹田」<8月2日まで>(6月22日)


 「僕の一点」は「考盤図」、天保3年ごろ描かれた掛幅で、書幅と双幅になっています。「考盤」は「考槃」とも書き、隠遁の室を作り、おのれの思うままに楽しみをなすことと、漢和辞典にはあります。文人画の基本理念である自娯と通い合う言葉です。書幅の方は六言絶句、またまた戯訳で……。「村の我が家の周りには 花を育てて竹を植う 朝は毎日茶をたてて お香を焚いて過ごすのさ これが私の一生だ!! 出世の証しの金印を たくさん腰にぶら下げた 蘇秦という奴ァ愚の骨頂」。何という素晴らしい生き方!! 6国の宰相を兼ねた中国・戦国時代の蘇秦がごとき権力者にはなれませんでしたが、結局竹田は誰よりも充実した人生を送ったのです。ここで思い出すのは、吉澤忠先生の名論文「田能村竹田の敗北」です。竹田の岡藩で百姓一揆が起こり、竹田が二度も建言書を提出したにもかかわらず無視され、ついには辞職に到ったことを、先生は「敗北の烙印」と見なします。しかし異なる見方もできるでしょう。建言書提出以前から文人志向が強かったことを考えれば、たとえ建言書が受け入れられたとしても、やがて竹田は初志を貫徹、隠居の道を選んだのではないでしょうか。『大分県の歴史』(県史44)を開いてみると、その後も豊後国の諸藩は財政悪化に苦しめられ、さまざまな改革を試みたにもかかわらず、ほとんど効果を挙げ得なかったことが知られます。竹田が辞職せずに頑張ったとしても、所詮蟷螂の斧、より深刻な敗北感を味わったのではないでしょうか。事実、日出藩では帆足万里が家老になって改革にあたりましたが、大きな成果は挙げられませんでした。眼病に苦しめられた竹田でしたが、心眼は冴えていたのです。辞職は「勝利への出発」でした。その後、竹田が羈旅、交友、酒茶、詩書画に遊んで、創造的な一生を送ったことはご存知の通り、つまりそれは「田能村竹田の勝利」だったのです。

● 2015-27.
千葉市美術館
「開館20周年記念 歴代館長が選ぶ所蔵名品展」「歴代館長によるシンポジウム <歴代館長よもやま話>」
(千葉市民会館大ホール 4月25日)


 千葉市美術館が20周年を迎えました。おめでとうございます!! 初代館長は辻惟雄さん、つづいて小林忠さんが二代目をつとめ、現在は三代目の河合正朝さんが頑張っています。これを記念し、三人のセレクションによる特別展が企画されたのですが、そのイベントの一つとしてシンポジウムが開かれることになり、司会の大役が皆さんと親しい僕に回ってきました。このような鼎談は、ヨモヤマ話ならぬヨタ話になる場合も見受けられますが、さすが美術史界を代表する歴代館長です。忘れえぬ収集作品や特別展の想い出を中心に、美術館の理想像にも説き及んで、おもしろくってためになるトークとなりました。さて「歴代館長が選ぶ所蔵名品展」からさらに選ぶ「僕の一点」は、森狙仙の「双鹿図屏風」です。とくに深く心に刻まれているのは、『國華』1257号(2000年)「新出逸品特輯」に紹介の筆を執った傑作だからです。1788年、狙仙が42歳のときの制作と判る点も貴重です。『國華』に載った時は、すでに千葉市美術館の所有に帰していましたが、最初に見たのは、ある個人コレクターのお宅でした。この屏風には、もう一つ思い出があります。美術史を始めたころから、僕は狙仙の猿が大好きでした。そこで狙仙について調べ、『國華』950号(1972年)に、「森狙仙研究序説」なる一文を発表しました。京都・広誠院の襖絵を中心に扱ったのですが、登場する動物の生態がよく分からなかったので、上野動物園の川口幸男さんを訪ねて、詳しく教えてもらいました。そのあとずっとご無沙汰していたのですが、28年経って、「双鹿図屏風」を紹介することになり、まだいらっしゃるかなぁと思いつつ、3月初め、上野動物園に電話をかけました。すると川口さんがお出になり、その月末、定年で退職するところだとおっしゃるではありませんか。やはりシンクロニシティやテレパシーは存在するのだと確信したことでした。

● 2015-26.
大分県立美術館
「モダン百花繚乱<大分世界美術館>」(6月14日)


 大分県立美術館(略称OPAM)か新しく開館しました。しばらくぶりで聞く日本美術史界にとってのビッグニュースです。建築は今をときめく坂茂、長谷川等伯の傑作「松林図屏風」が九州初上陸となる上記オープニング展も、ワクワクするような構成で見ごたえ充分――のようです。つまり、僕はまだ見ていないのですが、大分といえばまずは田能村竹田、その優品が錦上花を添えるカタログに、求められるまま、「田能村竹田 感情移入の美学を味わう」というエッセーを寄せました。現在、文人画の雄竹田といえども、伊藤若冲のような一般的人気を欠いています。しかし感情移入によって鑑賞すれば、竹田の素晴らしさが直ちに感得できるはずだというのが主旨です。文人画ですから、賛を読むことも大切ですが、それに拘泥せず、感情移入によって画を楽しむことこそもっと大切なのではないでしょうか。その部分を、引用しておくことにしましょう。
 近代南画を代表する富岡鉄斎は、つねづね「わしの画を見るときは、まず賛から読んでほしい」と述べていたそうだが、それこそ文人画の正しい鑑賞法だともいえよう。しかし賛を読まなければ、文人画という絵画がまったく理解できないというわけではないというのが私見である。感情移入によって鑑賞すれば、文人画の本質に直接迫ることになり、その文人画家の制作動機やその時の感情を追体験することになるからである。このように言いつつも、「暗香疎影図」に限れば、そのあまりにも美しい竹田の詩を、最後に紹介しないではいられない。そのなかの最も魅惑的な四句を、私の戯訳で掲げながら筆を擱くことにしよう。

 いまだ醒めない二日酔い   笛吹く天女を夢に見る
 きれいな指から生じる音[ね] 曲は「霓裳」[げいしょう]つぎ「六幺」[りくよう]


● 2015-25.
妙顕寺
「開創700年慶讃・琳派400年記念・尾形光琳300回忌追善法要 大光琳祭」
京都文化芸術会館
「光琳300回忌・琳派400年記念 おしゃべ琳派」 (6月2日)


 光琳300回忌となる祥月命日の今日行われた二つの行事に、お呼びがかかりました。妙顕寺は尾形家の菩提寺、追善法要に先だち、光琳顕彰碑の除幕式が行われました。新しい顕彰碑は大きな鞍馬石で、「法橋光琳<澗声>」という落款を彫って碑銘としたところが洒落ています。午後からは大光琳祭、門川大作市長の挨拶に続いて、小一時間の河野トークです。そのあと法要に移って、雅楽演奏、不審庵千宗員若宗匠による献茶から始まり、三田村鳳治貫首の光琳を称える献辞をもって終了となりました。抱一による100回忌、三越百貨店と神坂雪佳による200回忌に続く300回忌の法要に、このような形で参加できたことをとてもうれしく感じたことでした。100回忌に抱一が妙顕寺に寄進した「観世音図」を拝観、近くの本法寺にもお参りしたあと、京都文化芸術会館へと向かいました。この「おしゃべ琳派」なる企画は、館長の下田元美さんが仕掛けるところ、タイトルは「おしゃべり名誉館長」からぱくったとのことです。案内には、「琳派研究の第一人者であるとともに洒脱なトークを得意とする河野元昭師、落語界きっての学究派ディレッタントの桂文我師のおしゃべりで、……楽しくも有意義なひとときを過ごしたいと思います」あります。ついに僕も「師」になってしまいました!! 文我師匠の新作落語「萩露哀琳派虫乃声」は、しみじみとした情趣漂う素晴らしき一話でした。対談に移れば、洋服の文我先生に続いて、お囃子とともに登場の元昭師匠が着物――文我先生からの借り物――という趣向です。その前の休憩時間、聴講の方々には、光琳の「風神雷神」をデザインした缶ビールと、雪佳の「金魚」をラベルにしたお酒がふるまわれていました。「我々もシラフじゃしゃべりにくいじゃないですか」と口実を設け、その二つをグイグイやりながらの対談が、いかなるものになったかは想像にお任せしましょう。

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 5月 (20~24)

● 2015-24.
秋田県立近代美術館
「岩合光昭写真展 ネコライオン」(5月23日)


 岩合光昭さんは1950年のお生まれですから、御歳65歳、そのエネルギーに圧倒されます。圧倒といえば、岩合さんがガラパゴス諸島の自然に圧倒されたのは19歳の時、これが動物写真家となる切っ掛けでした。『海からの手紙』で木村伊兵衛写真賞を受賞したのは10年後、あの「秋田おばこ」で有名な木村伊兵衛を記念するこの賞は、写真家なら誰でもあこがれる日本最高の名誉です。その後、野生動物を追い求めて世界にその名を知らしめましたが、一方で僕たちに親しいネコを40年以上にわたってカメラに収めてきました。そのネコ写真展を我が館で開いたのは2010年のこと、天下の県立美術館で?とか、ネコ好き館長の独断じゃないの?という意見が出るかと思って心配しましたが、開けてみると実にたくさんの方々が来館して下さいました。しかも、6階のバルコニーからのぞくと、皆さんの「ワーカワイイ!」「でもウチの方がもっとカワイイ!!」といった声がハーモニーとなって、吹き抜けとなった5階から立ち昇ってくるではありませんか。「アァやっぱり開いてよかった」と、胸をなでおろしたものでした。意を強くした僕たちは、続けて岩合さんによるイヌと野生動物の写真展を開催しましたが、新シリーズ「ネコライオン」も是非というアンケートをいただけば、開かないわけにはいきません。さすが岩合さん、「ネコは小さなライオンだ ライオンは大きなネコだ」というコンセプトを思いついたとしても、両方の膨大な写真ストックがなければ、展覧会まで昇華させることはできないでしょう。「似ているからといって同じものだとは限らぬ」というのは、有名なシェークスピアの言葉ですが、これほど似ていれば、やはりネコライオンという一つの種属です。あえて「僕の一点」を選べば、「キリストは十字架で人の罪を負った」という警世看板の下で、12匹のネコがのんびりと昼寝をしている「夏の午後」!?

● 2015-23.
都美術工芸大学
「新入生歓迎スポーツ大会」(5月21日)


 空はピーカン五月晴れ、申し分なきスポーツ日和です。あいさつを頼まれた僕は、「一に健康、二にからだ、三、四がなくて五に元気」と言って〆ました。行われるのはサッカー、バレーボール、ドッジボールの三種、僕はドッジボールに参加することにしました。じつに懐かしかった!! 小学校以来です。もっともルールは同じでも、ボールがまったく違います。今のは軽くてフワフワしたビニール製ですが、小学校時代のは重くて空気がパンパンに入った牛革製、当たるとものすごく痛かった――とくにアベ君の超速球ときたら……。彼は元気にしているかなぁ。昔取った杵柄で頑張ったけど、残念ながら1回戦敗退でした。昔取った杵柄などというとカッコいいのですが、運動神経は鈍かったし、体も頑強というにはほど遠かった。しかし、余職に就きて、身体壮健に非ざれば、何事も成就し難きを解悟することあり。余元来蒲柳の質に庶幾ければ、毎夏必ず一つ山峰に登ることを自らに課せり――いきなり漢文読み下しみたいな文章が出てきて驚いたかもしれませんが、これは『小島烏水全集』13巻の月報に擬古文で寄せたエッセー「烏水氏と私」の一節です。烏水は日本アルピニズムのパイオニアです。映画「劔岳 点の記」では、仲村トオルが烏水に扮し、浅野忠信や香川照之が演じる陸軍参謀本部陸地測量部組の敵役として登場していました。もっとも日本美術史界では、もっぱら浮世絵研究のパイオニアとして有名です。ところで僕の自慢は北アルプス・槍ヶ岳単独登攀です。もちろん夏ですよ、冬にやったら僕なんか死んじゃいますよ。その時の思い出を、先の擬古文から引用することにしましょう。「這松繁茂せる畳翠の堆石堤越え行けば、吁嗟、眼前に三角錐の巨塊出現す。……槍岳山荘に一夜の宿息を予約し、愈々大槍へ登る。烏水氏の艱苦と比較するも憚り乍ら、登頂成功の歓喜は同じ、雛社に感謝を捧げたり。」

● 2015-22.
サントリー美術館
「生誕300年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(5月10日)


 伊藤若冲・与謝蕪村という1716年に生まれた二人の天才を同時に堪能できます――「アーモンド・グリコ」のように!? ところで、琳派400年記念祭を牽引してくれている尾形光琳が没したのも同じ年です。これは偶然の一致ですが、偶然には必ず意味があります。つまり江戸前期の新古典主義から中期の浪漫主義へと展開していく江戸絵画史を、シンボリックに示す偶然なのです。「僕の一点」は蕪村の「柳江遠艇図」、1764年、蕪村49歳の時の優品です。曲がりくねりながら続いていく柳の堤を描いただけの掛幅ですが、蕪村の素晴らしさがそのままにあふれ出で、見るものの心に染み入ってきます。大阪に生まれた蕪村は、20歳前に江戸へと旅立ち、10年ほど江戸で過ごしたあと、北関東でまた10年ほど暮らしました。この間、東北を旅した蕪村は、やがて京都に戻るのですが、丹後へ、あるいは讃岐へと旅を続けています。漂泊の俳人・松尾芭蕉を尊敬して止まなかった蕪村は、その真似をしようとしているかのようです。かかる蕪村が、みずからの絵画にも道や、道のヴァージョンともいうべき河川を好んで描いたことは、不思議でも何でもありません。それらが蕪村山水画の骨格となり、力強い構成を生み出しています。このように蕪村が旅と造形という二重の意味で「行路の画家」であったという私見を、最近『國華』1433号に書いたところです。ところが蕪村の作品には、もう一つ大きな特徴があります。画面に微妙な光が満ちていることで、僕はこれを蕪村の「微光感覚」と呼んでいます。「柳江遠艇図」は絖本(ヌメ)に描かれているのですが、この特殊な絹が有するツヤが微光感覚とみごとにマッチしています。自賛に「落日千株柳 春江一片舟」とありますが、春の夕方の微妙な光はこの絹によっても生み出されています。微光感覚を宿す行路の画家蕪村を、何とみごとに象徴していることでしょうか。
 <追記>本展はすでに終了しましたが、滋賀県信楽のMIHO MUSEUMに巡回します。期間は7月4日から8月30日まで――秋田からはちょっと遠いかもしれませんが、絶対オススメの江戸絵画展ですよ!!

● 2015-21.
追悼 テレサ・テン(祥月命日の5月8日)


 没後20周年の特番をやっていました。忘れられない歌手です。はじめて僕が海外旅行に出たのは1970年、その6月、台北・故宮博物院で中国絵画に関する大国際シンポジウムが開かれました。名誉総裁の宋美麗が開会の挨拶を行なうという、中華民国挙げての国家行事でした。僕は東海大学の講師になったばかりでしたが、どうしても参加したかった――いや、国外に出てみたかったのです。台北で研修していた海老根聰郎さんから招待状をせしめて、同僚の小畠廣さんと出かけました。きわめて充実したシンポジウムでしたが、より深く胸底に刻まれているのは……。ある晩、みんなで飲んでいると、中国語の歌が流れてきました。これはすごい歌手だと思い、店の人にその名を訊くと、「鄧麗君」と紙に書いてくれました。翌日レコード屋に行って、この歌手のが欲しいというと、最新のLPを勧めてくれました。いまダンボール箱から、その「玉女巨星鄧麗君之歌第十六集 恋愛的路多麼甜」を引っ張り出してきたところです。彼女は1953年の生まれ、当時17歳です。16枚目のアルバムというのですから、すでに台湾ではトップスターになっていたわけですが、まったく知りませんでした。帰国してから何十度プレーヤーにかけたことでしょうか。ところが4年後、テレビで歌謡番組を見ていると、テレサ・テンなる歌手が「空港」という曲を熱唱しています。「テレサ・テン? あの鄧麗君じゃないか!!」 その後彼女は旅券法違反のため国外退去処分を受けましたが、1984年「つぐない」を携えて再デビューを果たすとともにヒットを連発、そして1995年タイ・チェンマイで42年の短い一生を終えたのでした。1989年5月、香港で民主化支援コンサートに参加したことを、翌月北京から帰国して初めて知ったときの驚きを思い出しながら、一番好きな「時の流れに身をまかせ」を歌って冥福を祈ったことでした。

● 2015-20.
日本橋高島屋
「琳派400年記念 京都・細見美術館 琳派のきらめき トークショー」
平成中村座「陽春大歌舞伎」(5月2日)


 京都から始まったこの特別展も、いよいよ花のお江戸へやってきました。今日は館長・細見良行さんとのトークショーですが、出迎えてくれた方々への挨拶は後回しにして、まずは表の大ショーウィンドーを飾るディスプレーです。細見琳派作品から霊感を得て、わが京都伝統工芸大学校の学生たちが作った6点の作品が、銀座通りを行く人々の熱い視線を集めています。そのうしろには、オリジンとなった作品の大パネルが飾られて、現代青年の古典に対する挑戦といった感じです。僕も割って入ることにして、たとえば其一「藤図」VS金工コース共同制作「根っこ」に対しては、「華麗な装飾性に目を奪われる琳派草花図ですが、そこに強い生命力への希求があった事実を見逃してはならないでしょう。この美意識を、琳派の鬼才・鈴木其一もよく受け継ぎつつ、そのすべてを<花>に凝縮させました。しかし現代の若者は、文字通りその根源をなす<根>の生命力と美しさを発見して、其一に対峙しようとしています」とエールを送りました。トークショーが盛り上がったことは言うまでもありませんが、舞妓さんの踊りが終わると、聞かないで帰っちゃう人も!? 二回目のトークを終え、館長の妹さんの招待に甘えて浅草寺境内に設えられた平成中村座へ。一度ぜひ見たいとものと憧れつつ、今までチャンスがなかったのです。平成中村座は、いまは亡き十八世中村勘三郎の「テントで歌舞伎をやりたい」という熱い思いから、江戸時代の賑わいそのままの芝居小屋として、浅草で誕生したのです。木戸口をくぐって、渡されたビニール袋に靴を入れれば、完全に江戸時代の気分です。久松一声作の新作舞踊「高坏」が実におもしろく、もうほとんど狂言です。クライマックスで背面がスルスルと開けばそこは戸外、一瞬にして桜吹雪の夜桜に変じるという趣向は、あのニューヨーク公演をちょっと思い出させたことでした。

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 4月 (17~19)

● 2015-19.
福岡正夫「蝶と私 わが趣味を語る」 (『三田評論』1188)②(4月24日)

 しかし個体ではなく、シロモンアゲハ全体を視野に収めれば、異なるグラフが描けるかも……。まずCについて考えると、1匹も擬態しないときは当然ゼロであり、擬態が進むにしたがって、等差級数的に増大していきます。一方Bについてみると、まったく擬態しない場合のBもかなり高いのです。擬態すれば寿命が短くなるのですから、繁殖期間が短くなるのみならず、繁殖力も落ちるのではないでしょうか。擬態ゼロならそれがないのですから、Bは最初からプラスになっています。もちろん擬態がおこるのは、そこにBがあるからですが、その増加率はかなり緩やかなものでしょう。擬態が進めば進むほど、先のようなデメリットが顕在化して、Bの足を引っ張るからです。それだけではありません。オスは一匹も擬態しないわけですから、擬態したメスを敬遠するのではないでしょうか。蝶にも選択行動があり、メスは嫌いなオスに対しお腹を垂直に立てて、交尾を拒否するそうですから、擬態したメスから言い寄られたオスも、拒否する可能性が考えられます。僕も、西洋人風に美容整形した女性は好きじゃありません――お前の趣味から類推したりするな!? メスの擬態が進むにしたがって、オスが小鳥から集中的にねらわれるようになることも、思ったほどBが増加しない原因となるでしょう。かくしてゼロから等差級数的に右肩上がりになるCと、プラスから出発するけれども、その増加角度が緩やかなBはどこかで交差することになります。その交点を過ぎると、BよりCの方が上にくるわけですから、その段階で擬態がストップするというのが私見なのですが……。こんなに脳を活性化してくれた福岡さんに感謝するとともに、講演録の一読をお勧めします。

● 2015-18.
福岡正夫「蝶と私 わが趣味を語る」(『三田評論』1188)① (4月18日)


 福岡さんは慶應義塾大学の名誉教授で、専門は経済学ですが、ご本人曰く、「趣味の蝶々とクラシック音楽の方が、本業よりずっと年季が入っている!!」。また福岡さんは出光美術館の理事をつとめられ、月に一度、昼食会でご一緒しますが、真の教養人とはこういう方のことだと感を深くします。その福岡さんから、小泉信三記念講座の講演録を頂戴しました。おもしろいことこの上なき内容です。福岡さんは蝶の擬態問題に焦点を合わせつつ、蝶類学と経済学の関係を指摘しているのですが、僕がもっとも興味をもったのは、ベイツ型擬態と頻度依存性淘汰説です。例えば毒をもたないシロオビアゲハの場合、メスの一部が有毒のベニモンアゲハ(モデル)に似せた擬態(コピー)をとります。もちろん、小鳥の捕食から逃れるというベネフィット(Bと略記)を得るためであり、これをベイツ型擬態といいます。しかし不思議なことに、全部が擬態するわけではありません。その理由を説明するのが、頻度依存性淘汰説です。モデルの個体数に比べて、コピーの数がうんと少ないと、小鳥が無作為に1匹捕まえて食べたとき、毒蝶の方にあたる確率が高くなり、小鳥はなるべく食べないようにするので、Bがとても高くなります。しかしコピーが多くなると、逆の現象が起こり、Bは下がってきます。一方、擬態するにはカロチノイドという成分が必要であり、これを摂るとコピーの寿命は擬態しないメスに比べて若干短くなります。つまりコスト(Cと略記)がかかるのですが、個体によって違いはありませんから、個体数が増えても1匹当たりのCは一定です。これを線グラフにすると、右肩下がりとなるBと、水平の横線となるCの交点ができますが、そこで擬態化が止まるのです。つまりシロオビのメスは、そのままのものとベニモンに擬態したコピーが混在することになります。




● 2015-17.
追悼 小川知二さん(4月12日)


 小川知二さんが3月2日に亡くなりました。先日、奥様の郁江さんからお手紙をいただき驚きました。ご冥福をお祈り申し上げます。最初に小川さんにお会いしたのは、1974年開館した茨城県立歴史館における記念展でした。彼がずっと準備してきたのです。すでにお名前は聞いていましたが、訥々とした話し方に、ちょっとシャイで真摯な人柄がそのままに現われていました。その記念展は茨城の名宝を選りすぐった素晴らしいものでしたが、より一層感を深くしたのは、その数年後、小川さんの企画による茨城所在の絵画を集めた特別展でした。とくに印象に残っているのは、一幅の小さな山水画です。画面の隅に落款印章はあるのですが、聞いたこともない画家だったので、これはどういう画家ですかと訊ねると、よく分からないけれども、なかなか出来が好いので出してみたんですというのが答えでした。僭越ながら、すばらしいキューレーターだと深い感銘を受けました。そのときのカードが見当たらず、画家の名も忘れてしまっているのですが……。その後、小川さんは『國華』1058号に「『蝦蟇図』の作者林十江」を発表しました。銘打たれていないものの、実質「林十江特輯号」で、しかも彼一人で作品解説もすべて担当しているのです。やがて小川さんは東京学芸大学に転じるとともに、雪村に研究対象を広げ、『常陸時代の雪村』という優れた研究書を著しました。その後の思い出も尽きませんが、最後に小川さんの声を聞いたのは電話でした。『國華』で文人画南画特輯号の人物画篇を編むことになり、僕が林十江のある作品について書いて欲しいと頼むと、もっとおもしろい「野菜売図」があるので、執筆者には藤和博さんという後進の学芸員を推薦したいとのことでした。送られてきた写真を見ると、なるほど十江の傑作でしたが、小川さんはこの平成27年3月号を見ることもなく逝ってしまいました。合掌

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 3月 (12~16)

● 2015-16.
京都府立文化芸術会館
「琳派400年記念連続講座 <大交流!琳派が翔ける>④ 潜在?する琳派」(3月17日)


 企画者の下田元美さんから与えられたお題は、「美との対話――琳派三大画家の美意識」!! こういう難題になると、私見なんかをしゃべっても、「それがなんぼのもんじゃ」と突っ込まれること必定です。仕方がないので、琳派、宗達、光琳、抱一について、それぞれ五つほど、魅力的な見解を選んで配布資料を作りました。例えば「琳派」では、ルイ・ゴンス、矢代幸雄、ジェームズ・ケーヒル、田中一光、辻惟雄の卓説というように。しかし、これを改めて解説してもおもしろくないので、三大画家のエピソードによってその美意識を浮き上がらせることにして、光琳では「東山衣裳競べ」を選びました。光琳のパトロンである銀座役人の中村内蔵助が、あるとき光琳にこう言いました。今度東山で名門の奥方ばかりの集まりがあるので、妻には皆に引けを取らないような着物を着せたいのだが、何か名案はないものかと。さて当日、内蔵助の妻はとみれば、白羽二重の重ね着に、黒羽二重の襲[かさね]と帯です。ほかの奥方たちは、綾羅錦繍の美を誇り、途中で席を外したと思うと、前にも増して豪華な衣裳に着替えてきます。内蔵助の妻も着替えましたが、同じような白無垢黒羽二重に着替えたのです。そして侍女たちには、他の奥方を凌駕するきらびやかな衣裳を着させたのです。この大胆で洗練されたアイデアは、一座のものたちを圧倒し尽くし、人々はさすが光琳だと褒めそやしたのでした。これは神沢貞幹という人の随筆『翁草』に載っていて、昔から知られた逸話ですが、おそらく事実だと思われます。光琳の美意識をよく表していますし、何より「紅白梅図屏風」の構成がそうなっているからです。中央の黒羽二重のような水流が内蔵助の妻、左右を飾る美しい紅白の梅が侍女というわけです。この屏風の構成が、「嬲」という漢字のようになっているというのは、小林太市郎先生のあまりにも有名な解釈ですが……。

● 2015-15.
出光美術館
「没後50年 小杉放菴 <東洋>への愛」<3月29日まで>(3月23日)


 1911年、30歳のとき、第5回文展に油彩画「水郷」を出品して最高賞の二等賞一席を受賞した放菴は、2年後ヨーロッパへ旅立ちます。当時、我が国においても人気の高かったフランスの壁画家ピュビス・ド・シャバンヌに惹かれていたからで、放菴はパリを中心にヨーロッパ各地の壁画や美術館を見て回ります。しかし放菴は、パリで池大雅の傑作「十便帖」に逢着して、「帰り行くべき道」を教えられるのです。オリジナルの「十便帖」ではなく、芸艸堂から出された複製版でしたが。のちに「大雅と南画」という一文を書いた放菴は、フランスの新しい画家のなかに「孩児的純朴」を唱道するものが多いけれども、すでに100年も前に「十便帖」において達成されていることを指摘しています。このころパリでは、ピカソやマチスなどの非写実的な新絵画が興っており、それらとの類縁性から大雅を見ているのです。そもそも日光に生まれた放菴は、はじめ日光の洋画家・五百城文哉に学ぶのですが、文哉は西欧人観光客相手に、水彩で東照宮風景などを描いて口に糊していました。このような西欧に対する意識が、文哉から放菴へ受け継がれています。しかもジャポニスムの影響はすでに日本へ及んでいて、先の「水郷」や「婦人立像」などは、すぐれた意味でアール・ヌーボー絵画だといってよいでしょう。放菴の美意識は、基本的に東洋日本的なものであったとしても、西欧を抜きに考えられないものでした。だからこそ、本拠地で真のジャポニスム絵画に触れて自信を失ったとき、ジャポニスムと最も縁遠い文人画に、新鮮な感動を覚えたのだというのが私見です。パリでは浮世絵や琳派も見たはずですが、それらはすでに放菴にとっての西欧に摂取されていたものでした。工部美術学校でフォンタネージから伝統的西欧絵画を叩き込まれた浅井忠が、パリで発見したのが琳派だった事実と比べてみるとおもしろいでしょう。

● 2015-14.
NHK朝ドラ
「マッサン」・早瀬利之『リタの鐘が鳴る』(3月22日)


 間もなく終わると思うと寂しくなります。一日がこれから始まるという生活を半年間続けてきました。ウルウルになることが多かったのは、年で涙もろくなったせいじゃありません。この成功は、ひとえにマッサンの妻エリー(本名ジェシー・ロベルタ 愛称リタ)を演じたシャーロット・ケイト・フォックスのお陰――彼女を選んだプロデューサーの慧眼をたたえたい!! これがバーグマンやモンロー、はたまたアンジェリーナ・ジョリーのような女優だったらどうなっていたことでしょうか。先日、彼女がブロードウェー・ミュージカル「シカゴ」の主役に抜擢されたというニュースを見ました。成功を祈らずにはいられません。去年の暮、逗子市立図書館に立ち寄ったところ、「マッサン」の特集展示をやっていて、エリーが晩年逗子に住んでいたことを知りました。そのとき紹介されていたのが標記の一冊です。それによると、1955年の冬、エリーは風邪から軽い肺炎に罹ったので、マッサンは逗子海岸に近い一軒家を見つけて余市から転居させ、自身もそこから日本橋の本社に通ったそうです。エリーの体調はやや回復したものの、やがて死期を悟って北海道に帰ることを望み、1961年1月17日、余市の自宅で64年の生涯を閉じたのでした。著者の早瀬さんが僕と同じ逗子の桜山に住んでいるという奇縁に驚きつつ、二人の苦労の結晶である「余市」でエリーの冥福を祈ったことでした。

● 2015-13.
三重県立美術館
「岡田文化財団設立35周年記念 コレクション展」(3月11日)


 1979年設立された岡田文化財団は、三重県立美術館のために400点もの美術品を寄贈してきました。その設立35周年記念展から選んだ「僕の一点」は、曾我蕭白の「松に孔雀図襖」です。伊藤若冲と並び称される京都奇想派の天才・蕭白は、壮年のころ伊勢地方を放浪していたらしく、斎宮の旧家・永島家に伝えられた44面の障壁画はあまりにも有名です。それは三重県立美術館に寄贈され、重要文化財にも指定されたのですが、さらに「松に孔雀図襖」も加わったのですから、もう蕭白美術館と呼びたくなります。さて、その松をよく見て下さい。角が長く伸びた鹿のお化けのように見えるでしょう。蕭白が意識して描いたかどうかは分かりませんが、その可能性がまったくないとは言えません。なぜなら、鹿は「禄」と音を通じてお金持ちの象徴となるのですが、孔雀も富貴、つまりお金持ちの隠喩だからです。さらに落款の下には牡丹が描かれています。これも富貴のシンボルで、だからこそしばしば孔雀とワンセットになるのです。蕭白から「画を求めるなら俺のところに来い、図なら主水へ行け」と罵倒された円山応挙は、香住・大乗寺の襖絵に同じ松に孔雀を取り上げましたが、松はあくまで松であり、牡丹などは一つも描かれていません。牡丹とか鹿とか、孔雀と結びつく古典的モチーフを抜かりなく配している奇想派蕭白の方が、応挙より一層伝統的だともいえるのです!?

● 2015-12.
京都伝統工芸館
「琳派400年記念祭プレイベント 連続講座<琳派>の作家たち⑩
               対談 細見良行×河野元昭」 (3月6日)


 いよいよこの講座も最終回、細見美術館館長・細見良行さんと並んで颯爽と登壇です。細見コレクションの三代目にあたる良行さんとは、本当に親しくさせてもらってきました。最初に生涯の友となるだろうと確信したのは、1983年のことでした。その11月に、ニューオーリンズ美術館でカート・ギターさんの日本絵画コレクション展「錦秋万葉」が開催され、それを記念して国際シンポジウムが企画されました。発表を依頼された僕は、宗達の構図についてしゃべったのですが、それが終わったあと、彼はテキサス・フォートワースのキンベル美術館へ一緒に行こうと誘ってくれたのです。アメリカ留学の経験がある彼は英語が堪能で、僕の航空券の変更などもすべてやってくれました。それからカンサスへ飛んで、ネルソン・アトキンス美術館を案内してもらいましたが、その日の旅日記は、「細見氏と1:00までしゃべって寝る」で終わっています。3月11日から京都・高島屋で特別展「細見美術館 琳派のきらめき――宗達・光琳・抱一・雪佳」が始まるので、今回はその紹介をメインに進めました。もっとも、気心の知れた二人のこと、絶妙の掛け合い?に会場はなごやかな雰囲気に包まれ、「おもしろくってためになる」講座の〆にふさわしいものとなりました。この特別展のカタログにエッセー「細見家三代と琳派コレクション――その個性と普遍性」を寄せましたので、ぜひご一読のほどを。

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 2月 (6~11)

● 2015-11.  サントリー美術館
「天才陶工 仁阿弥道八」(2月14日)


 仁阿弥道八は野々村仁清が大成した京焼に連なる高橋家の二代目です。初代道八の「月文黒茶碗」から、2014年作というまだ湯気が立っているような九代道八の「色絵金彩桐唐草文食籠」まで、184点が集められました。「僕の一点」は「利休七種写茶碗」です。「利休七種」とは、楽家初代・長次郎が制作した楽茶碗のうち、茶人・千利休の美意識にとくにかなうものとして、江戸時代に選定された七個の茶碗をいいます。重要文化財に指定されて有名な黒楽の「大黒」「東陽坊」も、ちゃんと含まれています。楽家六代・左入による利休七種の写しがあり、それをさらに仁阿弥が写した作品であることが、箱書きから分かります。企画した安河内幸絵さんは、19世紀になると茶の湯が社会に広く普及して、茶道具の需要が高まり、それに応えるため高級な茶道具の写しが京焼の陶工に発注されるようになった事実を指摘しています。「モナ・リザ」のコピーがたくさんあるように、名品と同じものを手に入れたいというのは、洋の東西を問わない人間の欲望でしょうが、日本ではとくに盛んであり、それ自体に高い価値が認められています。その理由は、仁阿弥の写しに象徴されるように、日本の美術が実際に使用される生活美術であった点に求められます。生活美術であれば、下手に個性などを発揮した作品より、長く馴染んだ古典の写しの方が、ずっと使い勝手にすぐれるということになるのです。

● 2015-10.
MOA美術館
「尾形光琳300年忌記念特別展 光琳アート
 光琳と現代美術 『燕子花と紅白梅』二大国宝同時公開」<3月3日まで>(2月28日)


 1959年、天皇ご成婚を祝し、根津美術館でこの光琳二大傑作「燕子花図屏風」と「紅白梅図屏風」が同時に陳列されたとき以来、56年ぶりのサプライズです。立錐の余地なき中でちょっと考えたのは、光琳における和と漢という問題です。両屏風ともお能のイメージを内包しており、前者は「杜若」、後者は「東北」と関係しているというのが私見ですが、これはともに和ということになります。しかし更にさかのぼって、前者を『伊勢物語』の造形化、後者を林和靖の漢詩の視覚化と見なすと、これは和と漢になります。一方、『伊勢物語』の歌物語形式のオリジンを中国の詩話に求めたり、両者の様式的源泉を唐代の絵画まで追いかけたりすれば、ともに漢、正しくは漢の日本化ということになります。この中で、最もおもしろそうなのは二番目の視点で、前者を和、後者を漢の象徴と見立てて、光琳芸術を原点回帰の旅と仮定してみることです。いずれにせよ、王朝やまと絵につながる光琳芸術が、漢とも結びついていたことは否定できない事実で、光琳は「紅白梅」によってそれを告白しています。つまり白梅を中国、紅梅を日本、水流を東シナ海の表象として、漢文化が日本化した歴史と、みずからの立ち位置を浮かび上がらせているのです。見終わったあと、観世喜正がシテをつとめる「杜若」を堪能、そのあと静岡・島田の銘酒「おんな泣かせ」をご馳走になり、家路についたことでした。

● 2015-09.
千葉市美術館
「ブラティスラヴァ世界原画絵本展―― 絵本をめぐる世界の旅」<3月1日まで>(2月9日)


 スロヴァキアの首都で2年ごとに開催される「ブラティスラヴァ世界原画絵本展」(略称BIB)は、ユネスコと国際児童図書評議会の肝いりで、1967年からスターとしました。BIBには芸術性にすぐれた作品や個性あふれる作品が雲集することで名高く、わが秋田県立近代美術館でも2005年にこれを開催し、多くの絵本ファンを魅了したことでした。2013年秋に行なわれた第24回BIBには、49カ国、362名、2344点もの作品が出品されたそうです。グランプリに輝いたのは、スイスのラオベ&ヴェーアレの「大洪水」、鴻池朋子さん愛用のペーパーアニメーションの手法が光っています。グランプリに続く「金のりんご賞」には、日本から二人も選ばれました。「はいじま のぶひこ」と「きくち ちき」です。「僕の一点」は前者の「きこえる?」、そのシンプリシティーのすばらしさは、やはり日本人の作家です。事実、作者も「ここにあるシンプルな色と形から、光や風、香り、あるいは音や動きといった、形のない、心地よい何かを感じ取っていただけたらうれしいです」と語っています。僕は平成23年の年賀状に干支のウサギを選んで木版画にしたところ、猪川和子さんから「おお寺の柱に近くもの思う白き兔を照らす月かげ」という、秋艸道人の名本歌取りをいただき得意になっていたのですが、「きこえる?」のウサギをモチーフにした一枚を見せられると、さすがプロはヤバイのです!!

● 2015-08.
秋田県立近代美術館
「名誉館長講座 江戸時代の美術・中期⑥喜多川歌麿」(2月7日)


 本年度最後は話題の「深川の雪」(岡田美術館蔵)。「品川の月」(フリーア美術館蔵)と「吉原の花」(ワズワース・アセーニアム美術館蔵)とあわせて、「歌麿雪月花三部作」とたたえられる傑作です。稲墻朋子さんによれば、この三部作は1879年11月、栃木・定願寺で開かれた展観に、当地の豪商である善野家のお宝として出陳されましたが、明治20年代にはパリの美術商サミュエル・ビングが「雪」と「花」を所有していました。「花」は戦後、ワズワース・アセーニアム美術館へ収まりました。「月」は1891年ごろ、浮世絵商の小林文七から横浜の外国人へ150円で売られましたが、それを聞きつけた美術商・林忠正が破約させ、250円で買い取ったそうです。1903年、パリで林コレクションのオークションが行なわれたとき、これをアメリカの収集家チャールズ・フリーアが購入しました。一方「雪」は、パリにいた浮世絵商・青山三郎から、戦前同地に滞在していた浮世絵収集家・長瀬武郎が買い求め、1939年、日本に持ち帰りました。しかし戦後の1948年、銀座・松坂屋で開かれた「第二回浮世絵名作展覧会」に三日間展示されただけで、その後杳として行方知れずに――ところが2012年、忽然と世に現われ、新しくオープンした岡田美術館で公開されました。テレビ番組「歴史秘話ヒストリア」で2014年美術の話題トップ10に入っていたのを、ご覧になった方も多いことでしょう。

● 2015-07.
デービッド・アトキンソン
『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』<講談社+α新書>(2月6日)


 著者はオックスフォード大学で日本学を専攻したあと、ゴールドマン・サックスに入社、日本の不良債権の実態を暴くレポートを発表して注目を集めました。同社での活動中、裏千家に入門して茶名「宗真」を拝受、その後、創業以来300年の歴史を誇りつつ、国宝・重要文化財の修理を手掛ける小西美術工藝社に入社して社長になるという、驚くべき経歴の持ち主です。副学長の北村雅昭さんから勧められて読み始めました。結論は「『観光立国』日本が真の経済復活を果たす」という最終章にあり、世界ではGDPに対する観光業の貢献度は平均9パーセントですが、日本の場合は約2パーセントであること、日本を訪れる観光客は年間1036万人で、香港(2566万人)の半分以下であることなど、わが国観光業のノビシロがまだまだ大きいことを教えてくれます。しかし、僕がもっとも興味深く感じたのは、「高度経済成長のまぼろし」です。私たちは戦後日本の高度成長が、細部にこだわる職人的なものづくりや、明日を夢みて働き、技術立国を達成した先人たちの努力によるものだと信じています。また海外では、旧財閥の底力や社会制度、日本人の勤勉さなどが注目されてきました。しかし著者によれば、それはほとんど「爆発的な人口増」によるところなのです。この指摘は僕の高度成長観を根底から打ち砕いてしまったのですが、それでもいずれ私論をアップしたいと思っています。

● 2015-06.
ローラ・インガルス・ワイルダー
『大きな森の小さな家』とロジャー・キーズさん (2月1日)


 朝日新聞のすばらしい企画に、「10代、こんな本に出会った」があります。去年12月28日、料理研究家の行正り香さんが登場、このローラ・シリーズをあげています。本来『大きな森の小さな家』から始まるのですが、彼女が2作目の『大草原の小さな家』で代表させたのは、こちらの方がテレビでお馴染みだからでしょう。ウィスコンシンの森に生まれたローラが、家族と共にカンザス、ミネソタ、ダコタと移り住み、最後にアルマンゾという青年と出会って結婚するという自叙伝、日本でいえば明治維新のころ、アメリカ開拓時代の物語です。僕の子供が小さいころ、女房はその日本語版をよく読んで聞かせていました。名古屋から逗子に移って間もなく、ロジャー・キーズさんとお母さん、そして辻惟雄さんが我が家に遊びにきてくれたことがあり、キーズさんに僕がそれを話すと、帰国後『大きな森の小さな家』の英語版を送って下さいました。いま懐かしく、”From Roger and his mother Lorena to thank you for your kind hospitality at your home in Zushi in August 1985”と書かれた見返しを見ながらおしゃべりをしているのです。キーズさんはブラウン大学客員教授をつとめる有名な浮世絵研究家、2006年ニューヨーク公立図書館で開いた「スペンサー・コレクション絵本展」はその研究成果で、”The Artist and the Books in Japan”というカタログ図書にまとめられています。

折りたたみ/復元

 1月 (1~5)

● 2015-05.
鎌倉国宝館
「氏家浮世絵コレクション設立40周年記念 肉筆浮世絵の美」(1月12日)


 製薬会社を興して大きな成功を収めた氏家武雄氏は、あるとき肉筆浮世絵に心打たれ、見事なコレクションを作り上げました。しかし私蔵することを潔しとせず、鎌倉市と協力して鎌倉国宝館内に財団法人を設立し、広く公開することを決意されました。節目の40年を記念する巡回展が去年から始まり、これを機にカタログが制作されることになったので、僕は「氏家浮世絵コレクションの魅力」と題する一文を寄稿しました。「僕の一点」は、もちろん葛飾北斎の傑作「酔余美人図」です。浮き草稼業のやるせなさに、大き目の朱盃でささをあおったのでしょうか。
 芸妓が黒漆の三味線箱にしなだれかかり、こめかみを押さえて軽い頭痛にたえています。背景が省略された抽象的空間のなかで、その芸妓と三味線箱と朱盃に絶妙な位置が与えられていいます。北斎はまず対角線構図にねらいを定めました。対角線構図といえば、中国・南宋の画院画家である馬遠や夏珪が創出した辺角の景や残山剰水が思い出されますが、そこでは画面の安定感を生み出す要素として機能しています。ところが「酔余美人図」では、強い運動感を生み出す源泉となっています。じっと芸妓を見つめていると、対角線のベクトルに沿い、蒼穹へ勢いよく昇って行く龍のように見えてくるでしょう。美人が空に向かって飛び立つといえば、もうそれだけでバロック的です。少なくとも、古典主義的とはいえないでしょう。

● 2015-04.
秋田県立近代美術館
「生誕110年 福田豊四郎展 ――広い向こうの世界が見たいのです――」(1月10日)


 豊四郎生誕110年の節目に、素晴らしい記念展がわが館でも開かれています。「僕の一点」は「冬漁(八郎湖凍漁)」。昭和16年(1941)、新美術人協会展に出陳された作品で、八郎湖(八郎潟)に張った氷を四角く切り取り、漁をする人々を描いた力作です。しかし、ここには豊四郎の八郎湖に対する深い思いが込められているのです。『わがうたはふるさとのうた』は豊四郎のすぐれた画文集ですが、そのなかに「八郎湖の問題」があります。同じく昭和16年に書かれた文章で、豊四郎は八郎潟を埋め立てることに強い反対を表明しています。豊四郎にしたがって、八郎潟をあのままに残しておけば、どんなによかったことでしょう。もちろん、当時の社会的情勢を考えれば、埋め立て支持も止むを得なかったことです。毎日新聞社版『20世紀年表』でこの年を見ると、「食糧管理局官制を公布」「警視庁は、業務用米の実績再調査で<みい子2歳>等もっともらしく犬猫の名前を申告していた待合・置屋等摘発」「東京市ではドロップ・キャラメル・ビスケットの切符制実施へ14歳以下の子供で1人1月1円のみ」などとあります。「中学・礼法指導要綱で、男女文通は葉書による」というのもあります。本題とは無関だ!? 実際に埋め立てが始まった戦後の食糧難を考えれば、なおさらのことでしょう。これらを認めた上でなお、豊四郎の郷土愛と勇気と先見の明に、僕は深い感動を覚えるのです。

● 2015-03.
正月にちなんでお酒と浦上玉堂の話②(1月1日)


 この諸家の評語にも興味深い一条が見出されます。「幽居書事十首」第四首は、後聯に「倦むこと有り因って酒を呼び 神に会して時に詩を作る」とある通り、酒をたたえた詩ですが、その頭評に「淇園曰く、玉堂更に進むこと一層」とあるのです。淇園は当時の関西系ボス的儒者・皆川淇園、玉堂の酒に対する愛はさらに強まっているという指摘です。結句に「無事自然なるが宜し」とあるので、そのような玉堂の思想がさらに深まっているとも読めますが、これまた酒席を愛して止まなかった淇園のことですから、やはりお酒でしょう。ところで僕の一番好きな玉堂の詩は、前集の「山行」と題された15首のなかの一首、もちろんこれもお酒へのオマージュです。入矢先生は転句から宋の柳永の詞「雨霖鈴」を想起していますが、全体としては有名な杜甫の「曲江」でしょう。またまた僕の戯訳で紹介しますが、「花林」を「花咲く木陰」と訳したのは、太平書屋で活躍され、僕も『花咲一男翁しのぶ艸』に一文を寄せた花咲先生に捧げるためです。

  花咲く木陰でちょっと酔い 池の堤で爆睡す
  草花の香りに酔うごとく 乱舞しているアゲハチョウ
  あかつき迎え目覚めれば どっかに消えてる春だけど
  蝋で艶出す下駄の歯に 踏まれし春草香ってる


● 2015-02.
藤野可織さんと叡昌山本法寺で対談(12月20日)


 琳派ゆかりの場所で、藤野さんと対談する『京都新聞』の企画も3回目です。本法寺は室町時代、日親上人によって開かれました。日親は足利幕府に対して、『法華経』に基づく政治をあまりに強く求めたため、捕らえられてひどい拷問を受けました。本阿弥光悦の曽祖父である清信も幕府の怒りに触れて投獄され、そこで日親と出会って熱心な法華信徒となり、本法寺の創建に力を尽しました。天正年間、本法寺は豊臣秀吉の命によって現在の上京区の地に移りましたが、このとき光悦の父光二は私材を投げ打って伽藍の整備に努めました。こうして本法寺は本阿弥家の菩提寺となり、光悦の作品が数多く伝えられることになりました。最も有名なのは、重要文化財の「花唐草文螺鈿経箱」ですが、今日は光悦作といわれる「三巴の庭」を前に、藤野さんと対談しました。ところで本法寺の前身は、狩野叡昌の娘理哲の外護によって開かれた弘通所でした。叡昌は狩野派の始祖正信の祖父ともいわれる人物ですから、本法寺は狩野派ゆかりの寺院でもあったのです。のちに本法寺と強い関係に結ばれた長谷川等伯が、大のアンチ狩野派となったのは、まさに歴史の皮肉でした。それはともかく、光悦は等伯より19歳若いだけですから、両者は本法寺で直接会っていたに違いありません。さらに本法寺に伝わる等伯筆「雲龍図屏風」が、俵屋宗達筆フリーア美術館本のオリジンだという説も強いのです。

● 2015-01.
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。(1月1日)
お正月にちなんでお酒と浦上玉堂の話①


 去年の暮に畏友高橋博巳さんから、『太平詩文』64号を頂戴しました。ここに斎田作楽さんの「『玉堂琴士集』後集の異版」が発表されたからです。『玉堂琴士集』は僕も愛する浦上玉堂の詩集で、前集と後集からなっています。玉堂の画が素晴らしいことは改めていうまでもありませんが、詩もまた魅力に富んでいます。なかでもお酒をたたえた詩や、微醺を帯びて吟じた詩がじつに好いのです。玉堂芸術とお酒はほとんど表裏一体の関係に結ばれていました。玉堂と肝胆相照らす仲であった文人画家田能村竹田は、その著『山中人饒舌』のなかで玉堂を取り上げ、一幅の画を描くのに十数回酔って初めて出来上がる場合もあるといっています。かつて僕は、「玉堂と酒」というエッセーを『江戸名作画帖全集』の一冊に書いたことがあり、玉堂を酒仙画家と呼んだのですが、酒仙詩人でもあったのです。そのころ『玉堂詩集』は入矢義高先生の『日本文人詩選』に選集の形で収められているだけでしたので、岡山の正宗文庫からコピーを取り寄せて使いましたが、2008年に高橋さんと斎田さんが協力して太平書屋から原寸影印本を出版してくれました。付された高橋さんの論文「玉堂――琴・詩・画・友――」は必読ですよ。そのとき底本に使った川口家本の後集には、諸家の評語が欠けていましたが、今回それが入った異版が発見されたので、斎田さんがここに紹介してくれたというわけです。