石川理紀之助翁は、江戸・明治・大正と、三つの時代を生きた農業指導者です。
著書の『適産調(てきさんしらべ)』は、49町村の集落を調査してまとめられた731冊にも及ぶ膨大な計画書で、土壌分析など、農事全般についてはもとより、地理・歴史を始め、その記述は多岐にわたっています。理紀之助はこれを、貧村の救済と後進の育成に役立てようとしました。生涯を農業と農民に捧げ切った理紀之助は「聖農」と称えられ、今も敬い親しまれています。
理紀之助が横手市山内の三又地域を訪れたのは明治31(1898)年のこと。前年に大凶作があり、各地の寺社・学校に寝泊まりしながら視察の旅をした「救荒巡回」の時期と重なります。理紀之助は地域振興の方策を住民に語り、親交も結んで、一首の和歌を残しました。「豊かな実りに恵まれても、飢饉のときの心構えを忘れるな」という意味だそうです。三又の人々はそれを大切にして、日々の暮らしに励んできました。
理紀之助は自己に厳しかった人で、借金にあえぐ村人と暮らしを同じくし、再生まで滞在し続けるなど、徹底的な指導法を採りました。日課の第一は、午前3時に板木(はんぎ)を打ち鳴らし、起床を促すというものです。
ある吹雪の日、いつも通りに板木を叩いて戻ってきた理紀之助を、「こんな天気では誰にも聞こえるものではありませんよ」と心配した妻がたしなめたところ、「私はこの村のためだけに板木を打つのではない。500里の向こう、500年後の人々へも聞こえるように打っているのだ」と答えたという逸話が伝わっています。
『世にまだ、生まれぬ人の耳にまで 響き届けよ、掛け板の音』
昭和63(1988)年、三又では住民の手によって交流の拠点となる「麓友館」が建てられました。三又では、理紀之助が贈った書を、掛け軸にして保存しており、麓友館の名前は、文中の言葉「麓友」からとっています。
個人の能力ではなく、集団の協力を尊んだ理紀之助の教えは、三又の「結い」の精神と溶け合って色濃く留められています。板木の響きは、ここにも聞こえていました。
平成22(2010)年4月掲載
令和4(2022)年12月更新
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