-戊辰戦争激戦の地-
幕末、明治新政府側と徳川幕府側が日本を二分して争った「戊辰戦争」。秋田県内でも、新政府軍と幕府側に立った東北越後諸藩の同盟軍が激戦を繰り広げました。
秋田藩は、一旦は東北、越後諸藩と共に奥羽越列藩同盟を結びますが、すぐに方針を変更し新政府側へ参加、周囲の諸藩から侵攻を受けます。
旧式装備の秋田藩は、最新の装備を取り入れた庄内藩になすすべもなく敗退を続け、遂に小種近くまで後退します。
現在の大仙市小種(こたね)地域は、雄物川の屈曲部にあり、久保田城のある久保田町(現在の秋田市)の防衛線となっていました。雄物川を渡らなければ、庄内藩は久保田城へ迫ることはできず、逆に、秋田藩にとってみれば、ここを渡河されてしまえば、久保田城まで有効な防衛拠点はほとんど存在しません。
慶応4年(1868年)9月8日、破竹の勢いで進撃した庄内藩は、渡河作戦を決意、払暁を期して二番隊と四番隊が行動を開始します。秋田藩を中心とした新政府軍は小種の福部羅付近を守備していましたが、突然の敵の襲来に驚き、奮戦むなしく渡河を許してしまいます。隊長以下40名以上の損害を受けた新政府軍。角間川での戦い以来の大損害でした。
庄内藩は、その後一路秋田市へ向けて進軍、秋田藩は久保田城の落城すら危ぶまれる状況となります。この後、雄和椿台まで攻め込んだ庄内藩でしたが、その後の周辺の藩の戦況の変化により、辛くも久保田城は落城を免れました。一方、小種では、激戦の終わった数日後、ようやく戦死者はこの地へ葬られることになり、戦いは一区切りを迎えたのでした。
その後、昭和45年(1970年)9月、小種宝寿会の手により、古戦場が整備され、「戊辰公園」として今は市民憩いの場として生まれ変わりました。この地で繰り広げられた激戦を偲ぶ石碑が立ち、高台にある公園からは雄大な雄物川の流れを見ることが出来ます。そう遠くない昔の激戦に思いをはせて、四季の花々を楽しんでみてはどうでしょうか?
■参考文献
『秋田・庄内戊辰戦争』郡 義武 新人物往来社
『現地説明看板』
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