大正時代まで、大仙市協和の小種(こたね)地域には「大沼」と呼ばれる大きな沼がありました。
沼はフナをはじめ小魚・エビなどが豊富で、さらにはじゅんさい沼としてじゅんさいの収穫も行われていたようです。しかし、大沼から大川端の辺りは一面の湿地帯であり、開墾することもできず、荒れ地のままになっていました。
また、沼の周囲の田んぼは、大水の度に大沼から溢れた水に襲われ、干ばつの度に沼の水を必死でかき揚げたりしなければならず、決して良い作柄とは言えませんでした。また、水気の多い土地は、馬を入れての耕作ができず、すべて人の手で行われた農作業は、それはつらい作業でした。
この状態を見かねたのが、淀川村の村議会議員「加藤今司」さんでした。大沼を干拓し、付近の開拓と共に広大な農地を作りだそうとしたのです。しかし、当然ながら大沼で漁をしていた住民たちからは大きな反対運動が巻き起こります。それを加藤さんは説得して回ります。乾田にしなければ、馬をいれなければ、良い米はできない。その思いを真摯に住民に伝えていったのでした。
大正14年、ついに干拓事業が開始されます。一日のべ100人以上を動員した工事は、丸一年で完成し、大沼干拓地に60ヘクタール、周囲の湿地帯に80ヘクタールもの広大な新田が完成したのでした。
しかし、水の引いた沼は、柔らかい泥の田んぼとなり、馬を入れるのはおろか、人間ですら「田げた」と呼ばれる板をはき、泥に沈まないようにしなければ田植えもできない田んぼでした。このとき村長となっていた加藤さんは、周囲の村からの入植者をつのり、なんとか田んぼを生かそうとします。しかし、田んぼの経営は至難を極め、小種を後にする人々も多かったようです。それでも、農民たちは冬には客土(良い土をよそから入れる)を行い、少しでもよい田んぼにしようとの努力を惜しみませんでした。
加藤さんも、県庁に何度となく陳情を行い、排水用の暗渠工事にこぎ着けることに成功します。また、雄物川からのポンプを使った揚水事業も完成し、小種の田んぼは乾田に生まれ変わったのです。この大川端揚水場の完成の一年後、それを見届けるように加藤さんは自宅で息を引き取ります。その後も第二次暗渠工事などを経て、見事な美田に生まれ変わった小種の田んぼは、馬だけでなく耕運機などの農業機械も入れる立派な田んぼへと生まれ変わったのです。その成果は、当初の収量の約二倍という驚くべきものでした。
今も、秋になればたわわに実った黄金の稲穂が、新田一面を埋め尽くす姿を見ることができます。
■参考文献
『協和町郷土紙芝居』協和町公民館編
『協和町史』
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