画像:律令の昔から続く余目の歴史


大仙市余目地域の「余目」という地名はその昔、律令にある「余戸(あまりべ)」であったと言われています。当時の行政単位として家々を50戸ごとに「里」を作り、それに満たない家をまとめ「余戸」として記録したもので、当時からこのあたりに集落があったことがうかがわれます。

 その後、再び歴史に登場するのは、後三年の役の伝承です。江戸時代の紀行家・菅江真澄は、義家朝臣(源義家)が高寺山の姥杉に陣幕を張ったと記録しています。

 戦国時代の天正10年(1582年)頃には、高寺山に難波平治満友が家来と共に住んだと言われています。

 さらに、戦国時代の余目地域には前崎山城(現在の余目公園)があり、そのふもとには七頭といわれる七人の浮浪人が住んだと言われています。前崎山城には小野寺家家臣大友氏が入ったと伝えられており、当時このあたりが小野寺氏によって支配されていたことを伺わせます。

 また、前崎山城直下の街道は保呂羽山の波宇支別神社への参道となっていました。当時から信仰を集めた保呂羽山に向かう街道は、参拝客でにぎわったのでしょう。

 関ヶ原の戦いの後、小野寺氏に代わって佐竹義宣が秋田に転封され、余目も佐竹氏の支配下に置かれることになりました。徳川幕府から石高を知らされずに秋田入りした佐竹氏は、検地(農地面積と収量の調査)を行い、ようやく領地の石高を把握し、年貢を決定します。

 とはいえ、その後300年続く江戸時代の中で、徐々に土地所有が変わったり、新田開発をしたりと、検地の内容は実情に合わなくなっていきます。余目では収穫量に対する年貢の割合が多かったようで、負担は農民たちに重くのしかかっていました。幾度も藩へと要望をするものの、久保田藩は年貢が減るのを嫌がり、なかなか打ち直し検地に応じようとしませんでした。

 しかし幕末期、久保田藩筆頭家老、横手城代戸村十太夫義效(よしかた)の尽力もあり、ようやく余目を含む内小友村に対する打ち直し検地が行われ、年貢を軽くすることができたのです。これを記念し安政3年(1856年)義效の揮毫で「田神」の石碑を建て、田の神として祀りました。

 余談ですが、義效は後に、戊辰戦争の際苦難に遭遇しています。久保田藩は、一旦は奥羽越列藩同盟(旧幕府軍)側に義效を使者に立て白石へと向かわせますが、義效が戻る前に久保田藩は官軍参加へとその方針を転換したため、義效は勝手に同盟を結んだと責められ蟄居させられます。しかしその後、藩主の意向であったことが分かり、名誉を回復されています。

 また、戊辰戦争では余目もまた戦乱に巻き込まれ、角間川で官軍を打ち破った同盟軍の進撃路となっております。当時の様子を記した『万記録』には「強盗押込、衣類残りなく、取られ申し候」とあり、余目地域も例外ではなく甚大な被害を受けたと思われます。

 明治維新後は、内小友村となり、その後大曲町と合併し昭和29年(1954年)には大曲市へ、そして現在は平成の大合併により、大仙市となっています。平安の昔から続く余目の長い歴史の中で、故郷を思う人々の心は変わらず受け継がれているようです。

平成22(2010)年8月掲載

■参考文献 
『大曲市史 第二巻 通史編』

 

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