戦国時代、織田信長や豊臣秀吉などの有力大名が天下を統一しようとしていた頃、大仙市の半道寺地域は、角館を中心に勢力を持っていた戸沢氏の支配下にありました。
戸沢家18代当主の戸沢盛安は「鬼九郎」と呼ばれ、領内の掌握と中央勢力との交流を図った名将でしたが、豊臣秀吉の小田原攻めに参戦しようとした矢先、若くして戦死してしまいました。跡を継いだ弟の光盛は17歳でしたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に参戦する途中、姫路で疱瘡にかかり亡くなってしまいました。光盛には跡取りがいなかったため、戸沢家はお家断絶の危機に直面したのです。
その時、家臣の一人が「盛安に愛妾がいて、男子をもうけた」という噂を耳にします。愛妾の名は「さん子」、半道寺地域の「大清水(おおしづ)」という清水の側で旅人に甘酒を売っていた評判の美女でした。鷹狩りで半道寺を訪れた盛安が、さん子の家で雨宿りした際に見染めて、何度も通っていたと伝えられています。
その後生まれた一子「申松(さるまつ)」は8歳の時に、戸沢家の後継ぎに迎えられることになりました。子供心に、もうこのふるさとには戻ってこられないと感じていたのでしょうか。桜を一株駕籠に入れさせたのですが、やはり「籠の中が狭い」と植えて去って行ったと言われています。その地が、現在残る「申松塚」です。桜は大きく成長して長く花を咲かせたと言われていますが、野火で焼失してしまい、今は盛土が残されています。
申松は戸沢政盛と名乗り、戸沢家を継ぎました。その後、関ヶ原の合戦の恩賞として慶長7年(1602年)、常州松岡(現在の茨城県)に徳川家康の命で国替えし4万石を治めました。さらに元和8年(1622年)、38歳の時、新庄藩(現在の山形県)に転封となり、初代藩主として6万8200石の領主となり明治まで11代続く新庄藩政の基礎を築きました。
さん子が半道寺のどこで甘酒を売っていたのか、確かなことはわかりませんが、昔は半道寺地域内に「甘酒」という地名が残っていたようです。のどかな半道寺地域から、歴史の表舞台に躍り出た戸沢政盛。時には、「申松」として過ごしたふるさと、そして残してきた桜を心の中で懐かしんだのではないでしょうか。
平成27(2015)年3月掲載
■参考文献
『町の昔をたずねて』
『西仙北町郷土史 近代編』
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