にかほ市横岡地域は、西暦76年、「山辺のよこし」という人がこの地方をおさめる為に来て住んだのが村の始まりという言い伝えがあります。
また、1390(明徳元)年には、現在の古家の方の先祖が横岡へと移り住んできているとの記録もあります。
戦国時代になると、横岡も群雄割拠の只中におかれます。この時代の由利地域には大名と呼べる勢力はおらず、由利地域は主な15の豪族、数え方は様々な説がありますが、通称「由利十二頭」による領地争いが激化している時代でもありました。それぞれの領地は小さくとも、周囲の秋田氏・最上氏・小野寺氏などと時に同盟し、時に戦い、そして十二頭たち同士もまた合従連衡を繰り返していました。
1603(慶長8)年、関ヶ原の戦い後、横岡は領主変遷に巻きこまれていきます。
まず、関ヶ原の論功行賞によって横岡は山形の最上義光の領地となります。しかしその19年後には、最上氏のお家騒動による国替えにより、1622(元和8)年、横岡は一部を除き、庄内領(庄内)となります。1640(寛永17)年には、横岡の一部は、すべて生駒氏(矢島)の領地となり、他の地域は徳川幕府の直轄領となりました。
最上時代と合わせれば37年、山形を拠点に持つ領主たちが治めていたため、現在でも山形の文化が残る地域となりました。その後、江戸時代のほとんどは、生駒領・徳川直轄領となります。
生駒氏が讃岐から転封の際、一緒に楽師が共についてきていますが、その楽師によって伝わったのが、1964年(昭和39年)11月17日に県指定無形民俗文化財に指定された「鳥海山日立舞」で、現在では豊作祈願と感謝の行事として8月13、15日に奉納されている、横岡の伝統行事になっています。
その後、ようやく領主交替が収まったと思った1804年(文化元年)6月4日、横岡地域を大地震が襲います。この地震は、「象潟大地震」と呼ばれ、潟底が3m50㎝も隆起したという記録が残っており、地震の規模の大きさが見受けられます。
幕末、明治の前年になる1867年(慶応3年)横岡地域はすべて矢島、生駒領となります。
その後、戊辰戦争が勃発、横岡の隣の集落、上郷への庄内藩の奇襲によって戦闘の火ぶたが切られました。横岡の属する生駒領は、このとき官軍側へ味方したことにより、藩へと昇格、1869年(明治2年)には矢島藩となります。1871年(明治4年)廃藩置県により、矢島藩は「矢島県」となり、その年の11月には秋田県に属しています。このように、横岡地域は目まぐるしくその領主や呼び名を変えてきました。
また横岡地域には、昔から受け継がれている行事がたくさんあります。
1998年(平成10年)12月16日に国の重要無形民俗文化財に指定された「上郷の小正月行事」は子どもたちが主体となり、「サエの神」という集落の守り神に子宝や安産、子育てなどを祈願する年中行事です。
2月の初午の日前夜には稲倉宇賀神社で男性たちが2個の平べったい石を持ちあげ、豊作を祈願する「石持ち占い」、初午の日には子どもたちだけで行う獅子舞の奉納行事「初午」があります。
このように古くから伝わる伝統行事は、地域の方々によって受け継がれ、これからも、子どもたちの手で歴史のバトンが繋がって行きます。
集落入り口には、現在までの歴史年表や伝統芸能、見どころなどが簡単にまとめられた看板が掲げられています。
平成23(2011)年4月掲載
■参考資料『象潟町史』
『横岡地域現地案内看板』
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