画像:荒倉館

 国道108号線沿いに、「荒倉館(あらくらだて)を望む」という標柱があります。そこから見る峻厳な山こそ、矢島の英雄「大井五郎満安(おおいごろうみつやす)」が最後に立てこもった「荒倉館」です。

 『由利町史 改訂版』には「西は大手になっていて、それに攻め入るには九十九折りの道を通らねばならぬし、南は数十丈のびょうぶを立てたように山が険しくて、獣も走りがたい~」とあり、さらに北には沢、東には八塩山と守るには最適の城館でした。

 文禄元年(1592年)朝鮮出兵のさなか、大井五郎を狙って仁賀保氏を中心に大井氏以外の由利十二党が一斉に攻めかかってきます。兵力は雑兵含めて約5000人以上! 三方から矢島を包囲された五郎は、矢島城の不利を悟り、山城の荒倉館へと拠点を移します。とはいえ、多勢に無勢は変わらず、家臣たちは脱出を進言しますが五郎は決戦を決意、このため家臣団はさらに三分の一ほども減ったと言われます。

 同年7月27日、連合軍の総攻撃に対して大井五郎は名馬「八升栗毛」にまたがって七尺(約2.1m!)の樫の棍棒をふるって鬼神のごとく敵を蹴散らしたそうです。

 しかし、敵が数に物を言わせ次々と予備兵力を繰り出す中、大井勢は擦り減らされていくばかり。その日の夜、大井五郎は荒倉館から落ちのびます。

 当然ながら追手がかかり、五郎一行は散り散りになり、愛娘の鶴姫ともこのとき別れてしまったそうです。

 重臣たちとも散り散りとなりながら、ようやく妻の実家、羽後町の「西馬音内城」へとたどり着きました。城主小野寺茂道は、五郎を丁重にもてなし共に復讐を誓います。しかし、ここで五郎は仁賀保氏らの讒言に踊らされた茂道の兄、小野寺家当主の義道によって自刃に追い込まれてしまいます。

 現在は、鳥海山国際禅道へと向かう道路の途中から分岐した、舗装道路を通って本丸付近まで向かうことが出来ます。「鳥海山眺望地」の大きな看板が設置されたこの平地こそ、荒倉館のあった場所なんだそうです。そこから下方を見れば、「荒倉館」の標柱がそのことを物語っています。また、周辺には五郎平(ごろうだいら)と呼ばれる地も残っているそうです。
 
 この要害にこもり、大井家の最期と覚悟した時、五郎はどういった気持で鳥海山を眺めたのでしょうか。
 
平成24(2012)年5月掲載
■参考資料
『由利町史 改訂版』
『現地勉強会資料』

 
 

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