小坂町鴇(ときと)地域の歴史に関する最も古い記録は、集落にある駒形神社です。永禄年中(1558~1569)鴇(勝善平)に駒形神社建立とあり、岩手県史五巻にある「南部藩銅産統計表」によると、延宝六(1678)年に鴇の記録が現れます。
その後、鉱山は盛衰を繰り返すものの、鴇の歴史は鉱山と共にありました。
鴇地域で注目されるのは、近代の住宅地を思わせる、碁盤の目状に整然と配置された家と道路です。これは、近代行われた区画整理の結果ではなく、江戸時代に計画性を持って家々を区画していった結果だといわれます。
そのため、「横町」「馬喰町」など、それぞれの通りにはまるで城下町のような名称がつけられており、当時このあたりを治めていた肝煎(庄屋や名主など)が、いかに先見の明をもっていたかが伺われます。
また、アカシア大橋を渡って鳥越から七滝へと向かう道は、古くから十和田湖の青龍大権現(十和田神社)への参道として使われ、江戸時代の紀行家、菅江真澄もこの道を通って十和田湖へと向かっています。
明治維新の後、近代化された鴇鉱山は最盛期を迎え、鉱山で働く鉱夫とその家族たちのために小学校や歓楽街まで建設され、鴇は大集落へと発展します。しかし、大正10(1921)年の選鉱場の火災と共に鉱山は衰退し、古くからの集落を残して、鴇に静けさが戻りました。
鴇は鉱山によって栄えた集落でしたが、鉱山による繁栄の影の部分も深刻でした。かつて国内屈指の規模を誇った「小坂鉱山」に隣接していたための煙害です。明治時代、精練所から大量に出る亜硫酸ガスは鴇周辺の山々を丸裸にしました。煙害対策として植えられた生命力の強いアカシア(ニセアカシア)でさえも、樹高1m程度で成長が止まり、夏は農作物が被害を受け、冬になると煙の成分を含んだ赤い雪が降る状態でした。
戦後、脱硫施設ができると、地域はようやく煙害から開放され、アカシアをはじめ、山の木々は息を吹き返します。鴇地域の周辺でもアカシアの林が形づくられ、切ってもすぐ生え換わる旺盛な生命力から、薪などの燃料としてよく利用されました。
鴇の歴史を見守るように、今も初夏にはアカシアの白い花が甘い香りを漂わせています。
『小坂町史』
『岩手県史』
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