標高100m余りの山あいにある秋田市鵜養(うやしない)地域。
今は自動車で気軽に岩見峡といった観光名所を楽しめるこの一帯ですが、江戸時代からも様々な人が訪れ、紀行家・菅江真澄や亀田藩主、また佐竹藩主に至っては何代にも渡ってはるばるこの地を訪れています。
文政12年(1829)、10代藩主・佐竹義厚(よしひろ)が18歳の頃に、川狩りのために岩見川流域を訪れた記録が残っています。旧暦の6月(現在の7月頃)、岩見村各地で川狩りを行い、鱒などを取って楽しんだそうです。館合という場所では河原に小屋を建て、今では男鹿の名物として有名な石焼料理をここの鱒でつくり、義厚もこれを食したと記録されています。また、鵜養に着いてからは伏伸(ふのし)の滝や舟作(ふなさく)、殿渕(とのぶち)などを見に訪れ、やはりここでも鱒をとっています。さらには川狩りで捕まえた鱒は、お土産として岩見から城へ届けているとも記されています。
この遊覧の際、鵜養で佐竹公の宿泊場所となったのが佐藤家で、今もなお立派な蔵と巨木がそびえる屋敷が集落中央に位置しています。ちょうど義厚が鵜養を訪れた代の、佐藤家の中祖である太吉郎が残した史料によれば、慶長(1596~1615)の頃、もと南部八戸に居住していた一族が南部を離れて各地へ散り、先祖となる太郎右衛門がこの地へ移り住んだのがこの家の由緒とされています。また、その際に一族の目印として植えたのが、今なお佐藤家の門の脇にそびえる天然記念物のモミの木ではないかともいわれています。移住したころには全く石高もなかった土地を開拓し、代々生活を続けてきました。
佐藤家は肝煎(村の代表者。庄屋)、山守として務めました。凶作の際には困窮する民の救済のために米や金銀の施し、あるいは財政難に苦しむ藩への献金などを行いました。ある年には杉の苗数万本を寄付、植林したという記録も残っています。こうした救済措置や藩への貢献から、文政元年(1818)には、通常では武士にしか認められなかった苗字帯刀が許されています。代々の藩主が鵜養を訪れた際はこの佐藤家に宿泊したとされ、またここで書画をかき残していった藩主もおりました。
義厚も書画を残していった一人ですが、この他にも河辺の歴史を知る手がかりとなった古文書などが、昭和の初めにこの家から多数発見されました。現在、それらの多くや、かつて使用された数々の農工具は、県立博物館や河辺三内の農林漁業博物館といった各地の資料館に展示され、人々の生活の歴史を今に伝えています。
『河辺町史』
『河辺町郷土誌』
佐藤家文書『覚』(佐藤太吉郎)
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