三種町下岩川地域の県道4号沿いに「石井漠生誕の地」と記された碑が建立されています。下岩川で生まれた、日本の創作舞踊の先覚者「石井漠(ばく)」の碑です。明治19(1886)年、長面集落の石井龍吉とハツの間に生まれ、本名は忠純。「漠」は芸名で、自らを「をどるばか」と称し、世界にその名が知られた舞踊家です。
父の龍吉は、下岩川村長を務め、下岩川財産区を設立しました。弟の五郎、息子の歡(かん)と眞木は作曲家。歡は秋田県民歌「大いなる秋田」を作曲したことでも知られています。
漠は、秋田中学時代、ストライキに参加したため退学し、小坂鉱山で事務員として働きましたが、仕事がうまくいかず、24歳の時、作曲家を目指して上京しました。文学の道も志しましたが、生活の糧がなく、貧乏生活を送ったといいます。
明治44(1911)年に、帝国劇場歌劇部(オペラ)の第一期研修生に合格し、石井林郎の名で初舞台を踏みました。しかし、指導者の舞踊観と考えが合わず、帝劇を退団。
その後、小山内薫、山田耕作らが参加する劇団「新劇場」に参加したことが、創作舞踊を発表する第一歩となりました。「石井漠」の名は、この時、命名したものです。
舞踊家として、大阪、京都の公演で成功を収めた後、東京浅草で「東京オペラ座」を旗上げし、さらに、大正11(1922)年、ドイツのベルリンの初公演を皮切りにヨーロッパ公演で成功を収めました。アメリカの主要都市でも公演依頼が相次ぎ、世界の石井漠として名が知られるようになります。昭和3(1928)年には、現在の東京目黒区自由が丘に「石井漠舞踊研究所」を設立し、優れた多くの舞踊家が漠の門下生となりました。
漠の舞踊人生は病との闘いでもありました。第二次世界大戦中、大陸慰問公演で交通事故に遭い、顔に重傷をうけて右眼が完全に失明。左眼も虹彩炎を煩い、視力が極端に落ちてしまいます。戦後は甲状腺炎も煩いますが、舞踊への情熱は失われることはありませんでした。昭和29(1954)年、芸術祭文部大臣賞、昭和30(1955)年、紫綬褒章を受賞しています。
最後の公演は、昭和36(1961)年、「石井漠舞踊50周年記念大会」の「人間釈迦」。甲状腺癌を抱えながらも最後まで踊り続け、昭和37(1962年)、75歳で亡くなりました。下岩川地域では、郷土の偉人として漠を敬い、盆踊りや春祭りの衣装に「をどるばか」の文字をいれて地域行事を継承しています。
■参考文献
『山本町史』
『舞踊詩人 石井漠』
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→三種町・下岩川地域が生んだ偉人「石井漠(ばく)」(2018年5月掲載)
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