能代市檜山(ひやま)地域で最も有名な山城跡が「檜山城址」です。
檜山崇徳館(檜山地域センター)の南東に位置する檜山城址は、室町期から戦国期にかけて能代山本地域を治めた「檜山安東氏」の本拠地として知られています。東西1500m、南北900m、大規模な蝦夷館式馬蹄形の山城として名高く、「霧山(きりやま)城」「堀ノ内(ほりうち)城」とも呼ばれました。地域内には檜山城の支城「茶臼館跡」「大館跡」と檜山安東氏の菩提寺「国清寺跡」が残っており、この3つの史跡は檜山城址とともに「檜山安東氏城館跡」として国指定史跡となっています。
史跡の名になっている檜山安東氏の起こりは、北海道から福井までの日本海路を掌握して権勢をふるった「津軽十三湊安東氏」が、南部氏との争いに敗れて北海道松前に逃れ、15世紀中頃に再び南下して檜山に入った安東政季(まさすえ)の一族と考えられています。政季の子・忠季(ただすえ)が明応4年(1495年)に完成させたと言われるのが檜山城で、以後、尋季(ひろすえ)、舜季(きよすえ)、愛季(ちかすえ)、実季(さねすえ)まで5代に渡り檜山安東氏の拠点となりました。
檜山城の堅固さを物語るエピソードとして、天正17年(1589年)に起こった安東家の内紛「湊合戦」があります。檜山安東氏は、秋田市の土崎湊に拠点を構えた「湊安東氏」と主導権争いを繰り広げてきました。安東愛季の代になると、愛季は両家を統合して山本郡から秋田郡一帯を手中に収め、戦国大名として地盤を固めますが、実季の代になると、湊安東氏が反乱をおこし、湊合戦が勃発。檜山城は攻め込まれました。実季は檜山城に150日間籠城し、わずか300挺の鉄砲で10倍の数の湊安東軍に防戦しながら勝利しました。檜山城の南を流れる「むちりき川」が血で染まったとも言い伝えられ、湊合戦の激しさを物語っています。
この後、檜山城は関ケ原合戦後の国替えにより、秋田に入部した佐竹氏の一族が領主となります。小場義政、ついで多賀谷宣家が檜山城代となりましたが、元和6年(1620年)、徳川幕府の一国一城令により、天然の要害と言われた名城・檜山城も廃城の運命をたどりました。現在の檜山城跡は公園として整備されており、能代山本地域を一望することができます。檜山安東氏の歴史に触れながら、いにしえの風情を感じてみませんか。
平成29(2017)年3月掲載
■所在地:能代市檜山字古城・外
■参考文献
『秋田県の歴史散歩』
『羽州街道 その生い立ちを訪ねて』
『羽州街道 その生い立ちを訪ねて』
『現地看板』
『歴史探訪檜山パンフレット』
『歴史探訪檜山パンフレット』
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