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歴史を知る

三又地域の歴史

画像:三又地域の歴史

 横手市三又(みつまた)地域の歴史を『山内村史』で辿ってみると、天文元年(1533年)、高階通類の開拓にまでさかのぼります。

 地元では、奥州藤原氏の滅亡後、“ヤゴロウ”・“タスケ”・“サンゴロウ”と名乗る3人の落ち武者が流れ着いたのが始まりだと語り継がれてきました。三つの集落からなるため、“三又”と名づけられたと言われています。
 
 この地方に数多く伝わる「山内の昔話」の一つ、「三又のヒヒ退治」よると、岩井川(現在の東成瀬村)から引っ越してきた豪傑・大次郎が、三又に移り住んだ草分けだったと言われています。大次郎は仙台からの落人であったこと、ヒヒ退治には“鉄砲”が使われたことが、物語の成立年代を示す手がかりになりそうです。
 
 江戸時代の紀行家、菅江真澄がこの地を訪れたのは、文政8年(1825年)の夏のこと。三又地域についての記述は、著書『雪の出羽路 平鹿郡』に収められています。
 真澄によれば、三又は元々、「三ッ野又」だったものが、享保の頃に「三又」に改められたということです。そして、「云い馴し事とて」、相変わらず「ミツノマタ」と呼んでいる住民の姿に触れています。
 
 続いてつづられているのが、「兜沢(カブトサワ)」「松沢」「桂渓(カツラサワ)」の三本の川が落ち合うことから、三又と称されるようになったのだろう、と真澄は想像しています。
 
 真澄はさらに、弓投(ユナギ)ヶ森という岳を、本来は「ユミナギ」森であったろうとして、後三年の役の挿話を挟んでいます。
 それは、源義家の案内役を務め、馬前の草木を弓と刀で薙ぎ払った勇ましさから、「草ナギ」の姓を賜った仙北市白岩の利右エ門家について。「ナギ」の一字(「弓剪」に草冠を加える)は、「前」・「弓」・「刀」を組み合わせて造られたものです。
 弓や兜をいただく地名の響きが、この故事の雰囲気と「よくよく似たり」と推理を展開させて、三又の章は締め括られています。
 
 急斜面が多く、稲作には条件的に不利な地形であることから、三又では古くから副業が盛んでした。煙草栽培や養蚕に励み、年貢米を購入して納めていたという珍しい地域です。蚕室に用いたことから二階の造りも違い、かつては岐阜県白川郷の民家のような茅葺き屋根が連なっていました。
 また、興行を目的として三又神楽の一団が組まれています。こうした創意工夫の習慣が、前向きで明るい気風を育んだようです。
 
平成22(2010)年4月掲載
■参考文献
『山内村史』
『山内村のむかしっこ』黒沢せいこ著
『雪の出羽路 平鹿郡』菅江真澄著

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