湯沢市院内地域といえば「院内銀山」といわれるほどに、院内銀山は大変有名です。

 また、佐竹氏の重臣が院内地域の内町、御屋敷に住み、管理する重要な土地でした。
 院内銀山は慶長11年(1606年)、村山宗兵衛をはじめとする4人によって発見され、翌年の慶長12年(1607年)に開山となりました。
 初期の労務者は7000人にも上るといわれており、開山のこの年には徳川家康に院内銀を献上しています。院内銀山は金や銀を産出し、その産出量により久保田藩の財政を支える重要な財源となっていました。
 
 江戸時代も中期に差し掛かった天保4年(1833年)、院内銀山は鉱脈の枯渇や木炭不足により衰退を見せていました。そんな中、田んぼや山林などの私財を投じ天保の大飢饉から農民を救った「高橋正作」が、救農対策を兼ねて院内銀山へ木炭を供給したことにより、院内銀山は再び力を取り戻していきました。19世紀以降には新たな鉱脈を発見し、この頃、院内銀山史上一の繁栄を見せました。
 戸数は4千戸、人口は1万5千人、当時の江戸や大阪からは芸妓や落語家など娯楽関係の職業の人々が訪れ、久保田城の城下町を凌ぐほどに栄えた院内の町は、「出羽の都」と呼ばれるまでに成長しました。
 
 明治時代には、雄勝峠の整備により大量の鉱物の輸送が可能になったことで、院内銀山の功績が明治天皇のお耳にも入り、ついに1881年(明治14年)9月21日には明治天皇が御巡幸されたのです。この時、天皇が自らお入りになったのがその当時「5番坑」と呼ばれていた、現在の「御幸坑(みゆきこう)」でした。その他にも「大切疎水道(おおぎりすいどう)」などを御覧になり、明治天皇が鉱山分局にて休息された際には、分局の近くの天然の湧水を使った湯茶を献上しました。明治天皇はその湧水をいたく賞賛され、そののち、泉は「御膳水」と名付けられました。
 このように、数々の功績を上げてきた院内銀山でしたが、明治時代末期頃、銀の価格が暴落し、銀山には暗雲が立ち込めました。
 
 その後、規模を縮小しながら続けてきた院内銀山でしたが、大正9年(1920年)には、とうとう採掘停止に至ってしまいます。
 
 昭和年代には探鉱所を設け再興を目指しましたが、昭和29年(1954年)、ついに完全に閉山となってしまいました。
 開山から閉山までの歴史は350年。院内地域の歴史を形作ったのは、「院内銀山」といっても過言ではない程に長く激動の歴史があった銀山です。
 また、明治天皇が御巡幸された9月21日は院内地域では「鉱山記念日」とされ、院内銀山を舞台とした「院内銀山まつり」が現在も行われています。
 数々の歴史を残した「院内銀山」は「院内銀山跡地」として、今もその歴史を刻み続けています。 
 
平成24(2012)年5月掲載

■参考文献
歴史を刻む銀山と関所の町 院内/編『過疎集落自立再生対策事業実行委員会
(特定非営利活動法人 おがちふるさと学校、秋田まるごと地球博物館ネットワーク、院内地域づくり協議会)』

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