仙北道(みち)の歴史は、はるか平安の時代にまで遡ります。
決まった名称がなく、手倉越、中山道、せんだい道、せんぼく道など様々な名称がありました。パンフレットでも、岩手県側では「仙北街道」、秋田県側では「仙北道」と呼ばれています。
延暦21年(802年)、坂上田村麻呂が胆沢城を築城した際、雄勝城とを結ぶ最短距離として仙北道が開かれたと言われています。前九年の役(1051年~1061年)や後三年の役(1083年~1087年)でも、この街道を源義家が越えたとも言われ、それに関連した伝説も残っています。このように当初は太平洋と日本海を結ぶ軍事道路としての性格が強かったようです。
その後、時代が中世に移り変わると、街道は経済・文化の要路と変わっていきます。戦国時代、経済・文化が飛躍的に向上し、人と物の行き来が活発になる中、ここ仙北道も仏教、キリスト教が伝播する道としての記録が残っています。
関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が秋田へと移封された時、椿台地域の隣、手倉に番所が作られます。番所は、通行人の取り調べ、罪人の国外(現在の宮城県方面)への追放、そして藩士の宿の提供、あっせんなどをしていました。当時、藩ごとの境は今で言う国境に近いものがあり、この番所が事実上の入国審査の役目をしていました。役人は人と荷物の行き来を厳しく監督していた一方で、地元では地蔵の首を在任の首代わりに斬り罪人を解放した「首もげ地蔵」(地蔵が助けたのだからしょうがないと解放されたそうです)が残っていたり、秋田を追放される罪人に「向こうへ行ったら秋田へ戻ってしまうからな、絶対にこの道を行くんじゃないぞ!」と秋田へ戻る道を丁寧に示しながら縄を外したこともあったりしたと言います。
無論、厳しい刑罰を受けた罪人も多いことでしょう。しかし、こうして逃がされた罪人たちは、止むにやまれぬ事情で罪を犯してしまったのだろうと思います。それを知った役人の優しさも感じられるエピソードです。
■参考文献
『東成瀬郷土誌資料』
『歴史の道 仙北道を歩こう』配布資料
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