迷路の町並みに残る中世の山田

 大館市山田地域を一望できる高台にある八幡神社は、通称「勝山八幡」と呼ばれています。

 戦国時代、勝山越後三郎という地侍が治めたこの場所には「山田館」と言われる城がありました。旧山田小学校に飾られた集落マップにも登場する勝山越後三郎は、山田の人々に愛されてきた地域を象徴する人物です。戦国時代の侍の石碑を昭和に入ってから建立するところに、山田の人々の勝山越後三郎への愛着がうかがえます。

 山田の名が歴史に多く登場するようになるのは鎌倉時代。比内地方を治めた浅利氏が山田と関わり始めてからです。浅利氏は甲斐源氏の流れをくむ一族。平安後期の源平合戦で活躍した浅利義遠は「三与一」と呼ばれ、那須与一、佐奈田与一と並ぶ弓の名手でした。恩賞として比内地方が浅利氏に与えられ、秋田の県北エリアを舞台に浅利一族の名が歴史に登場することになります。
 
 勝山越後三郎が登場する時代は、浅利氏が安東氏、南部氏、津軽氏との勢力争いを繰り広げた時期と重なります。山田には山田館跡を中心に多くの中世城館跡が残っており、浅利氏にとって要害の地であったことをうかがわせます。小高い丘を中心に、迷路のように入り組んだ町並みが残る山田集落の姿からは、中世の侍の名残を見ることができます。
 
 豪快な人物のエピソードが残されているのも山田の歴史の特徴です。長慶金山の開発で名高い伊多波武助は、山田にある洞雲寺の再建費用を「全て負担した」と伝えられています。名僧を輩出している洞雲寺は、山田の歴史を語る上で欠くことができません。火災による焼失と再建を繰り返したこの古刹には伊多波武助が金山で死亡した鉱夫を慰霊する目的で建てた宝篋印塔という塔が残っています。
 
 森林資源に恵まれた山田には多くの入会地があり、ジンジョ様などの道阻神は農耕が盛んな地域ならではの文化とも言えます。また、農耕にはほとんどの家で馬を使用したといい、山田には中世の武士の根拠地だったころの名残が色濃く残されているようです。
 
平成22(2010)年4月掲載
 
■参考文献
『田代町史』

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