画像:加茂青砂と日本海中部沖地震

 昭和58年5月26日、日本海沖を震源地とするマグニチュード7.7の巨大地震が発生しました。この地震は「日本海中部沖地震」と呼ばれ、27年の歳月が経過した今でも、大きな被害を被った秋田県・青森県の方々のみならず、多くの人々の心に深く刻まれています。

 ここ加茂青砂でも合川南小学校の児童13名が津波に飲み込まれ、その尊い命が奪われました。今回の加茂青砂の取材にあたり、現在加茂青砂の菅原繁喜さんから当時のお話聞かせていただきました。

 繁喜さんは当時、男鹿西海岸を行来する遊覧船の船長をしていました。門前を11時20分に出発し12時ころに旧男鹿水族館に着く予定の遊覧船は、着岸寸前、海底に強く叩きつけられたかのような衝撃を受けました。船底を岩礁に乗り上げてしまったと思い、急いで船を岸に着けると、陸地では多くの人々が地震だ!と、慌てふためく姿があったそうです。直後、「津波だぁー!」の叫び声が聞こえてきたため、繁喜さんは高台へと避難しようとしました。左へ曲がる登り坂の途中、後ろを振り向くと津波が押し寄せ、先ほどまで運転していた遊覧船が防波堤を超え岩壁へと運び揚げられ、車が海へと流されていくという凄まじい光景を目撃しました。手も足もでない状況の中、とるものもとりあえず、自宅のある加茂青砂へと車を走らせました。

 到着すると、集落内では「子供が流された!」という叫び声が響いていました。さっそく救出に向かおうとしましたが、繰り返し押し寄せる津波のため高波がうねり、子供たちのリュックサックや水筒などが波間に浮かび、船が出せない程の荒れ狂った状況でした。海と共に生きてきた繁喜さんもこの時は恐怖を感じたそうです。しかし、漁師仲間・石川幸美さんの「シゲ!乗れ!」の言葉で意を決し、船に乗り込みました。

 遺留品や漁道具が散乱する海を進み、津波によって流された多くの人々を救出しました。救出・捜索は地震発生から3日後まで続きました。当時、子供たちの遺留品の散乱する加茂青砂の映像は、全世界で放送され、人種問わず世界中の人々へ大きな衝撃を与えました。合川南小学校へはローマ法王を始めとするたくさんの人々がメッセージが送られています。

 その後、「旧加茂青砂小・中学校」近くには、高さ約3mの慰霊碑が海に向けて建てられています。慰霊碑は「加茂青砂老人クラブ」で大切に管理され、毎年5月26日には、多くの遺族の方々や、当時の合川南小学校の生徒、先生方が加茂青砂へ、献花に訪れています。

平成23(2011)年3月掲載

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