青森県東津軽郡平内町、下北半島を対岸に望む陸奥湾夏泊半島の大島海浜パークに「ほたて養殖」の顕彰碑があります。
陸奥湾ホタテ養殖の基礎を築いた山本護太郎博士とホタテ養殖産業の指導者、故豊島友太郎翁の業績をたたえて建立されたものです。

 山本護太郎氏(1914~2005年)は湯沢市下院内出身。昭和11(1936)年、東北帝国大学(現在の東北大学)理学部に入学、卒業時に「助手にするので青森に水産実験所を造ってホタテをやりなさい。」と指示を受け、昭和15(1940)年4月、青森市の県水産実験場陸奥湾分場を間借りする形で東北大学青森水産実験所を開設して研究を始めました。
  戦時中、一時、基礎研究が中断されましたが、昭和18(1943)年、養殖技術の重要なヒントをつかみ、これが基礎となり昭和23(1948)年、世界で初めてホタテの人工採苗(人工産卵)を成功させました。漁業者ばかりでなく、山本氏本人をも勇気づける快挙でした。

 それまで、陸奥湾の天然ホタテは10~20年に1回大量発生していて、そのときだけは大漁、しかし後はほとんど水揚げがないという状況を繰り返していました。そのため、陸奥湾の漁業者は北海道や樺太方面へ出稼ぎに出ていました。山本氏は漁業者の家に泊まり込み、ホタテ養殖の必要性と意欲を促すため、講習会を日夜開催しました。
 その後、漁業者たちは実験と試行錯誤を繰り返し、ついに昭和36(1961)年、ホタテ貝の稚貝の採苗に成功しました。これにより生産高が飛躍的に伸びていったのです。

 数々の成果を残した山本氏は昭和24(1949)年に東北大学の助教授に就任、青森を離れます。
 順調に見えたホタテ養殖でしたが、昭和50(1975)年、大量の稚貝のへい死が発生しました。だれもが原因を割り出すことが出来ず、再び山本氏を呼ぶことになりました。
 すぐに駆けつけた山本氏は話を聞いて、原因をずばり指摘。総量規制(適正量を守ること)を基本にすることで、養殖は仕切り直しとなり、生産量は再び右肩上がりで上昇し、ついには昭和58(1983)年、青森県内でコメ、リンゴに次ぐ百億円産業に成長しました。

 青森県内において、数々の功績を残した山本氏は、広く県の模範となり、公共の福祉の増進に功労があった人に贈られる「青森県褒章」を平成11(1999)年に受賞しています。
  平成13(2001)年、山本氏は故郷(湯沢院内)の自然が失われてきているので、ビオドープのようなものをつくり、子どもたちに自然を観察させ、それを通して人を思いやる心を養ってもらいたいと、旧雄勝町に指定寄付をします。これを受け町では、院内小学校の総合的な学習の時間の一環としてホタルの里を目指して調査、研究等を繰り返し、平成15(2003)年、11月に保護池が完成しました。ホタルを通して、他校との交流も始まったのです。
 このように、「津軽海峡を豊穣の海とした男」として、山本護太郎博士は、近年、院内地域でも広く知られるようになりました。
 また、山本氏の功績が縁で、青森県平内町とも交流を深めていて、毎年、「おがち道の駅」にてホタテ貝や海産物の即売会が開催されているほか、院内地域のイベントにおいても“山本護太郎先生の故郷で「青森ほたて」を食す会”でホタテ料理を販売したり、湯沢市と平内町の子どもたちが交流する事業などが実施されています。

令和6(2024)年3月掲載

■参考文献
院内銀山史跡保存顕彰会/会誌

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