明治末期~大正時代、仙北市北部川崎地域の雫田(しずくだ)集落の北西約1kmに沢山の人が住んだ場所がありました。
入見内川の上流、狭い谷間に500世帯2000人もの人々が居住する鉱山街がありました。現在の藤里町の人口(4400人強)の約半数近い人々が、山間の狭い土地に居住していたことを考えると、その人口密度は大変なものだったことが伺えます。
この街の人々は、江戸時代に佐竹藩が金山として採掘し、明治・大正時代に最盛期を迎えた「日三市鉱山」のためだけに集まってきました。
明治9年(1876年)年に、大仙市協和の荒川鉱山と共に瀬川安五郎という人物が明治政府から鉱山を購入し、その後、明治29年(1896年)に三菱に経営が移り、本格的な近代化が始まります。明治40年(1907年)~大正5年(1916年)に全盛期を迎え、先述の2000人の街が誕生しました。病院や郵便局、そして共同市場になんとお寺まで、ありとあらゆるものが揃っていたと言います。
また鉱山からは旧中川村へ毎年かなりの大金が寄付されており、繁栄ぶりを伺わせます。しかし、大正期に入ると次第に衰退し、第一次世界大戦終戦による不景気、さらに大正12年(1923年)には坑内火災、繁華街での火災と立て続けに災厄に見舞われ、この年に休山してしまいます。
現在は、巨大な鉱山施設跡、ズリ山(捨てられた鉱石以外の山)などが残っています。鉱山施設は「からみ石」と呼ばれる、精錬の途中でできる金属以外の岩石から生まれたレンガを斜面を利用して何段にも工程ごとに積み上げ、まるでお城のような佇まいを残しています。
また、山へと向かう砂利道は硬い石である水晶が多く含まれ、車にとってはちょっと辛い道となっています。入見内川の川原には今も茶椀の欠片などが見つかり、その当時をしのばせます。
鉱山施設跡まで行くのはちょっと大変ですが、鉱山の雰囲気を味わいたい人にお勧めなのが、雫田集落の家々で見られる「からみ石」の数々です。鉱山が近かったことで手軽な資材として家や土蔵の回りに使われ、独特の七色の鈍い光を放っています。
※鉱山施設跡、ズリ山は大変危険な場所にあります。地元の方の許可、案内での入山をお願いします。
平成24(2012)年5月掲載
■参考文献
『角館誌 第五巻 明治時代大正時代編』
『広報せんぼく(平成23年12月16日号)』
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