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歴史を知る

松館集落の歴史

画像:松館集落の歴史


 松館地域は、その昔、七ヵ村からなる旧曙地区に属し、南部藩花輪代官所の支配を受けていました。南部藩(盛岡藩)は現在の岩手県中北部、青森県東部にかけて収め、松館もその支配下にありました。秋田県に属したのは、明治3年のことでした。

松館が密接に関係していた「尾去沢鉱山」は、708年(和銅元年)に始まり、明治に入り、松館地域の人々も農業を行いながら、近代化された尾去沢鉱山で働いていました。
また、自分たちで作った野菜や米などを鉱山に売りに行っていたため、農作物は飛ぶように売れ、最盛期には松館で生産されていた米はすべて尾去沢で消費されていたと言うから驚きです。
 
 農村地帯である松館では、農作業の休日「農休日(のうきゅうび)」を設けており、それは現在も続けられています。農休日は、よその地域から嫁いできたお嫁さんの負担を軽くし、自分の時間をもってもらうために設けられたもので、1ヶ月に1、11、21日と3回あり、昔は農休日を破って働いてしまうと、なんと鶏1羽にお酒5升の罰則がありました。このお酒と鳥は、農休日を監視していた青年団の夜の宴会に使われたのは言うまでもありません。
 
 また、田植え上がりにも農休日は3連休になっており、かつてはこの一日目に皆で集まって運動会を行っていました。現在でも、毎年6月の一週目の日曜日には、「松館グラウンド」で、誰でも飛び入り自由の運動会が開催されています。
 
 「松館グラウンド」は、戦国時代ごろには「ハサバ長根」と呼ばれていました。その近くには地元の豪族の拠点として、天神館跡、そして精左エ門館跡があり、この3つは、まとめて「松館」と呼ばれていました。
松館は、米代川の左岸、三ノ岳のふもとの松館部落の北方に広がる標高約200mの台地縁端に位置しており、南方にある「石鳥谷館」とは危急に備え、裏山づたいに連絡路が隠されていたと伝えられています。秋田比内との国境を峯越しに控え、秋田の安東氏や、比内の浅利氏に備えていたものか、とされています。
松館の北側にある天神館は、細長い形をしており、天神社菅原神社が祀られています。
そのすぐ南側には精左エ門館があり、その館主の松館清左エ門精長は菅原神社に深く関係がありました。  
鹿角では唯一、松館地域のみが菅原神社を祀っており、秋田県指定無形民俗文化財に指定されている「松館天満宮三台山獅子大権現舞」を奉納するなど、地域の方々から親しまれている神社となっています。

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