洋画家、芹沢幸子さんが銀座個展のDVDを制作
福岡・秋田県人会会員で洋画家の芹沢幸子さんが、今年4月28日から5月4日まで、東京銀座にあった新井画廊で開催した個展のDVDを制作しました。

個展の標題は、‐Mes souvenirs-我が追憶。
昨年訪れた岩手県雫石市をはじめ、国内の風景画新作など23点を展示しました。

芹沢さんは、福岡市中央区渡辺通の自宅兼アトリエ近くのライブハウスで出会ったバンド、「ザ・ウォームガン」のミュージシャンと意気投合し、リーダーの権藤与志史(よしふみ)さんらが、会場のオープニングに駆けつけて、ビートルズ・ナンバーをライブ演奏しました。
芹沢さんは、立教大学で心理学を学んだ後、30代半ばで洋画家を目指し、武蔵野美術短大や九州産業大学大学院で絵画を専攻しました。
数学者のご主人と、パリで13年暮らしたこともあり、これまでの作品はフランスの風景画が中心でした。

右側が芹沢幸子さん

芹沢さんが福岡・秋田県人会に入会されたのは、父親の三浦冨治郎さん(1903~1991)が秋田県大館市の出身だったからです。
三浦冨治郎さんは、旧制大舘中学から旧制高校に当たる早稲田高等学院、更に早稲田大学に進学しました。
大学時代は野球に打ち込み、卒業後は九州電力の前身、東邦電力に入社します。
更に熊本電鉄にヘッドハンティングされ、熊本県内随一の進学校、県立熊本高校の野球部監督に就任します。

三浦監督は、1953年(昭和28年)と1955年(昭和30年)、熊本高校を夏の甲子園に導きました。
野球部のグラウンドには、高さ130㎝、幅70㎝の石碑が建っています。


石碑には、三浦冨治郎監督の顔レリーフと共に「選手である前に熊高生」であれ、と監督の言葉が刻まれています。
地元で熊本工業校と区別するため「くまたか」と呼ばれる熊本高校は、この後、春の選抜も含めて甲子園の土を踏んでいません。秋田から九州へ、郷土の先輩たちは大きな足跡を残しています。
