No.2 不世出の探検家、白瀬矗のゆかりの地を訪ねて

 2016年9月、没後70年を迎えた白瀬矗(のぶ)。にかほ市金浦出身で、日本人として初めて南極大陸を探検し、「白瀬海岸」「大隈湾」などの名を残した元軍人で探検家の首都圏ゆかりの地を訪ねます。

 

港区立埠頭公園

 1910年11月29日、白瀬が開南丸で出帆した埠頭は、現在は埋め立てられ港区埠頭公園となっています。公園の一角には、南極探検25周年を記念して、大隈信常、三宅雪嶺らが建立した、ペンギン像や探検隊員名のある「南極探検記念碑」があります。

 「記念碑」は、戦後、長らく人々から忘れ去られていましたが、白瀬研究家の湯川武弘さんが見つけ、自ら清掃を続けながら、各方面に修復を働きかけました。その努力が実り、1982年、港区が大規模な改修を施し、今日の姿になっています。両脇にあるペンギン像は、改修の際に作られた二代目になりますが、痛みが酷かった初代ペンギン像は、港区が修復し、白瀬の墓所の浄蓮寺に据えられました。

 2010年には開南丸芝浦出航100周年記念式典が行われ、佐竹知事も参列。それをきっかけに、毎年8月に埠頭公園で行われる夏祭りに「なまはげ」が参加。2016年には「西馬音内盆踊り」も加わり、白瀬出航の地は再び秋田とのつながりが強くなっています。

 

第二の船生を送る初代「しらせ」

 2011年、東京の民間企業が、永年、南極観測船として活躍した初代「しらせ」をリニューアル、新生「SHIRASE」として、船橋港に繋留、内部を一般公開しています。

 海上自衛隊の艦船の名前は、名所旧跡からとることとされており、「しらせ」の名は、公式には直接白瀬矗からではなく、1961年に日本南極観測隊により命名された「白瀬氷河」に由来しています。

 「しらせ」という船名は現在の南極観測船にも引き継がれ、日本人で初めて南極圏を探検した白瀬の偉業を現在に伝えています。

 

白瀬矗の墓所

 白瀬の墓所は3か所、白瀬の実家の浄蓮寺、愛知県西尾市の西林寺、そして横浜市の日野公園墓地にあります。浄蓮寺の墓碑には、元内閣総理大臣岸信介の揮毫により「日本南極探検者白瀬矗墓」、西林寺の墓碑には「南極探検隊長大和雪原(やまとゆきはら)開拓者の墓」と刻まれ、白瀬の業績を伝えています。

 横浜の墓所には、長女市川ふみこが、氷山の形を模した墓碑を建立しましたが、現在では訪れる人も少ないようです。

 白瀬矗由縁の地は、この他に早稲田大学の大隈邸跡、我孫子の杉村楚人冠記念館、練馬区土支田の南極井戸など、首都圏にも多く存在しています。

 秋田の先覚ゆかりの地を訪ねてみてはいかがでしょうか。

 

参考文献

・渡部誠一郎(平成3年)『雪原に挑む白瀬中尉』秋田魁新報社

・綱淵謙錠(平成2年)『極』新潮文庫

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