藤井東一は、昭和5年における自らの払田柵跡の研究や地元の人々の動向、多くの見学者や文部省の調査の状況を克明に記した日誌を残している。
それを読むと、払田柵が国指定を受ける前後の、地元の人々の払田柵跡に寄せる絶大な期待と熱意のさまが伝わってくる。
3月の高梨村による調査の後、藤井東一は遺跡の保存策を具体的に講じ、新聞に発表している。
村では「拂田柵阯遺物陳列所」を作り、門柱、柵木などを陳列した。
絵はがきや記念スタンプを作ったのもこの頃である。
拂田柵阯遺物陳列所
~八木橋富喜子氏寄贈の絵はがきより~
文部省の報告書刊行にさきがけて、藤井東一は私費55円を投じて『拂田柵阯実測平面図』1,000枚を印刷、また、高梨村史蹟保存会では上田三平著『指定史蹟拂田柵阯』を発行した。
この本は当時の学会誌に紹介され、多くの購入申し込みがあった。
前者は15銭、後者は35銭の価格で、大場磐雄、滝口宏氏からの申し込み書が残っている。
村では前記陳列所のほか、外柵南門跡地208㎡を借り上げ、門柱の間に溝を巡らせて常に水が流れるように工夫し、門柱の保存を図るとともに研究者が随時観察できるようにした。
この方法は陳列所前の柵木列にも適用された。
さらに、国と県の補助金650円と有志寄付金350円を合わせた1,000円の事業費により、遺跡名と国指定年月日を刻した史蹟標柱、門阯標柱、柵阯標石および注意札を遺跡内の随所に配置する措置をとった。
標柱
また、外柵南門跡地、内柵(外郭)北門跡地の計508㎡は、昭和14年度に高梨村へ寄贈されるに至った。
史跡払田柵跡のもつ絶大な価値を認め、その保存と啓蒙普及に意を注いだのは何よりも地元の人々だったのである。
払田柵の外柵南門の状況を描いた絵(昭和7年頃)
藤井東龍氏 提供