7世紀中頃になると、中央では天皇を中心とした豪族たちが、律令にもとづく支配体制を強めていった。
中央では、藤原京(697年)、平城京(710年)が造られ、全国は60余の国に分けられて国府が置かれた。
国の中には郡が置かれ、住人は50戸で1里に編成されて税が課せられた。
東北地方では、太平洋側に陸奥国、日本海側に出羽国が置かれたが、その北方には国の直接的支配の及ばない広大な土地が広がっており、律令国家が蝦夷と呼ぶ住民が住んでいた。
律令国家は、北方の支配領域の拡大と住民(蝦夷)の支配を目的とした政策を展開した。
東北の古代城柵は、国家がこのような政策を実行するために設けられた拠点なのである。
陸奥・越後・出羽の三国では、諸国の守(かみ)の職掌に加え、特別に「饗給、征討、斥候」の職掌も与えられていた。
饗給とは、宴会を催し、禄物を与えて懐柔することである。
征討とは、軍事力で蝦夷を討つこと、斥候とは蝦夷の動向を探ることである。
これが律令国家の蝦夷政策の基本であった。
城柵には国司四等官、史生、鎮官などの中央派遣官が城司として駐在していたようだ。
城司の下には兵士が駐屯していた。
まだ国家側に充分に服属していない蝦夷の攻撃に備え、必要に応じて蝦夷を征討するためである。
城柵を造営し維持するために他の地域から、柵戸と呼ばれる強制的な移民が行われ、郡が設けられた。
律令制支配が浸透せず、まだ国家に服属しない、さらに北方の世界の人々とは朝貢関係を保ち、物資の交易を行うことも重要な任務であった。
朝貢・交易を通して、それらの人々の住む村々やさらには、沿海州方面の政治的情勢の情報を得ることも必要だった。
城柵の中央部には、国府政庁に類似する構造の政庁があり、その周囲に実務的役割の建物が配される。
それらの外周を築地、柵木、土塁などの外郭区画施設で囲み、それには櫓状建物が付設されることもある。
政庁があるのは、城柵で中央からの派遣官が政務や儀礼を執り行うからと考えられている。
外郭施設や防禦施設があるのは、城柵が軍事的性格をも合わせ持っているからである。
城柵は、国家が北の辺境においてさまざまな政策を遂行するための拠点として造られた、行政と軍事の機能を合わせ持つ施設であったのである。
▼ 東北地方の城柵